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第6章 海の巡礼路(東洋編) フランシスコ・ザビエル
紛争の混迷のなかで 1544年 インド南端部
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〈フランシスコ・ザビエル、フランシスコ・コエリョ、フランシスコ・マンシラス、アルフォンソ・デル・ソーザ総督、コスメ・デ・パイヴァ長官(漁夫海岸)、イニキトリベリン王、トラバンコール王、ベットム・ペルマル〉
1544年春以降、私はインド南端をひたすら動き回った。
通訳として付いているフランシスコ・コエリョ司祭、私と違う地域を回るフランシスコ・マンシラス、3人のフランシスコでほうぼうに移動していたのだ。
と、平時であればそんな軽口も出るのだろうが、このときはそんな余裕はまったくなかった。私は在クイロンのアルヴァレス司教代理と在コーチンのゴンサルヴェス司祭、それに現地にいるポルトガル商人とも密に連絡を取り、北方から迫ってくるバダカ(軍兵)の侵攻状況について詳しく把握するようにつとめた。情勢によってはキリスト教信者が真っ先にその標的になると危ぶまれたからだ。
私たちはより強大なイニキベリトリン王とポルトガルに同盟を結ぶよう、アルフォンソ・デル・ソーザ総督に働きかけていた。その方がより多くの信徒が保護できる。しかし、その使者とのやりとりは内密に進め、敵方の勢力に知られないよう細心の注意を払っていた。
まるで、戦争を前に極秘の調整をはかる外交官だ。フィレンツェの外交官を経て歴史家になったかのグイッチャルディーニやマキアヴェッリもこんな風だったのだろうか。あまり正確ではないが、私とマンシラスの行程を思い出してみよう。
・1544年3月、私はマナバル、マンシラスはプニカレ。
・4月、私はリバール、マンシラスはプニカレ。ここで私はイニキトリベリン王の使者と接触し、同盟がうまく成れば信徒を保護すると約束させた。
・5月、私はナール、マンシラスはプニカレ。ここで私はイニキトリベリン王と同盟しているトラバンコール王の使者を待っていた。そして、久しぶりにマンシラスからの手紙を受け取った。
・5月、私はナールからすぐツチコリンに移った。プニカレにはマンシラス。ツチコリンにはイニキトリベリン王も、ポルトガルのパイヴァ長官もいた。ただしここでは散発的に戦闘が起こっている。
アントニオ、この旅は沿岸の村や町を移動するので徒歩で簡単にできたと思うだろう。そうではなかったのだよ。陸を移動すると戦闘に出くわす恐れがある場合、トーネ(小舟)で都度つど移動するのだ。なにしろバダカ(軍兵)はすでにかなり南下して、この辺りまで進んでいた。上手く舟が進まなければ何日も無駄になってしまう。歩くより楽だと思うだろうが、とんでもない。気が急いてしまうことも多々あったし、船酔いに見舞われることもあった。
このとき、マンシラスに会って話したいことがたくさんあった。プニカレに腰を据えて土地の人々と無事に過ごしていることを信じていたが、事態は焦眉(しょうび)の急を告げている。しかし、それを果たす間もなく難題が次々と現れた。
王の使者と交渉するのに非常に気を遣ったのは分かってもらえるだろう。一つ間違えれば、私が人質になったり、殺される可能性もある。それでも何とかしなければならない。
危険が迫っているツチコリンの信徒をイニキトリベリン王の領地に避難させるのが最も急ぐべき課題だった。しかし、当の信徒の中には避難を断る者が多かった。もちろん、この国の階級制度(カースト)に縛られている面もあった。その制度の下で自由な移動は許されていないのだ。しかし、身に危険が迫っていればそんなことは言っていられない。
ただ、避難をすすめる私に人々が言ったのは、そのようなことではなかった。
「(パイヴァ)長官はここにいても安全だと言っている」と皆が口を揃えて言う。
私は愕然とした。何を持って安全だと言うのだろう。ツチコリンはベットム・ペルマル王の勢力下にある。ポルトガルがイニキトリベリン王と同盟を組めば、敵対するベットム・ペルマル王が黙っているはずがない。
長官がそう言ったのにはわけがあった。それは少しあとになって分かるのだが、とにかく一向に避難が進まない。
