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第5章 フィガロは広場に行く3 ニコラス・コレーリャ
キュクロープスと剣 1541年 リスボン
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〈ルイス・デ・アルメイダ、ニコラス・コレーリャ、フランシスコ・ザビエル、ジョアン3世、フランシスコ・ボルハ、ソッラ〉
ニコラスはリスボンに着いた晩、アルメイダ家に宿を借りることとなった。
ルイスの父は突然の来客を快く出迎える。ルイスの母も同様である。
ルイスの家は彼の祖父の代まで、ポルトガル宮廷の侍医を勤めていた。
15世紀と16世紀の境目で、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓が成功し、ポルトガルの本格的な海外進出・拡大の時代が幕を開けた。ルイスの父はその流れに乗るように、家業の医師ではなく商人の道を選んだ。1541年のこの頃、彼は人を使って貿易の仲介業に従事し、自身が船に乗ることはない。そのようにしたのは彼の妻が生来病弱であることによる。
ポルトガルから大西洋を遠く離れて、インドのゴアやマラッカ、さらに南方に拠点を築いている商人・船主たちが大勢いる。彼らの多くがアルメイダの父の商売仲間である。
簡単に言うなら、アルメイダ家はリスボンにおいて社会的に安定した地位を得ている家ということだ。
ルイスの父は、食事の支度が整うまでの間、ニコラスからこれまでのいきさつを聞いていた。ニコラスはスペイン語で話したが、アルメイダは商人として他の国と交易をしているのだから聞くのに難はない。
「そうか……ソッラさんの来歴は聞いたことがほとんどなかった。息子がフィレンツェにいるというのは聞いていたが……そのようなことならば、何か手だてがあるかもしれない」
ルイスも心配そうな顔で父親とニコラスを見ている。ニコラスは話し終えた後、しばらくうつむいて考えていたが、自分を納得させるように続ける。
「アルメイダさんのお力を借りると返ってたいへんなご迷惑になってしまいます。僕は明日、異端審問所に行って様子を見て、母とセヴェリーノさん一家の出所(しゅっしょ)が可能か交渉してみようと思います」
「そうだな……あなたは外国人だ。私たちより危険は少ないかもしれない。ただ、国王は異端審問所に入れられた者を、皆有罪だとみなしている。あなたが外国人だと言っても、決して楽観的にならない方がいいでしょう」とルイスの父は付け足した。
その後、冬の海風に吹かれてやって来た旅人に夕食が振る舞われた。魚介や野菜を煮込んだカタブラーナと呼ばれる鍋、イワシの塩焼きがテーブルに並ぶ。温かい食事に、ニコラスの心もほぐされていくようだ。思えば、ガンディアのホアン・ボルハの館で歓待を受けて以降、どこかの家庭で温かく迎えてもらったことはない。
不安で潰されそうな33歳の男にとって、望外の喜びだったことは間違いがない。
寝台に横になろうとしたとき、ニコラスはドアがノックされるのを耳にする。「どうぞ」と言うと15歳のルイス少年がおそるおそる入ってきた。
「ニコラスさんと少し話したくて」
「僕もだよ」とニコラスは微笑む。
ソッラがルイスと自分を重ねて見ていたのが、ニコラスにはよく理解できた。商人の息子にしては自己主張することがない、大人しい性格のように見受けられる。絵を描くことに夢中になって内向的になっていた昔の自分の姿によく似ていると思う。
「ルイスは将来何になりたい? お父さんの跡を継いで商人になるの?」とニコラスは尋ねる。
ルイスは首を横に振る。
「僕は、祖父や曾祖父のように、医師になりたいんです。ですので、そちらの学校に進めるよう勉強しています」
