16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ

バラが庭に咲きほころぶ月 1531年 ローマ

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〈クレメンス7世、カテリーナ・ディ・メディチ、イッポーリト、ルクレツィア・サルヴィアーティ〉

 ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂で教皇クレメンス7世がミサを行なっている。
 ローマ・カトリック教会では5月を聖母マリアに捧げる月としている。ここで捧げられるミサはイースター(復活祭)に続いて、春を象徴する大切な行事といえる。

 聖母マリアに捧げるために築かれたこの聖堂は教皇庁からほんの少し離れているが、エスクイリーノにそびえる聖堂の鐘楼はローマのどこからもよく見える。

〈Áve María, grátia pléna, Dóminus técum; benedícta tu in muliéribus, et benedíctus frúctus véntris túi, Jésus. 
Sáncta María, Máter Déi, óra pro nóbis peccatóribus, nunc et in hóra mórtis nóstræ. Amen.〉(※1)
(アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子(おんこ)イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎えるときも、お祈り下さい。
アーメン)
(※2)

 このときすでに歳月を重ねた聖堂内の柱は荘厳にミサの参加者を迎えている。その中央には『サルス・ポプリ・ロマーニ』(ローマ市民の救い)といわれるイコン、板に描かれた聖母子像が掲げられている。
 天井は天まで届きそうなほど高い。

 カテリーナ・ディ・メディチはヴェールの内から荘厳な聖堂でのミサの様子に深く感動していた。聖堂内部を覆っている見事なモザイクの壁、祭壇にある古いイコンの聖母子の美しさに強く心を動かされながら、一心に祈りを捧げていた。そして、まだ12歳ながら波乱に見舞われた自身の来し方を思い返す。記憶にはないものの、生まれてすぐに亡くした父母の肖像画。そして自分も熱を出して寝込んでのち、フィレンツェからローマへの旅に出たこと。フィレンツェのメディチ邸での短かったが楽しい日々。それを突然変えたローマ劫略とフィレンツェの蜂起……修道院での生活。

 それでも私は生かしていただいた。

 私が今、ここに来ることができたのは、すべて天におられる創造主、私たちの身代りに十字架につけられた主イエス、聖霊の導きによるものです。そして、神の母である聖マリア、私はたびたびあなたさまの包み込むような愛を、シスターとの清貧の暮らしの中で感じてきました。それがどれほど大きな、心の糧となったことでしょう。
 これまで、ひとつ間違えたら命が危ないようなできごとにいくつも出あいました。無事にここまでたどり着いて、サルヴィアーティ家で幸せに暮らせるのは奇跡のようにも思えます。

 パイプオルガンの音が空気を震わせて響き渡る。

 ひたすらに祈るカテリーナの姿を見て、一緒にミサにやってきたサルヴィアーティ夫妻とイッポーリトは微笑んでいる。ようやく彼女が安心して暮らせる日々が来たのだから。
 特にカテリーナをひとりの女性として愛しているイッポーリトは少なくとも、彼女をもう離れたところにはやりたくなかった。そのために自分はどうしたらいいのかと考え始めていた。



 彼は教皇に任命されて枢機卿(すうきけい、すうききょう)となっていた。枢機卿といえば教皇に次ぐ役職であり、終身制が基本になる。クレメンス7世に引き立てられ、おそらくはその後継として任命されたのだ。しかし、イッポーリト自身その役目に対する野望はかけらも持っていなかった。
 メディチ家当主の座はアレッサンドロが手に入れた。なのでイッポーリトは自然と聖職の道を与えられることとなった。説明するのに手間のかからない、明快な事情だった。
 加えて、カテリーナとの結婚の可能性もないのだ。聖職者に妻帯することは許されていない。今の状態のままであれば、イッポーリトはカテリーナがどこかに嫁いでいくのを、ただ見ているしかない。

