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第6章 海の巡礼路(東洋編) フランシスコ・ザビエル
インド南部に迫るバダカ(軍兵) 1544年
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〈フランシスコ・ザビエル、フランシスコ・マンシラス、イニキトリベリン王、ベットム・ペルマル、アルフォンソ・デル・ソーザ総督、コスメ・デ・パイヴァ長官、ジョアン・アルティアガ〉
これから話すことは私の南インド再訪中に起こったことだ。私はツチコリンを中心に村々を回り、ポルトガルから来たフランシスコ・マンシラスを南端により近い、プニカレに派遣していた。しかし、この頃の南インドの情勢を説明しないと、何が起こったか理解してもらうのは難しいと思う。
どこから説明したらよいか、ヘロドトスのようになってしまうが、インドの歴史をおおまかに話そうと思う。
この地域の歴史は古い。インダス川流域から栄えたこの地域の文明は人類の歴史でも最も古いうちのひとつだ。バラモンの僧侶たちが言っていたが、彼らの教典『ヴェーダ』が成立したのが紀元前1500年頃のこと。文明はそのはるか前からあったと彼らは言う。バラモン教の土壌から仏教が興ったのは紀元前6世紀のことだ。
この地域では長くバラモン(ヒンドゥー)教国家の時代が続いていたが、11世紀頃からイスラム王朝が進出してくるようになる。西方から来たガズナ朝とゴール朝に始まり、デリー=スルタン朝と総称されるイスラム王朝がインドの北半分を250年ほども支配するようになる。
それは16世紀には衰退し、ヒンドゥー教のヴィジャヤナガル王国が台頭し、大勢力となっていた。また、北方ではイスラム教のムガル帝国が目覚ましく発展していた。私たちがインドに入った頃のインドは大きくヴィジャヤナガル国とムガル国が二大勢力だった。ただし、ムガル国はこのときまだ大きな影響を与えていない。
このときインド南端の地域はヴィジャヤナガルの勢力圏から外れていた。さらに話が細かくなるが、私たちに大きな影響を与えたのはこちらのほうなのだ。
南インドには大きく分けて二つの勢力がある。コモリン岬(インドの南端にあたる)の東、タンブラパルニ川の河口にいたる海岸線と内陸部一帯はイニキトリベリン王の支配下にあった。この王は「大王」と自称していた。彼は近隣の地の領主であるトラバンコール王と同盟を結んでいた(著者注 太守とも解釈できる)。
次に、タンブラパルニ川の北方にあるツチコリンからベンパーにいたる海岸線と内陸は、バンディア家という名家のベットム・ペルマルという当主が治めていた。このバンディア家はインド南部の北東部を広く領していた。
イニキトリベリン王とバンディア家、この2つがインド南部を二分する勢力だった。そこに、インド北方のヴィジャヤナガル国、そしてポルトガルが関わってくるのだ。
セサルはゴアで、「ヨーロッパ並の武力を持っているのはオスマン・トルコぐらいだろう」と言っていたが、確かにポルトガルの持つ武器はインドの領主にとって垂涎(すいぜん)ものだったようだ。そこに沿岸で採れる真珠の利権をめぐる争いも加わる。
真珠の採取権は1524年にポルトガルが手にしている。ツチコリンにはポルトガル人長官が駐留して、採れた真珠を一手に扱っている。大量な武器と引き換えにその権利を得たのである。それを快く思わない者がいることは明らかだった。
ただ、為政者の思惑によって矢面に立たされるのは、いつも力のない人々だ。
インド南部を領土にしたいヴィジャヤナガルはイニキトリベリン王を支援し、ベットム・ペルマルの領地を攻めさせる。大国の連合ににらまれて窮したベットム・ペルマルの出身であるバンディア家の旧臣らがポルトガルに援助を求める。この段にいたってインド南端は、ヴィジャヤナガルとポルトガルを加えて混乱の様相を呈してきた。
イニキトリベリン王とヴィジャヤナガルの連合にとって、ポルトガルおよびキリスト教徒は敵になったのだ。
敵になる、と一言で表現すれば単純だが、キリスト教徒も宣教師も武器を持った兵士ではない。このきな臭い動きを、人々は不安そうに口にしている。
しかし、対立の構図はさらに複雑になる。
いったんポルトガルを敵とみなしたイニキトリベリン王がポルトガルに支援を求めることを考え始めるのである。徹底的にベットム・ペルマルを孤立させる狙いがあったのだろう。
そこで私自身に驚天動地の事態が起こった。
このときコーチンにいた私にベットム・ペルマルとイニキトリベリン王の双方から、ポルトガルの総督に仲介してほしいという依頼があったのだ。
ソーザ総督とはともに船旅をし、話ができる関係であることは確かだ。