「そうか。医師は人の命を助けたり、苦しみを和らげることができる。立派な仕事だね」とニコラスはうなずく。
「ニコラスさんは絵描きさんなんですよね。ソッラさんはすごく嬉しそうに話していました。驚くほど立派な芸術家の弟子になったって。僕絵は下手で……どうしたら上手になるのですか」
「たくさん描いていれば上手くなるとは思うけれど……やっぱり、いい師匠に付くことじゃないかな」とニコラスは少し照れながら言う。すらすらと気の利いたセリフが出ないのは、スペイン語で話しているせいではない。イタリア語でも同じだ。
たどたどしいやりとりではあったが、二人はずっと前からの知り合いのように穏やかに話し合った。
ルイスは部屋を去るときに、ためらいがちに告げる。
「僕たち家族で毎晩、セヴェリーノさんたちが無事で帰って来ることを祈っています。きっと、神様に願いは通じるって、僕は信じています」
「ありがとう」とニコラスは涙を浮かべて心から礼を言った。
翌日、異端審問所まで赴いたニコラスだったが、対応に出た役人はにべなくニコラスの要請を拒絶した。
スペイン語が分かる人間が呼ばれたのだが、審問が終わるまでは出所が許されないこと、もちろん面会も不可能であること。たったそれだけを告げたのだった。
ニコラスはルイスの父親に言われたことが現実なのだと認めざるを得なかった。
しかし、諦めてイタリアに帰るわけにはいかない。母の一家に万が一の事態が起こったらと思うと、いても立ってもいられなかった。ただひとつの救いは、ヴェネツィア人であるニコラスを害することがないことぐらいだった。
ニコラスは粘り強く異端審問所に通い続ける決心をする。
門前払いの状態が数日続いたある日、ニコラスは異端審問所に向かう途中で後ろから呼び止められた。
言葉はイタリア語だった。
「あの、ヴェネツィアにいらっしゃった方ではありませんか」
ニコラスは久しぶりに聞いたイタリア語に驚いて後ろを向く。そこには、数年前にサン・マルコ広場で会った修道僧の姿があった。
「あ、あなたは……」とニコラスは仰天する。
「フランシスコ・ザビエルです。ナヴァーラの。あのときは喜捨をいただき、また話し相手までして下さってありがとうございました。会士のピエール・ファーブルも後であなたに再会したことを話していました。しかし、なぜリスボンに?」
ニコラスは自分と同じ外国人、しかもヴェネツィアで会った人間を見つけて、強い味方を得た気持ちになった。透き通った瞳を持つピエール・ファーブルの名を聞いたのもさらなる希望の芽のように思えた。この人になら相談してみてもいいのかもしれない。
そして、それをニコラスから切り出す必要はなかった。
「これから異端審問所に行くのです」とザビエルが言うのを聞いて、フランシスコはビクッとする。次の瞬間、ニコラスは思わずザビエルの腕にすがりついていた。
「母が、母がそこにいるのです」
今度はザビエルが驚愕する番だった。
「あなたがヴェネツィアで話していたお母様ですか? なぜそんなことに? あ……今はあまり時間が取れないのです。明日の朝、ここでお会いしましょう。それで、お母様のお名前は……」
「ソッラ、ソッラ・セヴェリーノです。一家5人でいるはずです」とニコラスが懇願するような目で訴えながら、母の名を告げる。
「わかりました」とザビエルはうなずくと目礼をして去っていった。
強い風が吹いている。
ザビエルさんに再会できたのも、神の思し召しだろうか……。
ニコラスは去っていくザビエルの姿を見送って、視線を空に移す。
強い風が吹いている。
その日の夕刻、ニコラスはアルファマのアルメイダ邸を再び訪問した。朝、学校に行くルイスとすれ違い、夕食の誘いを受けたからだ。
一家は変わらず、温かく彼を出迎えた。
