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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ

Sacco di ROMA(ローマ劫掠)1527年5月 ローマ

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〈ジョヴァンニ・デ・メディチ(黒隊のジョヴァンニ)、フランチェスコ・グイッチャルディーニ、フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ(ウルビーノ公)、ニッコロ・マキアヴェッリ、教皇クレメンス7世、神聖ローマ皇帝カール5世、アルフォンソ・デステ、イザベッラ・デステ〉

 1526年11月、神聖ローマ帝国の傭兵軍、ランツクネヒト総勢1万2千人はフルンズベルグの指揮の下、イタリア半島へ南下をはじめた。ヴェネツィア領になるヴェローナは迂回する。
 もともとミラノには1万ほどのスペイン軍が駐留している。どちらも神聖ローマ帝国の軍隊になる。この2大隊が合流してしまったらもう手の付けようがない。それを阻止するのは教皇・フランスなどの同盟軍(コニャック同盟)にとって至上命題だった。

 教皇軍の主力である黒隊のジョヴァンニも当然それは分かっている。ランツクネヒトがポー川を越えて合流を果たす前に攻撃を仕掛けるべきだと強く主張した。冬には北イタリアの泥地に進軍が阻まれることが明らかである(のちにフランシスコ・ザビエルの一行も難渋することになる泥地だ)。そこに地勢を知っているイタリア勢がかかれば十分に勝機があるとジョヴァンニは考えた。



 しかし、ここで足並みが揃わない。
 教皇クレメンス7世がそもそも戦闘を望んでいないということも災いする。
「それならばなぜ、同盟なんか組んだんだ!」とジョヴァンニは苛立つ。参謀のグイッチャルディーニは連絡、調整にかかりきりになる。
 それに加えて頼みにしているヴェネツィアも動かなかった。情勢を見て、自国の利にならなければ、同盟を組んでいようが何だろうが動かないという姿勢である。教皇が尻込みしているのだからなおさらである。
 もちろん、メディチ家に因縁のあるヴェネツィアの司令官、フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレに出陣する気がないことはいうまでもない。

 まじめに目的に向けて遂行する者はたまったものではない。ランツクネヒトが進軍を止めるはずもない。
 ジョヴァンニは自軍だけで、ランツクネヒトに切り込む決意をした。11月後半のことである。

 黒一色で染められた軍勢がポー川を渡る。
 すでに斥候がその姿を認め、ランツクネヒトが体勢を整えている。ジョヴァンニは躊躇なくそこに突進していった。

 この捨て身の攻撃で、ランツクネヒトは進軍をほんの一時阻まれた。しかし、捨て身の攻撃は無傷では済まない。黒隊はたいへんな犠牲者を出した上に、司令官も脚に重傷を負った。近郊のマントヴァに担ぎ込まれたジョヴァンニ・デ・メディチは、脚を切断する必要があると医師に診断されてすぐに手術を受けた。
 彼は手術中にみずから燭台を掲げ続けたと言われている。麻酔はかけていない。脚の切断の痛みに耐えて燭台を持ったということである。豪胆な人だった。
 しかし、ジョヴァンニは11月30日に合併症を発して息を引き取った。

 万事休すである。イタリア半島を守りうるコンドッティアーレがいなくなったのである。ヴェネツィアは出てこない。フェラーラもこの後すぐ、当主アルフォンソ・デステが幽閉されるに至るのである。もう、頼みにできるのは、教皇軍を構成するイタリア在地のいくらかの領主と、ユリウス2世以来のスイス傭兵団、あとはフランス軍しかなかった。

 11月28日に神聖ローマ帝国のランツクネヒトはポー川を越えて、ミラノにいる同胞軍との合流を果たした。総勢3万の巨大な群れである。

 同盟の長であるクレメンス7世もいかにみずからが危険にさらされているかを思い知った。そして、神聖ローマ帝国との交渉に入るのだが、すでにこの時点で教皇は全体の情勢を見通す目を失っていた。