ただ、外交官のような、特使のような役目を宣教師が担うべきものかと私は悩んだ。ポルトガルがどちらに付くべきかを決めるのは総督であって、私ではない。イニキトリベリン王とポルトガルが同盟を組めば私は依頼を果たしたことになり、キリスト教徒は保護されることになるだろう。その代わり、ベットム・ペルマルのバンディア家からは敵とみなされることになる。また、イニキトリベリン王とポルトガル王が同盟を組むことに総督の同意が得られなければ、キリスト教徒は迫害されることになるだろう。どちらにしてもたいへん難しい状況だった。
これが外交官としてならば、現実的な利害に基づく判断ができるのだろう。
このようなときにはどちらにも関わるべきではない。当然そうだと思っていた。戦いに加わりたいと願う聖職者もいたと思うが、それは本来の道ではない。しかし、ポルトガル王によって派遣された私たちはまずポルトガル王、その代理である総督の意に従う必要がある。
ただ、そこにも難しい問題があった。
私はこの道行きで東側の漁夫海岸と呼ばれる一帯を治めるポルトガル人のコスメ・デ・パイヴァ長官と考えが大きく異なっていることにはっきりと気がついた。彼にとって、現地の住民は搾取するための道具にすぎず、キリスト教徒になっているかどうか以前に人々を見下し、強圧的な態度を取り続けた。また、あるポルトガルの官吏が女性を略奪するというできごとも起こった。
これらはひとえに自己の私利私欲にもとずくもので、私たちにとってたいへん恥ずべき行為であった。
二人の領主にあっせんを頼まれる困難もさることながら、自身の身内とでもいうべきこのポルトガル人支配層の傲慢とも対峙しなければならなかったのだ。
差し迫った問題は、どちらが地域を圧するにしても、負けた側の報復で信徒に危険が及ぶことだった。この頃、私たちが洗礼を授けた人々は1万を越えていた。信徒が危険な目に遭うなど絶対にあってはならない。私は信徒を守るために自分がしなければならないことについて、日夜考え続けた。
プニカレに赴いたフランシスコ・マンシラスのことも気がかりだった。マンシラスとともに行動しているのはポルトガル人のジョアン・アルティアガとインド人の少年マテオ(洗礼名)だったが、手紙によるとアルティアガの品行があまりよくないことが書かれていた。
問題はあらゆるところにあったのだ。
1544年春のことだった。
私はコーチンからマナバルを訪れしばらく滞在して、4月の後半には本格的に大王と領主の依頼を総督に働きかけることに取りかかった。
バダカと呼ばれる軍兵たちはすでに一部の村々を襲撃しはじめていた。彼らはイニキトリベリン王を支援する名目でヴィジャヤナガル国から派兵されてきたのである。インド南部一帯が非常事態に陥っている。
イニキトリベリン王の使者はたびたび私のもとを訪れ、私が総督に同盟を組むようとりなしてくれれば、信徒を保護すると伝えてきた。
もう躊躇している暇はない。私は総督に、雨季が明けたらすぐに南部の地に出向いてもらたいと手紙を書いて託した。
信徒を守るために。
これから話すことは私の南インド再訪中に起こったことだ。私はツチコリンを中心に村々を回り、ポルトガルから来たフランシスコ・マンシラスを南端により近い、プニカレに派遣していた。しかし、この頃の南インドの情勢を説明しないと、何が起こったか理解してもらうのは難しいと思う。
どこから説明したらよいか、ヘロドトスのようになってしまうが、インドの歴史をおおまかに話そうと思う。
この地域の歴史は古い。インダス川流域から栄えたこの地域の文明は人類の歴史でも最も古いうちのひとつだ。バラモンの僧侶たちが言っていたが、彼らの教典『ヴェーダ』が成立したのが紀元前1500年頃のこと。文明はそのはるか前からあったと彼らは言う。バラモン教の土壌から仏教が興ったのは紀元前6世紀のことだ。
この地域では長くバラモン(ヒンドゥー)教国家の時代が続いていたが、11世紀頃からイスラム王朝が進出してくるようになる。西方から来たガズナ朝とゴール朝に始まり、デリー=スルタン朝と総称されるイスラム王朝がインドの北半分を250年ほども支配するようになる。
それは16世紀には衰退し、ヒンドゥー教のヴィジャヤナガル王国が台頭し、大勢力となっていた。また、北方ではイスラム教のムガル帝国が目覚ましく発展していた。私たちがインドに入った頃のインドは大きくヴィジャヤナガル国とムガル国が二大勢力だった。ただし、ムガル国はこのときまだ大きな影響を与えていない。
このときインド南端の地域はヴィジャヤナガルの勢力圏から外れていた。さらに話が細かくなるが、私たちに大きな影響を与えたのはこちらのほうなのだ。
南インドには大きく分けて二つの勢力がある。コモリン岬(インドの南端にあたる)の東、タンブラパルニ川の河口にいたる海岸線と内陸部一帯はイニキトリベリン王の支配下にあった。この王は「大王」と自称していた。彼は近隣の地の領主であるトラバンコール王と同盟を結んでいた(著者注 太守とも解釈できる)。
次に、タンブラパルニ川の北方にあるツチコリンからベンパーにいたる海岸線と内陸は、バンディア家という名家のベットム・ペルマルという当主が治めていた。このバンディア家はインド南部の北東部を広く領していた。