たとえ外国人といえど、異端審問所に通っている人間を篤くもてなすのはなかなかできることではない。
ニコラスは偶然、以前会った人間に再会した話をする。
「そうですか、ローマから来た修道会の人たちが国王からたいそう信頼されて近侍していることは知っています」とアルメイダ氏は言う。
「よくご存じなのですね」とニコラスは感心する。
「ええ、彼らのうちどなたかが4月に出航する船でゴアに行くのです。その船主を知っています。大型のキャラック船4隻で出航すると聞いていますから、大規模な船出になるでしょう」
ルイスはそこまで黙って話を聞いていたが、ようやく、「その、修道会の方が力になってくれるといいですね」とつぶやく。
食卓の全員が静かにうなずいた。
翌朝、フランシスコ・ザビエルは指定の場所でニコラスを待っていた。ニコラスは離れたところからそれを認める。もうヴェネツィアで見たときのように粗末な衣服は身につけていない。国王から支給されているであろう、立派な司祭のいでたちである。それにも関わらず、彼の雰囲気がさほど変わっていないことにニコラスは安堵していた。
雪が真横に流れている。
リスボンで雪が降るのは珍しいことだ。
道行く人も少ない。
二人には好都合なことだった。
あまり大きな声でできる話ではなかった。ザビエルの案内で二人は海岸沿いまで歩き、今は使われていない漁師小屋に案内した。すきま風が吹き込んでくるが、外よりははるかにましだ。
まず、ニコラスは母を連れ戻しに来たいきさつをイタリア語で話した。ザビエルはそれをただ黙って聞いている。ニコラスがザビエルに再会を果たしたところまで話し終えるのを待って、ザビエルは自分が伝えるべきことを話しはじめた。
「ニコラスさん、お母様はおられましたよ。少しだけお話もできました」
ニコラスが感嘆の声を上げるのを見ながら、ザビエルは静かに続ける。
「お母様とはイタリア語で話しました。あまり他に聞かれたくないと言うのもありますが、イタリア語で話すことがイタリア半島出身であるというひとつの証明にもなると思いました。お元気ですよ、お母様もご家族も。審問は主にご主人が受けていますが、ひどい目にも遭っていないようだ。ニコラスさんがリスボンまで来ているとお伝えしたら……涙をぽろぽろと流されていました」
母が無事でよかった。
ザビエルの言葉にニコラスは少し肩の荷が下りたような気分になる。
漁師小屋の外では風がひゅうひゅうとうなり声を上げている。雪がいよいよ激しくなってきた。
「ただ、ニコラスさん、ご一家の出所は容易なことではありません。審問はだんだん厳しくなっていくでしょう。それと、僕も春になったら新たな任務につくことになる。お母様と話すことも叶わなくなると思います。今の、異端審問所の聴罪司祭という、国王から与えられた勤めを解かれたら」
ザビエルの立場を考えると、これ以上何かを頼むことははばかられた。何と言ってよいか、ニコラスにはどうにも言葉が見つけられない。ザビエルもうつむくニコラスを見て、少しためらっている。そして、思いきるように言う。
「私は、去年の9月26日、刑を受ける人々の先導役をジョアン国王から仰せつかりました。そして数ヶ月経ちましたが、あの日のことを忘れることができないのです……」
ニコラスは身を固くして、息を飲んだ。
その様子をアルメイダから聞いていたからだ。
ふと見ると、ザビエルは涙を流していた。
そしてすぐに顔をごしごしとぬぐった。
「いや、その話はあなたにするべきではありません。私が生涯心に留めておかなければならないことです。ただ、それがあるからこそ、あなたに伝えたいと思います。ニコラスさん。伺った話によれば、あなたはスペインのボルハ家、いや、ローマの教皇様の子に仕えていた家臣の息子で、ソッラさんはその家臣の妻だった」