 1527年3月になっている。
 このとき、カール5世はまだスペインにいる。そしてクレメンス7世に一方的な講和条件を突きつける。
・ランツクネヒトへの給金として、賠償金20万デュカートを支払う
・オスティア、ピサ、リヴォルノ、チヴィタベッキアの港を渡すこと
・スフォルツァ家のミラノ帰還は承認する
・講和交渉のために8ヶ月休戦する
・枢機卿(すうきけい、すうききょう)を2名人質に出す
・講和がなった際は対オスマン・トルコの十字軍結成につとめること

 ナポリに加えて、イタリア半島に自国の足掛かりを築く意思が明確に現れた内容である。特に重要な港を譲渡することは、隣接する都市をもその影響下に置くということなので、それぞれの地域の主権を脅かす死活問題だった。
 教皇は他の同盟参加国にはかることをせず、これを受け入れてしまう。フランスやヴェネツィアはこのことで完全に教皇を、ローマを見限る。この後、彼らの軍事支援は得られなかった。

 そしてさらに悪いことに、クレメンス7世はスペイン側から提言を受けて、教皇庁を守備していた在地の傭兵ら4千人を解雇した。それをすれば、ローマへの不可侵を約束すると言われたのだろう。それが履行されると信じてしまったのである。
 残ったのは数百人のスイス傭兵だけになる。

 ローマは、3万のランツクネヒトをはじめとする軍勢に対して裸同然になった。




 神聖ローマ帝国は講和のための期間を提示している。教皇はその目的を見逃すべきではなかったのだ。

 カール5世が急いで調整したかったことは何か。それはランツクネヒトへの給金だけだった。それさえ折り合いがつけば、すぐさま休戦に入っても、ポー川の北に撤退してもよいと思っていたのだ。この時すでに、ランツクネヒトの中には不穏な空気が流れていたのだ。冬を越す行軍、フェラーラから食糧の支援を得ていたがすぐに底をつく。すでにボローニャまで進んでいる軍勢から不満が噴出していた。
 3月13日には暴動が起こってランツクネヒトの指揮を取るフルンベルグが負傷、本国に帰った後死亡した。彼は軍の半分を束ねていたのだ。それだけの兵が無秩序に陥ったらどういうことになるか。

 カール5世はローマを侵略する気はない。フランスやヴェネツィアを牽制し、イタリア半島に足掛かりを作ることさえできればよかったのだ。それは、オスマン・トルコに対抗するための準備になると考えていた。しかし自軍の兵が統制できない状況になっている。
 早くランツクネヒトに給金を支払って撤退させたいーーそれがカール5世の真意だった。

 金は払われることになった。
 クレメンス7世の地元フィレンツェからボローニャに駐留する神聖ローマ帝国・スペイン連合軍陣営に当座の8万デュカートが運ばれた。しかし、連合軍陣営の司令官であるブルボンと行き違いが起こった。賠償金額の吊り上げがきっかけだったようだが、詳しいことは分からない。激昂した司令官は交渉の決裂を告げる。

「もはや、ローマへの進軍以外に道なし!」

 この一言が運命を決めた。

 神聖ローマ帝国・スペイン連合軍の傭兵軍総勢3万はローマへの進軍を開始した。

 ボローニャとローマの間にある大都市はフィレンツェしかない。近隣の村の住民たちはフィレンツェに避難した。キアンティに変わらず住んでいたニッコロ・マキアヴェリの家族も避難した。そして、グイッチャルディーニのもとにたびたび赴いていたニッコロ自身もフィレンツェに戻った。
 マキアヴェッリが少し前にクレメンス7世に普請を認められた市壁強化工事は終わっていた。これは多少効果を発揮したらしい。あるいは何らかの交渉か。