5月から6月にかけて、私はツチコリンで大王の使者との交渉、信徒の説得に多くの時間を使っていた。
6月、この交渉の条件を書面にしてソーザ総督あてに送って、私はビラバンディアンパタナム経由でマナバルに到着した。しかし、この月から本格的な侵攻が始まってしまったのだ。私がイニキトリベリン王と交渉して総督に諮る間に、王と同盟関係にあるはずのバダカがコモリン岬に襲来したのである。信徒を含む村人たちは逃げ出すしかない。
私はマナバルから救援のために小舟を20艘あつらえてコモリン岬に向かおうとした。しかし風向きが悪くたどり着くことができない。私は近辺の村長に手紙を書き、貧しい人々に危害が加えられないよう特段の配慮をしてほしいと伝えたが、それだけでは不十分であると感じていた。
再度私は陸路でコモリン岬に向かった。
8月も近い、日陰にいなければ焼け焦げてしまうような暑さ。耐え難いほどだ。
私たちはふらふらになって、歩き続けた。
コモリン岬にたどり着いたときの様子はマンシラスに書いて送った。こんな風に書いたと思う。
〈Para escapar dos soldados Badak e visitar os tristes crentes privados de seus pertences, segui a rota terrestre em direção ao forte de Comorin. Ao vê-los, senti a maior dor do mundo. Alguns não têm nada para comer, outros não podem andar, alguns morrem, casais dando à luz em sua jornada, e assim por diante ...〉
〈バダカから逃れ、持ち物を奪われて悲しみ嘆く信者たちを訪れるため、私は陸路をたどってコモリン岬への道を歩みました。彼らを見て、私はこの世の最大の苦痛を感じました。ある者は食べるものがなく、他の者は年老いて歩むことができず、ある者は死に、旅路で分娩する夫婦、その他さまざまな……〉※1
南端がバダカの襲来に見舞われた後、9月に入って別の場所でまた火の手があがる。イニキトリベリン王とポルトガルの間で交渉が進んでいることを知ったベットム・ペルマル王が怒り、報復として領内のキリスト教徒を捕えるように命じた。安全など保証されていないのだ。私の恐れていたことが現実となったのである。
ここで動きを混乱させていたのは、あろうことか、ポルトガルのパイヴァ長官だった。その理由に私は呆れるしかなかった。彼はベットム・ペルマルに軍馬を売っていて、その代金が入らないことを恐れてイニキトリベリン王への抗戦をけしかけたのだ。そのためにツチコリンの町のいたるところが兵の襲撃に見舞われた。この襲撃でパイヴァ長官自身もケガを負った。長官も信徒もツチコリン沖の、ほとんど人が住まない島に逃げるしかなかった。そこに十分な食糧や水はない。
私は信徒や避難民に食料と水を届ける算段をすすめた。
悪いことには悪いことが重なる。
攻め手に寄せられたポルトガル人は武器を手に向かっていく。そして、ベットム・ペルマル王の義兄弟にあたる将を捕えてしまう。ポルトガル人は十分に武器を持っているのだから無理はない。
同盟の帰趨(きすう)も決まっていないのに、ポルトガルも加わって交戦状態になろうとしていた。そして、危機感を覚えた各村の村長たちも、キリスト教徒を排斥しはじめた。宗教の内容いかんではなく、ポルトガルが持ち込んだものは敵であるという認識なのだ。それによって、四方八方でキリスト教徒が迫害の対象になろうとしていた。
私は再度、イニキトリベリン王の使者に依頼して事態を打開するため相談に赴くことに決めた。これでは三つ巴どころか、混乱に乗じてヴィジャヤナガル王国も本格的に派兵して四つ巴の戦争になってしまう。
私が拠点のひとつにしていたマナバルから2レグア(約10km)ほど離れた町にイニキトリベリン王の王子(甥)が滞在していた。以前王の使者と交渉したときに初めて会ったのだが、王子は私の話に理解を示してくれていた。ここを通じて再度王との交渉ができると考えていたのだ。