ニコラスはうなずく。
ザビエルはその話に基づいて提案した。ニコラスが自身の出自を証明するものを持っていれば、異端審問所との交渉が有利に運ぶはずだというのだ。貴族という称号には不可侵の力があって、必ず一目置かれる。しかも、ただの貴族ではない。教皇を輩出しているスペインの名家なのだ。そのような「力」を使うことが、この場合には有効ではないかと。
「私もナヴァーラ王国の宰相を父に持つ身でした。きらびやかな暮らしはしてきませんでしたが。それでも、清貧を旨とする聖職者となっても、貴族の出であるということが物事を早く進める道具になるのを知りました。自慢できない処世術ともいえるでしょう」とザビエルは付け加えた。
風がまだうなり声を上げている。
ニコラスは微笑んでザビエルを見る。
彼の立場で、異端審問所に入れられた人間を擁護するような提案をするのは危険なはずなのに。
「こんなに親身になっていただいて、ありがとうございます。ザビエルさん。また希望がわいてきました。
ところで、ザビエルさんはイタリア語がたいへんお上手です。フランスの大学に行かれていたのですよね。どなたに習われたのですか?」
ザビエルは首をかしげながら、ちょっといたずらっぽく笑う。
「子どもの頃、私の住んでいた城の塔にキュクロープスがいたのです。イタリア語もラテン語も彼に習いました」
ニコラスはきょとんとする。キュクロープスがギリシア神話の想像上の神であることは知っている。ただ、ザビエルが冗談で言っているのか何かの喩えで言ったのか判断がつかなかったのだ。
「キュクロープスさんは、語学に長けているのですね」
ニコラスは、そのキュクロープスが父の仕えていた人間だと知るよしもなかった。
風の音が止んできた。雪だけはまだ静かに降っている。大西洋に降る雪を二人はほんのひととき、黙って眺めていた。
「お母様とともに帰路につけることを、心からお祈りします」と別れ際にザビエルは十字を切った。
リスボンで二人が会うのはこれが最後になるだろう。
翌日また、ニコラスは異端審問所に赴いた。今度はフランシスコ・ボルハの紹介状を持参したのだ。先頃までスペイン・ヴァリャドリードの宮廷で王妃と王子の近侍役を務め、現在アラゴンの地方総督による紹介状である。そこには簡単にニコラスの経歴も書かれている。
それを書いたフランシスコ・ボルハは元教皇アレクサンデル6世の曾孫なのだ。
これには異端審問所の役人も驚き、態度が変わった。すぐさまスペイン語を解する者が応対を替わり一通りニコラスの言い分を聞いた。
その日はそこまで事態が進展した。
この日もニコラスはアルメイダの家を訪問した。セヴェリーノ一家の出所に向けて一歩前進したということで、アルメイダの一家も自分のことのように喜んでいる。
「ニコラスさんは由緒正しいお家の方なんですな」とアルメイダ氏が感心したように言う。
ニコラスは複雑な顔になる。
他にも異端審問所に入れられている人たちがいることを知っているからだ。ニコラスが通う間だけでも、引き連れられていく人々を幾人も見ていた。アルメイダはニコラスの気持ちを推し量りながら続ける。
「ニコラスさん、確かに全員を自由にしてやれるなら、それに越したことはありません。しかし、それができるのは国王だけだ。身近な誰かを一人でも二人でも救い出すことにも、大きな意味があると思うのですよ」
ニコラスは黙ってうなずくばかりだった。
翌日、また異端審問所に赴くと役人は再び態度を硬化させていた。
フランシスコ・ボルハの紹介状を持ったニコラス・コレーリャが本物のニコラス・コレーリャであることが判断できない。また、ソッラ・セヴェリーノがミケーレ・ダ・コレーリアの妻だったことを証明してもらわなければならない。
そう言うのである。
詭弁だ!
