16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ

ランツクネヒトが冬とともに 1526年 イタリア半島

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〈アルフォンソ・デステ、イザベッラ・デステ、教皇クレメンス7世、神聖ローマ皇帝カール5世、フランス王フランソワ1世、イギリス王ヘンリー7世、フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ(ウルビーノ公)、アンドレア・ドーリア(コンドッティアーレ)、ジョヴァンニ・デ・メディチ(黒隊のジョヴァンニ)、フランチェスコ・グイッチャルディーニ、ニッコロ・マキアヴェッリ〉

 1525年。
 イタリア半島ミラノの防衛戦、パヴィアの戦いで神聖ローマ帝国に敗れたフランスは王が捕囚されるという大きな屈辱を味わった。翌1526年にフランス王フランソワ1世は自由の身となったが、それと引き換えに自国内のブルゴーニュ割譲やミラノの放棄などの講和条件をのまなければならなかった。

 1526年。
 自由となったフランソワ1世は本国に戻ると、さっそく反撃の策を練り始めた。講和条件を守るつもりなどさらさらない。囚われている間も本国の王妃や側近らは教皇庁からオスマン・トルコにまで密かな連携の手を伸ばしていた。

 ローマの教皇クレメンス7世はさきのパヴィアの戦いでの神聖ローマ帝国軍、特に主力のランツクネヒト(皇帝直属の傭兵軍)の強さを知り、恐れをなしていた。
 先々代の教皇ユリウス2世の頃から、ローマの守備にはスイス傭兵が付いている。この傭兵軍は長くヨーロッパ最強の呼び声が高かった。ランツクネヒトもこれを参考にして、先代の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が編成したものだった。それを現カール5世が引き継いでいる。
 ランツクネヒトは気性が荒く、金銭にめざとく、敵に一切容赦しないというのが世間の評判だった。分かりやすく言えば殺す・奪う・焼くということである。給料が滞れば反乱を起こしかねないと言われている。
 それに加えて、彼らの多くがルター派についていた。

 ミラノがすでに陥落寸前の状態となっていることもあった。ランツクネヒトだけが理由ではないが、教皇は神聖ローマ帝国を選ばなかった。1526年5月に教皇を中心とした「コニャック同盟」が結成される。

 気が遠くなるが、この話の第1章からずっと続いている「イタリア戦争」、それがまだ終わっていないのである。



 イタリア半島の防衛のために。
 5月に同盟が結成された後、7月にはピアチェンツァに各地から軍勢が集結する。構成は以下の通り。
・教皇直属軍 歩兵8000、騎兵400、傭兵隊長として黒隊のジョヴァンニ・デ・メディチが司令官を務める(便宜上フランスの所属)。
・フランス この時点では参加していない。
・ヴェネツィア 歩兵1万、騎兵600、司令官はウルビーノ公フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ。
・フィレンツェ 歩兵4000、騎兵300、司令官は傭兵隊長ヴィテッリ。
・イギリス 参加していない。

 なお、
・教皇の海軍司令官 アンドレア・ドーリア
・参謀長(名称は教皇代理) フランチェスコ・グイッチャルディーニーーの布陣となっている。これは21世紀の日本で言えば、統合幕僚長に匹敵する重職になるだろう。

 新たに登場する人物とこの同盟に特徴的な事項について述べておこう。

 まず、教皇直属軍に入ったジョヴァンニ・デ・メディチである。この人物はメディチ家の係累ながら贅沢よりは軍事に秀でていたことで名を残している。彼の軍隊は黒ずくめの装束だったため、巷では「黒隊」で通っている。イタリアにおいてこの世代随一の軍人であった。彼の母はチェーザレ・ボルジアとも真っ向から戦った美貌の女傑、カテリーナ・スフォルツァである。
 続いて、フランチェスコ・グィッチャルディーニ。21世紀の現代では『イタリア史』を書いた歴史家として有名であるが、このときは教皇軍の参謀兼連絡役である。この話にしばしば登場するニッコロ・マキアヴェッリとは昵懇(じっこん)の間柄である。ちなみに第3章でイザベッラ・デステの手紙に登場するのは彼の兄弟である。

 また、この同盟にはイングランドのヘンリー8世が加わっている。さきのフランスとの対立は一端脇に置いて教皇に与することにしたのだ。しかし、イタリア半島から離れているという地理的条件を逆手に取って、戦闘には加わらず静観する構えだ。この王は教皇庁と離婚問題ですったもんだすることになるが、それはまた後の話である。

 この同盟にマントヴァとフェラーラは加わっていない。マントヴァは中立の立場を堅持することに決めている。賢い摂政イザベッラ・デステは同盟側にも神聖ローマ帝国側にも協力する人間ーー要は家族なのだがーーをそれぞれ置いていざというとき交渉できる余地を残している。