 もうひとり、ルクレツィア・サルヴィアーティもこのふたりをどうにかして結婚させる手段はないかと考えていた。
 前世紀末にメディチ家の繁栄を現出した大ロレンツォ。その娘である彼女にとって、嫡流の娘であるカテリーナはメディチ家を継ぐのに真にふさわしい人間だった。その血筋だけではない、小さい頃から両親の不在にも関わらずまっすぐに成長してくれたのだ。母のように見守ってきた立場からすれば、少女が何年も幽閉されたような生活をしなければならなかったことが不憫で仕方なかった。
 それに加えてーーこの点は夫のサルヴィアーティも同じ見解だったがーーアレッサンドロがメディチの当主として不適格だという考えも持っていた。そもそも1527年、フィレンツェ蜂起が起こった背景には、アレッサンドロの尊大な振る舞いが市民の不興を買っていたことがあったのだ。

 ともに暮らしていたルクレツィアはそれがアレッサンドロのすべてではないと分かっている。ただかの青年は気性が激しく、ひとつの国を治めるだけの度量はないと感じていた。加えて、彼は教皇の実子なのだ。それを公にすることなく当主に収まるというのは、身内として複雑な感情があった。簡単に、率直にいうなら、「教皇の座もメディチ家当主の座も、フィレンツェの君主の座も親子で独り占めにするつもりか」ということになるかもしれない。

 その意味で穏和で人の話もよく聞き、学問に熱心なイッポーリトの方が人々に好感を持たれるだろうと推察することもできた。

 ルクレツィアはフィレンツェのメディチ邸で暮らしていた頃からずっと、カテリーナがイッポーリトを慕っているのに気づいていた。次第にイッポーリトがその気持ちに応えるようになっていったことも。
 今、ふたりは以前と変わらずよく勉強をしている。しかし前とは違い、ふたりの間には確固としたつながりがあるようにルクレツィアには思える。
 それは愛情というものになるのだろう。

 ルクレツィアはそれを知って正直なところ、小躍りしたいような気持ちになった。このふたりが夫婦になってくれたらメディチ家も安泰だと喜んだのである。それには夫も大いに賛同した。しかしイッポーリトはすでに聖職者になっている。このままでは結婚することなど夢のまた夢だ。

 方法はひとつしかない。枢機卿およびすべての聖職を返上することである。それをした人はこれまでにもいた。この世紀(16世紀)初めのチェーザレ・ボルジアである。彼は聖職を返上して、軍人になったのである。

 イッポーリトを聖職から退かせるためにはどうしたらよいだろうか、夫婦はたびたび話している。ひとつの切り口にできそうなのは、アレッサンドロの結婚と子どものことだった。
 アレッサンドロは神聖ローマ帝国の皇女マルガレーテと婚約している。これで、メディチ家がハプスグルグ家と縁戚になる。公爵位も与えられる。そのような利点を考えてのものだった。
 ふたりに子が生まれれば、それが男子ならば、さらに何人も生まれれば安泰だろう。
 しかし、必ずしもそうなるとは限らない。その場合、メディチの血を濃く継ぐものを養子に取る必要が出てくる。

 その道筋しかイッポーリトとカテリーナを結婚させる道はないようだと夫妻は話し合っていた。



 サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂でのミサを終えて、一同は帰路につく。道をゆくサルヴィアーティ夫妻とイッポーリトはカテリーナが何かを見つけて先を急ぐので声をかけた。
「どうしたの? カテリーナ」
 カテリーナは道の脇にある小さな庭で立ち止まった。
「おばさま、ほら、いろいろな色のバラがこんなにきれいに咲いているわ!」
「あら、本当に。こんなにたくさん咲いているのね。どなたかが育てているのかしら。見事なものだわ」
「聖母マリアさまのお恵みね、きっと」
 カテリーナはそういって、満面の笑みを見せた。


※1 出典 https://www.traditioninaction.org/religious/b012rpLatin_Rosary.htm
※2 出典 https://www.stviator-kcc.org/祈り/口祷の祈り/
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