 フィレンツェは侵略を免れた。
 ただ、無傷というわけにはいかなかった。
 ミケランジェロの工房でも全員、他の市民と同じように武器を取り寄せて襲撃に備えている。

 ニコラスはとても心配していた。
 ただ、それを表には出さなかった。

 1527年5月2日、神聖ローマ帝国・スペイン連合軍(以下、皇帝軍)はローマまで20レグア(約100km)を切るヴィテルポまで迫る。この間にクレメンス7世はいったん解雇した傭兵やローマにいた学生まで徴用して守りを固めていた。しかし、焼け石に水である。統制の取れた数百人のスイス傭兵のほかには、十分に戦闘経験を積んだ者は少なかった。逃げられる者はすでにローマを去り始めている。
 5月3日、クレメンス7世は戒厳令を敷いて、ローマに通じるすべての城壁を閉鎖するように命じた。そこに皇帝軍が刻々と迫る。その後にグイッチャルディーニ率いる教皇軍、フィレンツェ軍、ヴェネツィア軍が追う形で続く。教皇軍以下は合流すれば一大勢力となり、皇帝軍を背後から攻撃することも可能だったはずである。
 しかし、皇帝軍と教皇軍は距離が開きすぎていた。8日も後であった。出発時期がこれだけ開いていると、よほどのことがないと追い付くのは難しい。教皇軍のグイッチャルディーニも内心焦ってはいただろうが、自軍が援助なしで皇帝軍に太刀打ちできるとは思えなかった。
 何より当の教皇とはこの辺りから連絡が取れなくなった。

 教皇や枢機卿らは、要塞でもあるカスタル・サンタンジェロに籠城するしたくを始めている。



 5月4日、皇帝軍はローマの門に到着する。司令官ブルボンが開門を要求するが、中から応答はない。翌日、皇帝軍3万はローマの北西、教皇庁の背後の城壁に集結した。

 5月6日の未明、皇帝軍は壁を破るべく攻撃を開始した。籠城軍も必死に銃や投石で応戦する。このときに司令官のブルボンは、銃撃を受けて死亡した。ただちに副司令官のオランジェ公が指揮を替わる。
 壁をはさんでの攻防戦は昼頃に勝敗が決した。圧倒的に数に勝る皇帝軍が抵抗の止んだのを見て、一気に突入をかけた。

 ここで真っ向から敵に向かっていったのはスイス傭兵だった。彼らは寡勢ながら、その名にふさわしく鬼気迫る戦いぶりを見せた。接近戦である。鑓は激しい音を立ててぶつかる。最後の一兵まで本丸のカスタル・サンタンジェロを守ろうと戦い、次々と倒れていった。

 21世紀まで、教皇庁の警備にあたるのは紅白の制服に身を包んだスイス人だ。
 このときの栄誉が現代まで受け継がれているのである。

 あっという間に教皇庁一帯も制圧された。皇帝のランツクネヒトらはティヴェレ川一帯にも雪崩のように襲いかかる。兵が集結しているカンポ・デ・フィオーリやナヴォーナ広場はあっという間に敵の手に落ちた。兵は暴徒と化していた。扉という扉はこじ開けられ、隠れていた人々は打ち倒され金品や食糧は根こそぎ奪われた。男は殺され、女は強姦され連れ去られ、殺された。何の見境もない。逃げようとして捕えられた枢機卿は兵たちに引きずり回される。
 教皇庁は司令官らの宿営地になったので、破壊と殺戮は免れたが、美術品の数々は略奪された。

 戦闘が終わっても、1週間ほどの間、根こそぎ、こっぱみじんに壊された。

 ここまで徹底的に破壊する背景には、ランツクネヒトがカトリック教徒ではなかったことが大きく影響している。彼らにとってローマは、私利私欲にまみれた堕落の都でしかなかった。
 旧約聖書のソドムとゴモラのように、天の火で焼かれるべきだーーと考えたのか。

 スペイン側の将や文官はこのありさまを、金縛りにあったかのように動くこともできず、見ているしかなかった。カルロス1世(皇帝カール5世)の弁務官ガッティナーレは皇帝にこう報告している。