そう思った矢先のこと、今度は王子のしもべをポルトガル人が捕縛する事件が発生した。
万事休すだったが、幸い、王子のしもべは解放された。
私はイニキトリベリン王との再交渉に入った。何よりも必要なものはソーザ総督の承認であったが、総督からの知らせはなかなか届かない。パイヴァ長官は避難先から出てこない。
交渉は9月からまるまる2カ月ほどかかったと思う。
インド南部の東海岸では真珠の採取が始まっていた。この年はあちらこちらで紛争が起こっていたが、真珠取りはそれに関わらず続けなければならない。この頃までにコモリン岬からバダカの多くは撤退していたが、帰途でも収奪を働く恐れがある。危険な中での作業だった。
ーーーーー
この時点で、私は途方に暮れていた。
なぜこのようなことになるのか、どんなに手を尽くしても、なし崩しになるような妨害に遭う。身内と考えていたポルトガル人も好戦的なのだ。これでは、宣教どころではない。何のための東方宣教なのだーーと私は人知れず悩み続けていた。もちろん、信仰の本質はいささかも揺らいでいない。私たちの話を熱心に聞いて洗礼を受けた人々の顔がはっきりと目に浮かぶ。しかし、政事や国ということになるとどうしても懐疑的にならざるを得なかった。真珠や領地を巡る利権などの「私利私欲」がすべてに優先している現実が、私の目の前に大きな壁のように立ちはだかっていた。
アントニオ、このときばかりは私も、伝説の「プレスター・ジョンの国」に逃れたいと思ったよ。もちろん、そんなことを叶えられるはずはない。解決すべき問題が山積みになっている。足を止めているわけにはいかなかった。
ただ後になってみると、これは私にとって大きな学びだった。ポルトガルの臨時外交官のようになっていたこの年のことは今でも鮮明に覚えている。人々にキリストの生涯とその教えについて説いて回り、洗礼を授け、ともに祈るという本来の宣教とは異なる仕事に注力しなければならなかった。これも神の与えたもうた試練だ。すべては信徒を守るという目的で行っていたのだから、当然するべきことだった。
信徒を守る、私の頭にあったのはそれだけだった。コモリン岬の人々が困窮し逃げ落ち倒れる姿、ツチコリンの人々が町を追われて小舟で無人島に向かう姿を思うたび、私は心を激しくかきむしられた。これまで感じたことのないような苦しみだった。
キリスト教を信じることで、死の危険に見舞われる。宗教の対立ではなく、ただ為政者のさじかげんひとつで。全面的に保護してくれるはずのポルトガルも逆に足を引っ張るありさまだ。国家に付き従うだけの宣教活動には限界があると痛感していた。ポルトガルの協力を得ながらも、協力しながらも、イエズス会として、いやゴアを中心としたキリスト教会全体として、独立した立場で行動できるようにしなければならない。それはインドだけのことではなく、どの国で宣教するにしても共通することだろう。戦争はどこの国でも起こりうるのだ。
ーーーー
イニキトリベリン王のもとでソーザ総督の決断を待つ間に、総督はベットム・ペルマル王の使者ともかなり具体的に交渉していたらしい。ただ、金銭的な条件が折り合わなかったことから破談となり、新たにイニキトリベリン王側と同盟を組む方向に傾いた。
ようやく一条の光が見えてきた。交渉はそこからトントン拍子にまとまり、ポルトガルとイニキトリベリン王の間に同盟が結ばれることとなった。
これで王の領内でキリスト教徒が保護される。
私は一安心した。イニキトリベリン王とトラバンコール王は私が仲介をしたことに謝意を示し、新たにトラバンコール王領内14の村の、マクア族の漁師に宣教することを許可したのだ。そこには一万人ほどが住んでいるという。
大きな仕事を成し遂げて、私とフランシスコ・コエリョは喜び勇んで新たな地へ足を伸ばすことにした。マンシラスには引き続きプニカレに滞在してもらうことにした。ツチコリンの様子がまだ心配だったのだ。プニカレからならば、陸路でツチコリンにすぐ向かうことができる。
それが12月のことだった。紛争を収めるためにあちらこちらに動き回った1544年も終わろうとしていた。これでやっと情勢も落ち着いてくると期待したのだ。
しかし、それは甘かった。
※1 『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』(河野純徳訳 東洋文庫/平凡社)より引用
