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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ
すべての道はローマに通ず 1531年 ローマ
しおりを挟む〈オールバニ公ジョン・スチュアート、フランス王フランソワ1世、教皇クレメンス7世、カテリーナ・ディ・メディチ〉
一人のスコットランド貴族がローマへの道を足早に進んでいる。ジョン・スチュワート、オールバニ公爵である。
彼はとにかく急がなければならなかった。
イタリア半島に来るのは初めてではない。ただ、前は軍の一員として来たので物見遊山をしている余裕などなかった。今回は特使であるので、多少のゆとりはあるものと思ったが、その見通しは甘かった。王は一刻も早くローマ教皇と交渉してこいと命じたのである。
この人が仕える王といえば、スコットランド王であるかと思うところだがそうではない。国王の血筋を引く公爵は残念ながら、イングランドとスコットランドの争いの余波でフランスに亡命するに至った。
オールバニ公にローマ行きを命じたのはフランス王フランソワ1世だった。
フランス王がローマ教皇に出す特使が第一級のスコットランド貴族である。ややこしいことこの上ないが、そこにはフランソワ1世の並々ならぬ思惑がある。フランスの情勢についてはまた後に述べるが、ローマ劫略の後、西欧の覇権獲りに一歩も二歩も先んじることになった神聖ローマ帝国に対して何か手を打ちたい。オールバニ公の派遣はそのための布石であった。
「パヴィアも、ピアチェンツァも、フィレンツェでさえ素通りだ。ヴェネツィアやフェラーラなどかすめることもできないだろう。少しはゆっくりと華麗な町並みを眺めたいものだが……」と馬立ちのオールバニ公はぼやいている。
「きっと、イタリア半島のそこらかしこにある、素晴らしい芸術品の数々を目にしたら帰って来なくなると思われたのでしょう」と供についたフランス人貴族がなだめるように返す。
オールバニ公は黒い帽子をいったん外して汗を拭き、ふたたびきちんとかぶり直した。付けて来たマントはもうとっくに外して、荷物の中に放り込んでしまった。なにしろ日射しがきつく、汗が吹き出るほど暑いのだ。
「ああ、王はレオナルド・ダ・ヴィンチを囲い込んでしまったほどだからな。確かにこの半島じたいが神に捧げられた芸術品のようだ。それにしても、旅人には適度な休息が必要ではないか。交渉の報告に期限を設けられたら、慌ててまっしぐらに進むしかない」
オールバニ公はため息をつく。
◆
フランソワ1世がオールバニ公に交渉を頼んだのは、主に教皇の姪(正確にはいとこピエロの孫)であるカテリーナ・ディ・メディチに関わることだった。
もうだいぶ前のことになる。カテリーナが生まれた直後、フランソワ1世は自分の息子の結婚相手に生まれたばかりの女児をと働きかけていた。しかし当時の後見人であり、先々代の教皇レオ10世は早すぎる婚約の申し入れを受けることはなかった。カテリーナをメディチ家の男子と結婚させようという考えがあったからである。
教皇クレメンス7世がカテリーナの後見人になって以降、彼女の婿はメディチ家の外で求めるという方針に変わった。カテリーナはできるだけ利益の大きいところに嫁がせる、というのが教皇の確固とした考えだった。俗にいう政略結婚というもので、当時は珍しいことではなかった。
クレメンス7世の頭の中にはさまざまな計画が浮かんでいた。カテリーナを誰と結婚させるかということである。
有望な候補はイタリア半島の中でも挙げることができる。
フェラーラ公国当主の嫡子であるエルコレ・デステ、現在のウルビーノ公の嫡子であるグイドバルド・デッラ・ローヴェレ、この二人のどちらでも、ローマおよびフィレンツェにとって無駄な取引にはならない。
フェラーラ公国はおおむねフランスと友好的な関係を保っている。それに加えてヴェネツィアのほど近くに位置するこの国を取り込めばローマにとって心強いことこの上ない。
ウルビーノについてはカテリーナの父親がウルビーノ公爵となっていたが、逝去したことでローヴェレ家に爵位が戻っていた。カテリーナがここに嫁げば、元公爵令嬢ではなく公爵妃として復権することができる。アレッサンドロが神聖ローマ皇帝からフィレンツェの公爵位を与えられるが、ウルビーノにも地歩を固められる。