僕はニコラスだ。ミケーレ・ダ・コレーリアの子だ。
そして、ソッラは間違いなく僕の母親だ。
ニコラスの頭の中で、何か大きなかたまりが腹の底からむくむくと湧いてくるのを感じる。
ニコラスは無意識に、懐に持っていた剣を握りしめる。そして、剣を鞘から抜くと役人の前で高々と掲げた。役人はギョッとして、思わず後ずさりする。
「これが、ミケーレ・ダ・コレーリアの子であることの証です!」
その剣にはボルジア家の紋章が誇り高く輝いていた。
かつてミケーレ・ダ・コレーリアがイタリア半島でめざましい進軍を重ねていた頃、その運命をともにしていた剣である。そして、父と母を結びつけた愛の証でもあるのだ。
ニコラスは初めて人前で剣を抜いた。
黒く艶のある長髪、すらりとした身体、そして、大きく美しい手。
剣を握るその姿は、かつての父親の姿に生き写しだった。
ニコラスはリスボンに着いた晩、アルメイダ家に宿を借りることとなった。
ルイスの父は突然の来客を快く出迎える。ルイスの母も同様である。
ルイスの家は彼の祖父の代まで、ポルトガル宮廷の侍医を勤めていた。
15世紀と16世紀の境目で、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓が成功し、ポルトガルの本格的な海外進出・拡大の時代が幕を開けた。ルイスの父はその流れに乗るように、家業の医師ではなく商人の道を選んだ。1541年のこの頃、彼は人を使って貿易の仲介業に従事し、自身が船に乗ることはない。そのようにしたのは彼の妻が生来病弱であることによる。
ポルトガルから大西洋を遠く離れて、インドのゴアやマラッカ、さらに南方に拠点を築いている商人・船主たちが大勢いる。彼らの多くがアルメイダの父の商売仲間である。
簡単に言うなら、アルメイダ家はリスボンにおいて社会的に安定した地位を得ている家ということだ。
ルイスの父は、食事の支度が整うまでの間、ニコラスからこれまでのいきさつを聞いていた。ニコラスはスペイン語で話したが、アルメイダは商人として他の国と交易をしているのだから聞くのに難はない。
「そうか……ソッラさんの来歴は聞いたことがほとんどなかった。息子がフィレンツェにいるというのは聞いていたが……そのようなことならば、何か手だてがあるかもしれない」
ルイスも心配そうな顔で父親とニコラスを見ている。ニコラスは話し終えた後、しばらくうつむいて考えていたが、自分を納得させるように続ける。
「アルメイダさんのお力を借りると返ってたいへんなご迷惑になってしまいます。僕は明日、異端審問所に行って様子を見て、母とセヴェリーノさん一家の出所(しゅっしょ)が可能か交渉してみようと思います」
「そうだな……あなたは外国人だ。私たちより危険は少ないかもしれない。ただ、国王は異端審問所に入れられた者を、皆有罪だとみなしている。あなたが外国人だと言っても、決して楽観的にならない方がいいでしょう」とルイスの父は付け足した。
その後、冬の海風に吹かれてやって来た旅人に夕食が振る舞われた。魚介や野菜を煮込んだカタブラーナと呼ばれる鍋、イワシの塩焼きがテーブルに並ぶ。温かい食事に、ニコラスの心もほぐされていくようだ。思えば、ガンディアのホアン・ボルハの館で歓待を受けて以降、どこかの家庭で温かく迎えてもらったことはない。
不安で潰されそうな33歳の男にとって、望外の喜びだったことは間違いがない。
寝台に横になろうとしたとき、ニコラスはドアがノックされるのを耳にする。「どうぞ」と言うと15歳のルイス少年がおそるおそる入ってきた。
「ニコラスさんと少し話したくて」
「僕もだよ」とニコラスは微笑む。
ソッラがルイスと自分を重ねて見ていたのが、ニコラスにはよく理解できた。商人の息子にしては自己主張することがない、大人しい性格のように見受けられる。絵を描くことに夢中になって内向的になっていた昔の自分の姿によく似ていると思う。
「ルイスは将来何になりたい? お父さんの跡を継いで商人になるの?」とニコラスは尋ねる。
ルイスは首を横に振る。
「僕は、祖父や曾祖父のように、医師になりたいんです。ですので、そちらの学校に進めるよう勉強しています」
