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第一話 触手とルームシェアなんてしない!
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その日手荷物と共にやってきた男は、やけに神妙な顔つきで床に正座し言った。
「共同生活をするにあたって、嘘をついていたくないので……先にお話ししておきたいんですが」
真剣な眼差しにビビりながらも「嘘」という言葉に嫌な予感を覚えつつ、俺も対面に正座する。妙な構図だ。
正面から見た男の顔は無駄に整っていて、姿勢も綺麗だった。
「俺、実は……人間じゃなくて」
男の言葉が理解できず、右から左へ流れていく。
今こいつはなんて言った? ジツワニンゲンジャナクテ? 何と言い間違えたんだ?
「触手なんです」
男が正座している腿の上に置いていた手が、奇妙な動きで波打った。
それは肌色の、指と手の甲だったもので、今は手首から五本に分岐した、人間の手ではない「なにか」で。
「出てってください」
■ 触手とルームシェア ■
俺は今リビングルームから、玄関へと移動している。
玄関まで追い詰め、ドアの外へ叩き出した「そいつ」を閉め出すためにドアノブを引っ張っているところだ。
「少しだけ、少しだけ話を聞いてもらえませんか」
向こうも必死だ。
ドアを押さえて閉まらないようにしているが、隙間は僅か数センチしか残っていない。
「えぇい黙れ未確認生物! せめてもの情けに家具家電は置いておいてやる、次の部屋を見つけるまで保管してやるからとっとと消えろ!」
「触手は瞬間移動とかできませんよ」
「そういうことじゃねえ! 徒歩でいいからここから去れーッ!」
ドアに挟まっていた靴先を力任せに外へと押し出し、なんとか玄関扉を閉めることに成功した。
気密性の高い金属ドアが軋むことなくピタリと閉じ、急いで鍵を掛けU字ロックも掛ける。
しばしそのままドアに張り付き耳を澄ませたが、外から物音が聞こえることはなかった。いなくなったのだろうか。
ドアスコープを覗こうとして、やめた。もしあの小さなガラス越しに未確認生物と目があったらチビる。
「はぁー……なんだったんだ、あいつ」
よろよろとリビングに戻ってきた俺はダイニングの椅子を引いてどっかりと腰を下ろした。
今日は記念すべきルームシェア初日、になる予定だった。
元々こんなはずじゃなかったんだ。俺には長い付き合いの彼女がいた。
学生時代からの付き合いで、うまがあって一緒にいると心地よくて、直接的な約束は交わしていなかったが結婚するつもりだった。その準備としてこの2LDKのマンションを借りてネコも飼った。
念願の同棲をはじめて、三ヶ月後。
彼女が浮気をして出ていった。俺とネコをこの部屋に置いて。
今考えれば俺が浮気相手だったのかもしれない。
判明したお相手は外資系のエリートサラリーマンで、顔良しスタイル良し実家が太いの三拍子揃った男だと、知りたくもないのに教えてくるやつがいた。
俺はこの広い部屋に取り残され、わずかにあった楽しい思い出がすべて裏切りの記憶で上書きされてしまった。
そんな部屋からはすぐにでも引っ越したかったが、いくらなんでも入居したばかりで出ていくのは無理だった。
新居で長く使えるようにと良い家電を買い揃えてしまったこともあって、先立つものがすっからかん。元カノは酷い女だが、今にして思えば高い家電をごっそり持ち出したりしないだけマシなやつだった。
なにより今の俺には「ネコ次郎」がいる。
元カノの実家で昔飼っていたという「ネコ太郎」に柄が似ているからと名付けられた白黒猫は、臆病で繊細な性格だ。
なによりネコは家につくと言われるくらい、環境変化を嫌うとネットに書いてあった。
ただでさえ野良生活から保護ネコ、さらには見知らぬ地で飼いネコとなっているのだから、これ以上ストレスを与えたくない。
そんな俺の事情を知った会社の親しい同僚が、ほうぼうあたって話を持ってきたのが今回のルームシェアだった。
「たしかあいつ、姉の旦那の友達があの未確認生物だって言ってたよな……」
同僚の姉の旦那もろとも未確認生物疑惑が浮上したが、今はそれどころではない。
幸せが裸足で逃げ出しそうな深く重い溜め息を吐き出して、俺はテーブルに置いたメモ紙を手に取った。
名前、深谷 伊織、年齢、23歳。かわいい名前だが男。
実家は北海道、大手スポーツ用品メーカー営業。
動物アレルギーなし、ネコ好き。
先程の人物だ。二度ほど会って、それなりに信用できそうだと思ってルームシェアを受け入れた。
元カノの痕跡を涙をのみながら全て消し去って部屋を空け、いざ入居となったのに、これだ。
「いや予測できないだろ、あんなのが来るなんて……なんだったんだあれ……」
一瞬しか見なかったが、アレはたしかに人間の手の形状を逸脱していた。
まるで軟体動物のようにウネッと動いて、それがこちらへ伸びてきそうになって───。
背筋にぶるりと悪寒が走る。ダメだ、もう忘れよう。
「新さん」
それにしてもツイてない。
会社近くの店で面通ししたときは普通だった。
同僚から聞いていたプロフィール通りの人物で、地方出身だが野暮ったい感じはなく、気さくで明るく清潔感のある好青年。
ちょっと見ないくらい顔貌が整っていて、背も高くモデルみたいな体型だが、外見を鼻にかけることはなかった。
喋ってみると話題は合うしテンポも心地よくて、部屋を見せたときは靴を揃えて上がってたし、ネコ次郎に失礼な態度を取ることもなくて、良い相手に恵まれたと思ったのに。
まさか想定される様々な難のあるタイプを飛び越えて、人外だとは。
「新さん」
しかしせっかく部屋を空けたのだ。あの人外が家具家電ごと出ていったらまた新しいルームシェア相手を探したい。
今度はちゃんと人間で───ん?