そして、クレメンス7世の頭の中にはイタリア半島以外の嫁ぎ先もきちんと浮かんでいる。オールバニ公と縁の深いスコットランド王ジェームス5世、イングランド王ヘンリー8世の子という選択肢もある。しかし、イングランド王は艶福家で、それに起因する政争も起こっている。国内情勢が不安定なことが懸念された。
そして、フランス王の嫡子も検討のうちに入っていた。
カテリーナの結婚は「完全な取引」と同じ意味だったのだ。
◆
「もうすぐローマになります」という供の声でオールバニ公はふっと視線を遠くに飛ばす。すでにティベレ川の流れと並走していたので、ローマが近くなったことは感じていたが、いっそう目を凝らしてみる。
彼は遠くにこれまで見たことのない都の姿を認めた。彼は馬を止めてしばらく遠くに見える永遠の都を記憶に留めようとする。
「もっと近くなってから、いや、市街に入ってからじっくり眺めればよろしいのでは」という声に オールバニ公は微笑んで答える。
「入ったら圧倒されてしまうだろう。何しろ永遠の都なのだ。物心ついた頃から永遠の都だと教わり、憧れてきたのだ」
「さようですね。じっくりと心に留めながら進みたいと思われるでしょう」
「そうだな、ただ実際にそれを目にすると、また違った趣がある」
供についている者は首を軽く傾げて、公爵の話の続きを待つ。
「なぜだろうか。ここに来てしきりに、私がこれまで旅してきた道のりが浮かぶのだ。エディンバラからグラスゴー、ロンドン、カレーとフランスに移り、さらに南へ、南へと旅をしてきた。まあ、説明するまでもないが、スコットランドとローマでは気候も大きく異なる。この辺りにヒースはないだろう。こんなに太陽が高いところにあるのだから」
ヒースとは荒地のことである。エリカなどの低い灌木が覆い尽くす荒涼とした景色は、比較的高緯度のイングランド、スコットランド独特の風景である。聞いている男にはヒースの映像がオールバニ公ほどはっきり浮かびはしないが、言っていることは理解できた。
「そうですね、はるばる旅をしてここにたどり着いたということですか」
オールバニ公は今度は首を軽く振ってみせる。
「いや、そんな感傷に浸っている場合ではないな。交渉が不備に終わったら、帰る道もなくなるかもしれない」
2人はまた馬を操ってローマへの道を進んでいった。
◆
教皇クレメンス7世とフランス王特使のオールバニ公はいくどか教皇庁で交渉のテーブルに着いた。スコットランド王の縁戚でもある特使の訪問に、教皇は格段の敬意を持って出迎えた。「オールバニ公を派遣したフランス王のはからいは素晴らしい」と褒めそやしもした。
教皇はすぐ結論を出すことはなかった。
先に書いた通り、カテリーナの嫁ぎ先にはいくつもの選択肢があったからである。それに彼女はまだ12歳である。「前向きに検討したいと思うが、婚姻に適した年齢にはまだ至らないので、しばらくお時間をいただきたい」というのが、オールバニ公が得た最終的な回答だった。
ただ、オールバニ公のローマ訪問は無駄ではなかったようだ。教皇クレメンス7世の心の内ではフランスという選択肢が太くなっていったからだ。もちろんそれを表に出すことはない。持参金やら何やら、この種の結婚には越えなければならない条件がいくつもあり、そこまで詰めた段階でなければ決定とはならない。
そこには政治的配慮というのも出てくる。神聖ローマ皇帝がこの婚姻を好意的に受けとるとは考えづらかった。
「いずれにしても、カテリーナはいったんフィレンツェに戻そう」
教皇クレメンス7世はフランスの特使を見送った後に一人つぶやく。
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂のミサのときの、カテリーナの様子を見たからである。イッポーリトと見つめ合い、はっきりとした愛情を示していた少女の姿を。それは教皇にとって、まったく望ましくないものだった。
あの二人が取り返しのつかないことにならないうちに、引き離すしかない。
イッポーリトもローマからは出すことにしよう。
ようやく愛し合う時間を得たふたりの頭上に、暗雲が立ち込めようとしていた。
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