「そうか。医師は人の命を助けたり、苦しみを和らげることができる。立派な仕事だね」とニコラスはうなずく。
「ニコラスさんは絵描きさんなんですよね。ソッラさんはすごく嬉しそうに話していました。驚くほど立派な芸術家の弟子になったって。僕絵は下手で……どうしたら上手になるのですか」
「たくさん描いていれば上手くなるとは思うけれど……やっぱり、いい師匠に付くことじゃないかな」とニコラスは少し照れながら言う。すらすらと気の利いたセリフが出ないのは、スペイン語で話しているせいではない。イタリア語でも同じだ。
たどたどしいやりとりではあったが、二人はずっと前からの知り合いのように穏やかに話し合った。
ルイスは部屋を去るときに、ためらいがちに告げる。
「僕たち家族で毎晩、セヴェリーノさんたちが無事で帰って来ることを祈っています。きっと、神様に願いは通じるって、僕は信じています」
「ありがとう」とニコラスは涙を浮かべて心から礼を言った。
翌日、異端審問所まで赴いたニコラスだったが、対応に出た役人はにべなくニコラスの要請を拒絶した。
スペイン語が分かる人間が呼ばれたのだが、審問が終わるまでは出所が許されないこと、もちろん面会も不可能であること。たったそれだけを告げたのだった。
ニコラスはルイスの父親に言われたことが現実なのだと認めざるを得なかった。
しかし、諦めてイタリアに帰るわけにはいかない。母の一家に万が一の事態が起こったらと思うと、いても立ってもいられなかった。ただひとつの救いは、ヴェネツィア人であるニコラスを害することがないことぐらいだった。
ニコラスは粘り強く異端審問所に通い続ける決心をする。
門前払いの状態が数日続いたある日、ニコラスは異端審問所に向かう途中で後ろから呼び止められた。
言葉はイタリア語だった。
「あの、ヴェネツィアにいらっしゃった方ではありませんか」
ニコラスは久しぶりに聞いたイタリア語に驚いて後ろを向く。そこには、数年前にサン・マルコ広場で会った修道僧の姿があった。
「あ、あなたは……」とニコラスは仰天する。
「フランシスコ・ザビエルです。ナヴァーラの。あのときは喜捨をいただき、また話し相手までして下さってありがとうございました。会士のピエール・ファーブルも後であなたに再会したことを話していました。しかし、なぜリスボンに?」
ニコラスは自分と同じ外国人、しかもヴェネツィアで会った人間を見つけて、強い味方を得た気持ちになった。透き通った瞳を持つピエール・ファーブルの名を聞いたのもさらなる希望の芽のように思えた。この人になら相談してみてもいいのかもしれない。
そして、それをニコラスから切り出す必要はなかった。
「これから異端審問所に行くのです」とザビエルが言うのを聞いて、フランシスコはビクッとする。次の瞬間、ニコラスは思わずザビエルの腕にすがりついていた。
「母が、母がそこにいるのです」
今度はザビエルが驚愕する番だった。
「あなたがヴェネツィアで話していたお母様ですか? なぜそんなことに? あ……今はあまり時間が取れないのです。明日の朝、ここでお会いしましょう。それで、お母様のお名前は……」
「ソッラ、ソッラ・セヴェリーノです。一家5人でいるはずです」とニコラスが懇願するような目で訴えながら、母の名を告げる。
「わかりました」とザビエルはうなずくと目礼をして去っていった。
強い風が吹いている。
ザビエルさんに再会できたのも、神の思し召しだろうか……。
ニコラスは去っていくザビエルの姿を見送って、視線を空に移す。
強い風が吹いている。
その日の夕刻、ニコラスはアルファマのアルメイダ邸を再び訪問した。朝、学校に行くルイスとすれ違い、夕食の誘いを受けたからだ。
一家は変わらず、温かく彼を出迎えた。
たとえ外国人といえど、異端審問所に通っている人間を篤くもてなすのはなかなかできることではない。
ニコラスは偶然、以前会った人間に再会した話をする。
「そうですか、ローマから来た修道会の人たちが国王からたいそう信頼されて近侍していることは知っています」とアルメイダ氏は言う。
「よくご存じなのですね」とニコラスは感心する。
「ええ、彼らのうちどなたかが4月に出航する船でゴアに行くのです。その船主を知っています。大型のキャラック船4隻で出航すると聞いていますから、大規模な船出になるでしょう」