手紙の原文はポルトガル語の写本です。今回のものは日本語をポルトガルに翻訳し直していますので、写本とは異なると思います。
1544年春以降、私はインド南端をひたすら動き回った。
通訳として付いているフランシスコ・コエリョ司祭、私と違う地域を回るフランシスコ・マンシラス、3人のフランシスコでほうぼうに移動していたのだ。
と、平時であればそんな軽口も出るのだろうが、このときはそんな余裕はまったくなかった。私は在クイロンのアルヴァレス司教代理と在コーチンのゴンサルヴェス司祭、それに現地にいるポルトガル商人とも密に連絡を取り、北方から迫ってくるバダカ(軍兵)の侵攻状況について詳しく把握するようにつとめた。情勢によってはキリスト教信者が真っ先にその標的になると危ぶまれたからだ。
私たちはより強大なイニキベリトリン王とポルトガルに同盟を結ぶよう、アルフォンソ・デル・ソーザ総督に働きかけていた。その方がより多くの信徒が保護できる。しかし、その使者とのやりとりは内密に進め、敵方の勢力に知られないよう細心の注意を払っていた。
まるで、戦争を前に極秘の調整をはかる外交官だ。フィレンツェの外交官を経て歴史家になったかのグイッチャルディーニやマキアヴェッリもこんな風だったのだろうか。あまり正確ではないが、私とマンシラスの行程を思い出してみよう。
・1544年3月、私はマナバル、マンシラスはプニカレ。
・4月、私はリバール、マンシラスはプニカレ。ここで私はイニキトリベリン王の使者と接触し、同盟がうまく成れば信徒を保護すると約束させた。
・5月、私はナール、マンシラスはプニカレ。ここで私はイニキトリベリン王と同盟しているトラバンコール王の使者を待っていた。そして、久しぶりにマンシラスからの手紙を受け取った。
・5月、私はナールからすぐツチコリンに移った。プニカレにはマンシラス。ツチコリンにはイニキトリベリン王も、ポルトガルのパイヴァ長官もいた。ただしここでは散発的に戦闘が起こっている。
アントニオ、この旅は沿岸の村や町を移動するので徒歩で簡単にできたと思うだろう。そうではなかったのだよ。陸を移動すると戦闘に出くわす恐れがある場合、トーネ(小舟)で都度つど移動するのだ。なにしろバダカ(軍兵)はすでにかなり南下して、この辺りまで進んでいた。上手く舟が進まなければ何日も無駄になってしまう。歩くより楽だと思うだろうが、とんでもない。気が急いてしまうことも多々あったし、船酔いに見舞われることもあった。
このとき、マンシラスに会って話したいことがたくさんあった。プニカレに腰を据えて土地の人々と無事に過ごしていることを信じていたが、事態は焦眉(しょうび)の急を告げている。しかし、それを果たす間もなく難題が次々と現れた。
王の使者と交渉するのに非常に気を遣ったのは分かってもらえるだろう。一つ間違えれば、私が人質になったり、殺される可能性もある。それでも何とかしなければならない。
危険が迫っているツチコリンの信徒をイニキトリベリン王の領地に避難させるのが最も急ぐべき課題だった。しかし、当の信徒の中には避難を断る者が多かった。もちろん、この国の階級制度(カースト)に縛られている面もあった。その制度の下で自由な移動は許されていないのだ。しかし、身に危険が迫っていればそんなことは言っていられない。
ただ、避難をすすめる私に人々が言ったのは、そのようなことではなかった。
「(パイヴァ)長官はここにいても安全だと言っている」と皆が口を揃えて言う。
私は愕然とした。何を持って安全だと言うのだろう。ツチコリンはベットム・ペルマル王の勢力下にある。ポルトガルがイニキトリベリン王と同盟を組めば、敵対するベットム・ペルマル王が黙っているはずがない。
長官がそう言ったのにはわけがあった。それは少しあとになって分かるのだが、とにかく一向に避難が進まない。
5月から6月にかけて、私はツチコリンで大王の使者との交渉、信徒の説得に多くの時間を使っていた。
6月、この交渉の条件を書面にしてソーザ総督あてに送って、私はビラバンディアンパタナム経由でマナバルに到着した。しかし、この月から本格的な侵攻が始まってしまったのだ。私がイニキトリベリン王と交渉して総督に諮る間に、王と同盟関係にあるはずのバダカがコモリン岬に襲来したのである。信徒を含む村人たちは逃げ出すしかない。