 ここで微妙な立場に置かれたのがフェラーラのアルフォンソ・デステだった。さきにフェラーラの領地であるモデナとレッジョを教皇庁が取り上げていた。それを理由に参加しないだろうと判断され、同盟への参加呼びかけはなされなかった。確かに一筋縄で応じるアルフォンソではないが、彼は半島きってのコンドッティアーレ、軍人である。多くの国が参加しているから不要だと思ったのかは定かでないが、このことが後に大きな禍根を残すことになる。

 イタリア半島について言えば、実はもう一人この同盟に懐疑的(かいぎてき)な人間がいた。ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレである。教皇庁のお膝元であるロマーニャ地方、その重鎮であるウルビーノ公爵なのだが、この場ではなぜかヴェネツィア軍の司令官となっている。

 フランチェスコ・マリーアはカンブレー同盟戦争のときには教皇軍司令官を務めていた。しかし、その後教皇レオ10世に公国を取り上げられてしまった。その話は先に書いた通りである。その因縁絡みでミケランジェロとの訴訟も続いている。
「メディチの教皇になど従えるか」と内心思うのも仕方のないことだった。ヴェネツィアには亡命していた縁があるので、ポッと出ではないのだが、不安定さの残る司令官であった。

 付記するなら、参謀になったグイッチャルディーニはもともとが文官な上に経験がないので、実戦配備という点において心もとないことでは引けを取らない。

 何人かの人物を拾ってみるだけでも分かるように、この同盟は足元のイタリア半島を固めることもできていない。寄せ集めに過ぎないならまだましである。呉越同舟(ごえつどうしゅう)な一面もあった。
 それでも、黒隊のジョヴァンニ率いる一団や、スイス傭兵隊など精鋭は来るべき敵への備えを着々と進めていた。

 ここで、マキアヴェッリに登場してもらわなければならない。
 彼はこの1年ほど前に、上梓した自著『フィレンツェ史』を持参してローマに上り、教皇クレメンス7世に謁見した。教皇はマキアヴェッリの予想以上に喜び、フィレンツェにおいて新たな職務を与える。彼は意気揚々と教皇に対していくつか提案をした。そのうち、フィレンツェ防御壁の強化について認められ、さっそくその仕事に取りかかった。
 それが一段落して、彼は懇意のグイッチャルディーニと会談するために軍勢が集結するピアチェンツァに赴いている。そこで、黒隊のジョヴァンニにも会うことができた。



 マキアヴェッリだけについて言えば、彼は戦争前のひとときを動き回って過ごしていた。フィレンツェ政庁を追われて早や13年、ようやく昔のように活躍する場を与えられたと考えていたのである。しかも、参謀は昵懇のグイッチャルディーニである。マキアヴェッリは参謀と頻繁にやり取りを繰り返した。
 それが悲劇を回避することに貢献すればよかったのだが。

 この時点で、総員2万を優に越えるコニャック同盟軍に対する神聖ローマ帝国の軍勢はミラノを包囲するスペイン勢(神聖ローマ帝国と同義である)の1万2000ほどである。この時点で神聖ローマ帝国は本格的にイタリアに進攻するか見えない状態であった。
 皇帝カール5世も迷っていたに違いない。スペイン王を兼ねる皇帝は、ランツクネヒトがどうであれ、カトリック君主なのである。敵国フランスが同盟にいるにせよ、はっきりした不利益がなければおいそれとイタリアに進攻するわけにはいかない。

 1526年の秋が深まった頃、一つの事件が起こった。

 フェラーラのアルフォンソ・デステが神聖ローマ帝国に付くことを明らかにしたのだ。

 それを知った教皇クレメンス7世はアルフォンソ・デステを捕らえて破門を言い渡し、ローマに幽閉した。カンブレー同盟戦争の際にユリウス2世のしたことと同じである。フェラーラが神聖ローマ帝国側に付いたら大変なことになる。
 神聖ローマ帝国に付くと言っても、実際フェラーラが自軍を出すことはない。彼らが領内を通過する際に、食糧と大砲を提供すると約束しただけであった。他の国でも緊急時には行う可能性が高い行為ではある。そうしなければ略奪の憂き目にあうからである。

 しかし、この場合は明確な裏切り行為とされた。

 アルフォンソの姉、マントヴァの摂政イザベッラ・デステもこれにはさすがに慌てた。戦争を前にした一触即発の状態で為政者が不在になってしまったら、フェラーラはあっという間に陥落してしまう。

 彼女は弟の解放について教皇と交渉するため、みずからローマに向かうことに決めた。たいへん危険な道行きである。

 ここで神聖ローマ帝国は本格的に動いた。

 自身についたフェラーラ公爵の身柄を拘束したことは、神聖ローマ帝国への宣戦布告に等しい。よって軍勢を直ちに出立させて、ローマへ進攻する。

 アルフォンソの拘束はカール5世にとって、よいきっかけだったのである。

 季節は1526年の冬になっていた。
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