ルイスはそこまで黙って話を聞いていたが、ようやく、「その、修道会の方が力になってくれるといいですね」とつぶやく。
食卓の全員が静かにうなずいた。
翌朝、フランシスコ・ザビエルは指定の場所でニコラスを待っていた。ニコラスは離れたところからそれを認める。もうヴェネツィアで見たときのように粗末な衣服は身につけていない。国王から支給されているであろう、立派な司祭のいでたちである。それにも関わらず、彼の雰囲気がさほど変わっていないことにニコラスは安堵していた。
雪が真横に流れている。
リスボンで雪が降るのは珍しいことだ。
道行く人も少ない。
二人には好都合なことだった。
あまり大きな声でできる話ではなかった。ザビエルの案内で二人は海岸沿いまで歩き、今は使われていない漁師小屋に案内した。すきま風が吹き込んでくるが、外よりははるかにましだ。
まず、ニコラスは母を連れ戻しに来たいきさつをイタリア語で話した。ザビエルはそれをただ黙って聞いている。ニコラスがザビエルに再会を果たしたところまで話し終えるのを待って、ザビエルは自分が伝えるべきことを話しはじめた。
「ニコラスさん、お母様はおられましたよ。少しだけお話もできました」
ニコラスが感嘆の声を上げるのを見ながら、ザビエルは静かに続ける。
「お母様とはイタリア語で話しました。あまり他に聞かれたくないと言うのもありますが、イタリア語で話すことがイタリア半島出身であるというひとつの証明にもなると思いました。お元気ですよ、お母様もご家族も。審問は主にご主人が受けていますが、ひどい目にも遭っていないようだ。ニコラスさんがリスボンまで来ているとお伝えしたら……涙をぽろぽろと流されていました」
母が無事でよかった。
ザビエルの言葉にニコラスは少し肩の荷が下りたような気分になる。
漁師小屋の外では風がひゅうひゅうとうなり声を上げている。雪がいよいよ激しくなってきた。
「ただ、ニコラスさん、ご一家の出所は容易なことではありません。審問はだんだん厳しくなっていくでしょう。それと、僕も春になったら新たな任務につくことになる。お母様と話すことも叶わなくなると思います。今の、異端審問所の聴罪司祭という、国王から与えられた勤めを解かれたら」
ザビエルの立場を考えると、これ以上何かを頼むことははばかられた。何と言ってよいか、ニコラスにはどうにも言葉が見つけられない。ザビエルもうつむくニコラスを見て、少しためらっている。そして、思いきるように言う。
「私は、去年の9月26日、刑を受ける人々の先導役をジョアン国王から仰せつかりました。そして数ヶ月経ちましたが、あの日のことを忘れることができないのです……」
ニコラスは身を固くして、息を飲んだ。
その様子をアルメイダから聞いていたからだ。
ふと見ると、ザビエルは涙を流していた。
そしてすぐに顔をごしごしとぬぐった。
「いや、その話はあなたにするべきではありません。私が生涯心に留めておかなければならないことです。ただ、それがあるからこそ、あなたに伝えたいと思います。ニコラスさん。伺った話によれば、あなたはスペインのボルハ家、いや、ローマの教皇様の子に仕えていた家臣の息子で、ソッラさんはその家臣の妻だった」
ニコラスはうなずく。
ザビエルはその話に基づいて提案した。ニコラスが自身の出自を証明するものを持っていれば、異端審問所との交渉が有利に運ぶはずだというのだ。貴族という称号には不可侵の力があって、必ず一目置かれる。しかも、ただの貴族ではない。教皇を輩出しているスペインの名家なのだ。そのような「力」を使うことが、この場合には有効ではないかと。
「私もナヴァーラ王国の宰相を父に持つ身でした。きらびやかな暮らしはしてきませんでしたが。それでも、清貧を旨とする聖職者となっても、貴族の出であるということが物事を早く進める道具になるのを知りました。自慢できない処世術ともいえるでしょう」とザビエルは付け加えた。
風がまだうなり声を上げている。
ニコラスは微笑んでザビエルを見る。
彼の立場で、異端審問所に入れられた人間を擁護するような提案をするのは危険なはずなのに。