私はマナバルから救援のために小舟を20艘あつらえてコモリン岬に向かおうとした。しかし風向きが悪くたどり着くことができない。私は近辺の村長に手紙を書き、貧しい人々に危害が加えられないよう特段の配慮をしてほしいと伝えたが、それだけでは不十分であると感じていた。
再度私は陸路でコモリン岬に向かった。
8月も近い、日陰にいなければ焼け焦げてしまうような暑さ。耐え難いほどだ。
私たちはふらふらになって、歩き続けた。
コモリン岬にたどり着いたときの様子はマンシラスに書いて送った。こんな風に書いたと思う。
〈Para escapar dos soldados Badak e visitar os tristes crentes privados de seus pertences, segui a rota terrestre em direção ao forte de Comorin. Ao vê-los, senti a maior dor do mundo. Alguns não têm nada para comer, outros não podem andar, alguns morrem, casais dando à luz em sua jornada, e assim por diante ...〉
〈バダカから逃れ、持ち物を奪われて悲しみ嘆く信者たちを訪れるため、私は陸路をたどってコモリン岬への道を歩みました。彼らを見て、私はこの世の最大の苦痛を感じました。ある者は食べるものがなく、他の者は年老いて歩むことができず、ある者は死に、旅路で分娩する夫婦、その他さまざまな……〉※1
南端がバダカの襲来に見舞われた後、9月に入って別の場所でまた火の手があがる。イニキトリベリン王とポルトガルの間で交渉が進んでいることを知ったベットム・ペルマル王が怒り、報復として領内のキリスト教徒を捕えるように命じた。安全など保証されていないのだ。私の恐れていたことが現実となったのである。
ここで動きを混乱させていたのは、あろうことか、ポルトガルのパイヴァ長官だった。その理由に私は呆れるしかなかった。彼はベットム・ペルマルに軍馬を売っていて、その代金が入らないことを恐れてイニキトリベリン王への抗戦をけしかけたのだ。そのためにツチコリンの町のいたるところが兵の襲撃に見舞われた。この襲撃でパイヴァ長官自身もケガを負った。長官も信徒もツチコリン沖の、ほとんど人が住まない島に逃げるしかなかった。そこに十分な食糧や水はない。
私は信徒や避難民に食料と水を届ける算段をすすめた。
悪いことには悪いことが重なる。
攻め手に寄せられたポルトガル人は武器を手に向かっていく。そして、ベットム・ペルマル王の義兄弟にあたる将を捕えてしまう。ポルトガル人は十分に武器を持っているのだから無理はない。
同盟の帰趨(きすう)も決まっていないのに、ポルトガルも加わって交戦状態になろうとしていた。そして、危機感を覚えた各村の村長たちも、キリスト教徒を排斥しはじめた。宗教の内容いかんではなく、ポルトガルが持ち込んだものは敵であるという認識なのだ。それによって、四方八方でキリスト教徒が迫害の対象になろうとしていた。
私は再度、イニキトリベリン王の使者に依頼して事態を打開するため相談に赴くことに決めた。これでは三つ巴どころか、混乱に乗じてヴィジャヤナガル王国も本格的に派兵して四つ巴の戦争になってしまう。
私が拠点のひとつにしていたマナバルから2レグア(約10km)ほど離れた町にイニキトリベリン王の王子(甥)が滞在していた。以前王の使者と交渉したときに初めて会ったのだが、王子は私の話に理解を示してくれていた。ここを通じて再度王との交渉ができると考えていたのだ。
そう思った矢先のこと、今度は王子のしもべをポルトガル人が捕縛する事件が発生した。
万事休すだったが、幸い、王子のしもべは解放された。
私はイニキトリベリン王との再交渉に入った。何よりも必要なものはソーザ総督の承認であったが、総督からの知らせはなかなか届かない。パイヴァ長官は避難先から出てこない。
交渉は9月からまるまる2カ月ほどかかったと思う。