イニキトリベリン王とバンディア家、この2つがインド南部を二分する勢力だった。そこに、インド北方のヴィジャヤナガル国、そしてポルトガルが関わってくるのだ。
セサルはゴアで、「ヨーロッパ並の武力を持っているのはオスマン・トルコぐらいだろう」と言っていたが、確かにポルトガルの持つ武器はインドの領主にとって垂涎(すいぜん)ものだったようだ。そこに沿岸で採れる真珠の利権をめぐる争いも加わる。
真珠の採取権は1524年にポルトガルが手にしている。ツチコリンにはポルトガル人長官が駐留して、採れた真珠を一手に扱っている。大量な武器と引き換えにその権利を得たのである。それを快く思わない者がいることは明らかだった。
ただ、為政者の思惑によって矢面に立たされるのは、いつも力のない人々だ。
インド南部を領土にしたいヴィジャヤナガルはイニキトリベリン王を支援し、ベットム・ペルマルの領地を攻めさせる。大国の連合ににらまれて窮したベットム・ペルマルの出身であるバンディア家の旧臣らがポルトガルに援助を求める。この段にいたってインド南端は、ヴィジャヤナガルとポルトガルを加えて混乱の様相を呈してきた。
イニキトリベリン王とヴィジャヤナガルの連合にとって、ポルトガルおよびキリスト教徒は敵になったのだ。
敵になる、と一言で表現すれば単純だが、キリスト教徒も宣教師も武器を持った兵士ではない。このきな臭い動きを、人々は不安そうに口にしている。
しかし、対立の構図はさらに複雑になる。
いったんポルトガルを敵とみなしたイニキトリベリン王がポルトガルに支援を求めることを考え始めるのである。徹底的にベットム・ペルマルを孤立させる狙いがあったのだろう。
そこで私自身に驚天動地の事態が起こった。
このときコーチンにいた私にベットム・ペルマルとイニキトリベリン王の双方から、ポルトガルの総督に仲介してほしいという依頼があったのだ。
ソーザ総督とはともに船旅をし、話ができる関係であることは確かだ。
ただ、外交官のような、特使のような役目を宣教師が担うべきものかと私は悩んだ。ポルトガルがどちらに付くべきかを決めるのは総督であって、私ではない。イニキトリベリン王とポルトガルが同盟を組めば私は依頼を果たしたことになり、キリスト教徒は保護されることになるだろう。その代わり、ベットム・ペルマルのバンディア家からは敵とみなされることになる。また、イニキトリベリン王とポルトガル王が同盟を組むことに総督の同意が得られなければ、キリスト教徒は迫害されることになるだろう。どちらにしてもたいへん難しい状況だった。
これが外交官としてならば、現実的な利害に基づく判断ができるのだろう。
このようなときにはどちらにも関わるべきではない。当然そうだと思っていた。戦いに加わりたいと願う聖職者もいたと思うが、それは本来の道ではない。しかし、ポルトガル王によって派遣された私たちはまずポルトガル王、その代理である総督の意に従う必要がある。
ただ、そこにも難しい問題があった。
私はこの道行きで東側の漁夫海岸と呼ばれる一帯を治めるポルトガル人のコスメ・デ・パイヴァ長官と考えが大きく異なっていることにはっきりと気がついた。彼にとって、現地の住民は搾取するための道具にすぎず、キリスト教徒になっているかどうか以前に人々を見下し、強圧的な態度を取り続けた。また、あるポルトガルの官吏が女性を略奪するというできごとも起こった。
これらはひとえに自己の私利私欲にもとずくもので、私たちにとってたいへん恥ずべき行為であった。
二人の領主にあっせんを頼まれる困難もさることながら、自身の身内とでもいうべきこのポルトガル人支配層の傲慢とも対峙しなければならなかったのだ。
差し迫った問題は、どちらが地域を圧するにしても、負けた側の報復で信徒に危険が及ぶことだった。この頃、私たちが洗礼を授けた人々は1万を越えていた。信徒が危険な目に遭うなど絶対にあってはならない。私は信徒を守るために自分がしなければならないことについて、日夜考え続けた。
プニカレに赴いたフランシスコ・マンシラスのことも気がかりだった。マンシラスとともに行動しているのはポルトガル人のジョアン・アルティアガとインド人の少年マテオ(洗礼名)だったが、手紙によるとアルティアガの品行があまりよくないことが書かれていた。
問題はあらゆるところにあったのだ。
1544年春のことだった。
私はコーチンからマナバルを訪れしばらく滞在して、4月の後半には本格的に大王と領主の依頼を総督に働きかけることに取りかかった。
バダカと呼ばれる軍兵たちはすでに一部の村々を襲撃しはじめていた。彼らはイニキトリベリン王を支援する名目でヴィジャヤナガル国から派兵されてきたのである。インド南部一帯が非常事態に陥っている。
イニキトリベリン王の使者はたびたび私のもとを訪れ、私が総督に同盟を組むようとりなしてくれれば、信徒を保護すると伝えてきた。
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