「おまっ、なんで中に!?」
「鍵開けは得意です。触手なんで」
「ギャーーッ!」
肌色の指に似た、明らかに別の何かをウネウネさせながら立つ男は、さっき追い出したはずの深谷だった。
触手が鍵開けできるかどうかなんて知らねぇよ!
いや今はそれどころじゃない。
「おま、おまえ……なんなんだよマジで! この家に上がり込んで、なにをするつもりなんだよ!」
「ルームシェアですが」
「人外がルームシェアするわけないだろ!」
「触手もルームシェアしますよ。家と食べ物と職がないと生きていけないんで」
職? もしかして勤務先とか本当の情報なのか? 触手も働く時代なのか?
待て、そういう問題じゃない。そもそも触手とか空想上の生き物だろ、いや生き物かどうかも怪しい。
「それでですね、新さんに正体を明かしたのは理由がありまして」
「ヒッ、わ、わかったぞ。俺を殺して人間に成り代わろうってんだろう!」
「そんなことしませんよ。ちゃんと戸籍あるし、人間の姿が問題ないことは新さんも知ってるでしょう」
触手でも戸籍取れるのか?
「じゃ、じゃあ……俺を食う気か!」
「あ、それ当たりです」
「アタリデスぅ!?」
やっぱりこいつ猟奇的未確認生物じゃねえか!
なんでこんなのが野放しにされてんの現代日本!? 業者さん呼んで!
「俺、新さんのことめちゃくちゃ好みで。精気分けてほしくて、こうして正体明かしたんです。俺の、食糧になってくれませんか?」
にっこりと笑いかける男の顔は整いすぎるほどに整っていて、現実味が薄かった。
父ちゃん母ちゃん、先立つ不孝をお許しください。
俺はこれから未確認触手に捕食されるみたいです。せめて棺桶の顔のところ開けられる程度のキレイな死体で見つかりたい。
「あ、食糧っていっても週一回くらいでいいんで」
「俺の死体をバラバラに刻んで週イチで食べるってことか……勘弁してくれ、夢なら覚めてくれ……」
「いやいや、殺しませんってば。精気ですよ、生命エネルギーっていうか……わかりやすく言えば、ヤらせてほしいってことです」
吉野 新、27歳。
人は理解不能な状況で追い詰められると思考停止するということを、今俺は身を以て知ったのだった。
そしてなぜか数分後、俺達はまた向き合っていた。
深谷は再び床に直で正座、俺はもはや畏まる意味を感じないので胡座をかいて男を睨みつける。
「なんの目的で俺の家に上がり込んだんだよ。地球征服か」
「違います。ルームシェアのためですよ、新さんだって知ってるでしょう」
「っていうかなんなんだよ触手って」
「ここを締め出さないのであれば、もちろんお教えしますけど……あ、そうだ」
ヤツの横にはさっき押し付けたボストンバッグが置いてある。
大物の家具などは先に業者が持ってきたので、あれは引越し当日にヤツが持参した荷物だ。
「これからお世話になるので、これを」
「あ、これはどうもご丁寧に」
社会人の悲しい習性として、礼儀正しくなにかを差し出されるとつい受け取ってしまう。
バッグの中から出てきたのは綺麗に包装された乾麺セットだった。
触手にも引っ越し蕎麦とかいう概念あるのか。
「それとこれ、ネコ次郎さんに」
俺はヤツの言葉にハッとして、リビングの入り口を振り返った。
臆病だが情に厚いネコ次郎は、俺がぎゃあぎゃあ騒いでいるのを心配して様子を見に来てくれたらしい。さっきまで寝床で丸くなっていたはずの黒白の小柄な体がドアのそばで硬直している。
そしてなんと触手野郎はあろうことか、その場から動かず、左手をネコ次郎にすっと向けた。
するすると肌色の触手が伸びてネコ次郎に迫る。そんな、まさか、ヤツの狙いは。