「全ローマは破壊されました。サン・ピエトロ聖堂も、教皇の宮殿も、今や馬小屋と化してしまいました。われわれの隊長オランジェ公は、兵士たちに秩序を取り戻させようと努力されましたが、もはや野盗の群れと化した傭兵どもはどうすることもできません。ドイツ傭兵どもはそれこそ、教会に何の尊敬も持たないルター派とはこのようなもの、と思われるように野蛮に振る舞っています。すべての貴重品、芸術品は痛めつけられ盗まれました」
(引用「ルネッサンスの女たち」塩野七生 新潮文庫、一部表記を改めています)


 イザベッラ・デステはこのときローマにいた。
 ローマに捕えられている弟、フェラーラ公アルフォンソ・デステの解放などについて交渉するためにマントヴァからわざわざ来ていたのだ。
 彼女は教皇庁から見るとティヴェレ川の対岸、コルソ通りに面するコロンナ家の宮殿を宿舎としていた。個人の邸宅としては最も豪奢な建物、そして堅牢な要塞を兼ねていた。
 彼女は息子のフェデリーコを通じて皇帝の外交官と折衝し、自身の居場所を不可侵の状態に置くことに成功した。しかし十分ではない。コロンナ宮の周囲に急遽バリケードを築かせた。そのうちに、スペイン軍に属している息子のフェランテも駆けつけてきた。

 カンブレー同盟の頃から神聖ローマ帝国と密に連絡を取り、先代の皇帝マクシミリアン1世からも信用と賞賛を得ていたイザベッラである。このような事態を想定していたのか、子らを皇帝派に付かせていた。
 加えて、さきの攻防戦で死亡したブルボンはイザベッラの甥だった。

 その人脈が混乱の中で最大の効果を発揮したのだ。

 コロンナ宮でイザベッラは避難者の受け入れを始めた。当初は貴族か高位の聖職者に限っていたが、そのうちそうでない人々も受け入れるようになった。

 扉は開かれる。

 イザベッラ・デステは淡々と避難民の受け入れを続けた。それは、ローマが破壊しつくされ、その後でペストが蔓延してもなお続けられた。6ヵ月もの間である。ペストはローマ市民だけでなく、皇帝軍にも襲いかかった。ローマの人口は9万人から3万人に減少した。殺害された人2万、逃亡できた人2万、ペストで死んだ人2万といわれる。
 そして、ランツクネヒトも5千人減った。

 腐臭と疫病の蔓延する、荒廃した都に、なぜイザベッラはとどまり続けたのだろうか。暴徒と化したランツクネヒトの狼藉(ろうぜき)の手が伸びてもおかしくない。実際、バリケードの外はそうなっていたのだ。
 肉親の擁護というだけでそれだけの危険を冒せるものだろうか。

 弟のアルフォンソは皮肉にも、教皇と一緒にカスタル・サンタンジェロにいて無事である。皇帝との和解がなされるならば、弟は無事に戻されるだろう。そこにいることで、ペストの脅威にもさらされずに済んでいる。

 イザベッラ・デステは、ただ悲しんでいた。

 ローマはイザベッラにとってずっと憧憬(しょうけい)の対象だった。それは少女の頃からずっと変わらなかった。みずからはイタリア北部の地で生きているものの、常にローマを最も善き都市として崇敬してきた。教皇庁の巨大さ、荘厳さ。ティヴェレ川沿いに美しく建ち並ぶ瀟洒(しょうしゃ)な邸宅群。街や建物を彩る最上の芸術品の数々。
 どこよりも活気のある市場、広大な広場に集まる多種多様な人々……。

 いいえ、ここはローマ。

 カエサルが、マルクス・アウレリウスが、コンスタンティヌスが君臨し、地中海世界の、いいえ、世界の中心だった……永遠の都。
 その都が、これほど徹底的に壊されてしまうとは。
 それが壊れていく場に立ち会わなければならないとは。

 イザベッラはひとりで泣いた。

 この街が死に瀕していることを、誰よりも悲しんでいた。

 最愛の恋人の臨終を、ただその手を握りしめて見守るしかない乙女のように、悲しんでいた。
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