「こんなに親身になっていただいて、ありがとうございます。ザビエルさん。また希望がわいてきました。
ところで、ザビエルさんはイタリア語がたいへんお上手です。フランスの大学に行かれていたのですよね。どなたに習われたのですか?」
ザビエルは首をかしげながら、ちょっといたずらっぽく笑う。
「子どもの頃、私の住んでいた城の塔にキュクロープスがいたのです。イタリア語もラテン語も彼に習いました」
ニコラスはきょとんとする。キュクロープスがギリシア神話の想像上の神であることは知っている。ただ、ザビエルが冗談で言っているのか何かの喩えで言ったのか判断がつかなかったのだ。
「キュクロープスさんは、語学に長けているのですね」
ニコラスは、そのキュクロープスが父の仕えていた人間だと知るよしもなかった。
風の音が止んできた。雪だけはまだ静かに降っている。大西洋に降る雪を二人はほんのひととき、黙って眺めていた。
「お母様とともに帰路につけることを、心からお祈りします」と別れ際にザビエルは十字を切った。
リスボンで二人が会うのはこれが最後になるだろう。
翌日また、ニコラスは異端審問所に赴いた。今度はフランシスコ・ボルハの紹介状を持参したのだ。先頃までスペイン・ヴァリャドリードの宮廷で王妃と王子の近侍役を務め、現在アラゴンの地方総督による紹介状である。そこには簡単にニコラスの経歴も書かれている。
それを書いたフランシスコ・ボルハは元教皇アレクサンデル6世の曾孫なのだ。
これには異端審問所の役人も驚き、態度が変わった。すぐさまスペイン語を解する者が応対を替わり一通りニコラスの言い分を聞いた。
その日はそこまで事態が進展した。
この日もニコラスはアルメイダの家を訪問した。セヴェリーノ一家の出所に向けて一歩前進したということで、アルメイダの一家も自分のことのように喜んでいる。
「ニコラスさんは由緒正しいお家の方なんですな」とアルメイダ氏が感心したように言う。
ニコラスは複雑な顔になる。
他にも異端審問所に入れられている人たちがいることを知っているからだ。ニコラスが通う間だけでも、引き連れられていく人々を幾人も見ていた。アルメイダはニコラスの気持ちを推し量りながら続ける。
「ニコラスさん、確かに全員を自由にしてやれるなら、それに越したことはありません。しかし、それができるのは国王だけだ。身近な誰かを一人でも二人でも救い出すことにも、大きな意味があると思うのですよ」
ニコラスは黙ってうなずくばかりだった。
翌日、また異端審問所に赴くと役人は再び態度を硬化させていた。
フランシスコ・ボルハの紹介状を持ったニコラス・コレーリャが本物のニコラス・コレーリャであることが判断できない。また、ソッラ・セヴェリーノがミケーレ・ダ・コレーリアの妻だったことを証明してもらわなければならない。
そう言うのである。
詭弁だ!
僕はニコラスだ。ミケーレ・ダ・コレーリアの子だ。
そして、ソッラは間違いなく僕の母親だ。
ニコラスの頭の中で、何か大きなかたまりが腹の底からむくむくと湧いてくるのを感じる。
ニコラスは無意識に、懐に持っていた剣を握りしめる。そして、剣を鞘から抜くと役人の前で高々と掲げた。役人はギョッとして、思わず後ずさりする。
「これが、ミケーレ・ダ・コレーリアの子であることの証です!」
その剣にはボルジア家の紋章が誇り高く輝いていた。
かつてミケーレ・ダ・コレーリアがイタリア半島でめざましい進軍を重ねていた頃、その運命をともにしていた剣である。そして、父と母を結びつけた愛の証でもあるのだ。
ニコラスは初めて人前で剣を抜いた。
黒く艶のある長髪、すらりとした身体、そして、大きく美しい手。
剣を握るその姿は、かつての父親の姿に生き写しだった。
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朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!???
そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。
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