インド南部の東海岸では真珠の採取が始まっていた。この年はあちらこちらで紛争が起こっていたが、真珠取りはそれに関わらず続けなければならない。この頃までにコモリン岬からバダカの多くは撤退していたが、帰途でも収奪を働く恐れがある。危険な中での作業だった。
ーーーーー
この時点で、私は途方に暮れていた。
なぜこのようなことになるのか、どんなに手を尽くしても、なし崩しになるような妨害に遭う。身内と考えていたポルトガル人も好戦的なのだ。これでは、宣教どころではない。何のための東方宣教なのだーーと私は人知れず悩み続けていた。もちろん、信仰の本質はいささかも揺らいでいない。私たちの話を熱心に聞いて洗礼を受けた人々の顔がはっきりと目に浮かぶ。しかし、政事や国ということになるとどうしても懐疑的にならざるを得なかった。真珠や領地を巡る利権などの「私利私欲」がすべてに優先している現実が、私の目の前に大きな壁のように立ちはだかっていた。
アントニオ、このときばかりは私も、伝説の「プレスター・ジョンの国」に逃れたいと思ったよ。もちろん、そんなことを叶えられるはずはない。解決すべき問題が山積みになっている。足を止めているわけにはいかなかった。
ただ後になってみると、これは私にとって大きな学びだった。ポルトガルの臨時外交官のようになっていたこの年のことは今でも鮮明に覚えている。人々にキリストの生涯とその教えについて説いて回り、洗礼を授け、ともに祈るという本来の宣教とは異なる仕事に注力しなければならなかった。これも神の与えたもうた試練だ。すべては信徒を守るという目的で行っていたのだから、当然するべきことだった。
信徒を守る、私の頭にあったのはそれだけだった。コモリン岬の人々が困窮し逃げ落ち倒れる姿、ツチコリンの人々が町を追われて小舟で無人島に向かう姿を思うたび、私は心を激しくかきむしられた。これまで感じたことのないような苦しみだった。
キリスト教を信じることで、死の危険に見舞われる。宗教の対立ではなく、ただ為政者のさじかげんひとつで。全面的に保護してくれるはずのポルトガルも逆に足を引っ張るありさまだ。国家に付き従うだけの宣教活動には限界があると痛感していた。ポルトガルの協力を得ながらも、協力しながらも、イエズス会として、いやゴアを中心としたキリスト教会全体として、独立した立場で行動できるようにしなければならない。それはインドだけのことではなく、どの国で宣教するにしても共通することだろう。戦争はどこの国でも起こりうるのだ。
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イニキトリベリン王のもとでソーザ総督の決断を待つ間に、総督はベットム・ペルマル王の使者ともかなり具体的に交渉していたらしい。ただ、金銭的な条件が折り合わなかったことから破談となり、新たにイニキトリベリン王側と同盟を組む方向に傾いた。
ようやく一条の光が見えてきた。交渉はそこからトントン拍子にまとまり、ポルトガルとイニキトリベリン王の間に同盟が結ばれることとなった。
これで王の領内でキリスト教徒が保護される。
私は一安心した。イニキトリベリン王とトラバンコール王は私が仲介をしたことに謝意を示し、新たにトラバンコール王領内14の村の、マクア族の漁師に宣教することを許可したのだ。そこには一万人ほどが住んでいるという。
大きな仕事を成し遂げて、私とフランシスコ・コエリョは喜び勇んで新たな地へ足を伸ばすことにした。マンシラスには引き続きプニカレに滞在してもらうことにした。ツチコリンの様子がまだ心配だったのだ。プニカレからならば、陸路でツチコリンにすぐ向かうことができる。
それが12月のことだった。紛争を収めるためにあちらこちらに動き回った1544年も終わろうとしていた。これでやっと情勢も落ち着いてくると期待したのだ。
しかし、それは甘かった。
※1 『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』(河野純徳訳 東洋文庫/平凡社)より引用
手紙の原文はポルトガル語の写本です。今回のものは日本語をポルトガルに翻訳し直していますので、写本とは異なると思います。
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