「やめろぉ! 俺はどうなってもいいっ、ネコ次郎に手を出すなーっ!」
俺は急いで立ち上がり、ネコ次郎に駆け寄ろうとして───触手の動きのほうが早かった。
ヤツは目にも留まらぬ速さで、ネコ次郎の目の前で、切ったのだ。
細長い袋の封を。
「ネコ次郎さんこれ好きなんですよね?」
「……っ、っ、ちゅ~◯かよォ!」
派手にずっこけた俺を尻目に、ネコ次郎がち○~るを舐めている。触手の先端に摘まれた赤い細長いビニールの先から出る薄い色のウェットフードを、一心不乱に舐めている。
仕方ない。◯ゅ~るの魅力には飼い主も太刀打ちできない。
そんなことより俺は深く安堵した。
ネコ次郎をこんなワケのわからない未確認生物に傷つけられたら、俺は元カノの浮気を知ったときより絶望する自信がある。
俺の最愛の飼いネコが秒で人外に懐柔されてしまったが、そんなのはあとでこいつをしっかり追い出せばいい話だ。
しかし小袋を一本食べさせ終わった人外男は俺を見つめ、にっこりとおぞましい笑みを浮かべた。
「ネコ次郎さんに手を出さなければ……新さんはどうなってもいい?」
「……ヒッ」
「今そう言ってましたよね」
「い、言ってない」
「触手は耳がいいんですよ」
「じょっ、冗談だった」
「俺、嘘は嫌いなんです。だから正体も明かしました。人間である新さんがそんな嘘つかないでくださいよ」
「……ゃ、やだ……」
「往生際が悪いですよ」
人はドアスコープ越しに人外と目が合わなくてもチビりそうになるし、いい歳の男でも情けなく泣いたりするものなのだ。
吉野新、27歳。人生は毎日が勉強だ。
たとえ世界中の誰も経験したことがなさそうな、触手にやんわり体を包み込まれるという体験をしていたとしても、人生にはまだまだ知らないことがたくさんあるのだ。
生命の危機と貞操の危機、どっちをより嘆けばいいのかわからないままべしょべしょと泣いている間に、俺の体は人外野郎に持ち上げられて運ばれた。
思いがけず優しい仕草でベッドに降ろされ、様々な水分でぐしゃぐしゃの顔のまま見上げる。
「新さん軽いですね。ちゃんとご飯食べてます?」
俺をここまで運んできた触手野郎は、まるで親兄弟か親戚のようなことを言いながら覆いかぶさっている。
やつの腕(という認識で良いのだろうか)は衣類に包まれたまま、俺の体の両側にある。胴体があって、下半身はチノパンで、脚も俺の体を跨ぐように両側に置かれている。
男に押し倒されているという状況自体、勘弁してくれと泣き喚きたいシチュエーションだが問題はそこじゃない。
四肢が間違いなくあり、顔は俺の頭上にあるのに、それ以外のなにかが俺の髪を撫でている。
「あのさ……」
「なんですか?」
「触手ってマジなの?」
「マジですよ」
どうやら俺の頭に触れていた「何か」は、ヤツの首からひょろりと伸びた触手だったらしい。
目の前に差し出されて、若干寄り目になりながらそれを観察する。
色は目の前の男と同じ肌色。質感は人間の肌よりはツルツルしてるっぽい。毛は生えてない。形状は、吸盤のないタコの脚のような。円錐状に先が細くなっていて、少し平たい面がある。
「すげぇ。エロマンガで見たことあるやつ」
「デリカシーないですねぇ」
うねうねとした動きから骨が入っていないように見えるけど、触って確かめる勇気はない。視線で根本まで辿ってみると、とりあえず長さは腕と同じくらいらしいということが分かった。
いや何も分かってない。分かった気になっただけですごめんなさい。
人間というものは極度に理解不能な状況に陥ると、逆に冷静になってしまうものだ。どちらかといえば思考を放棄しているのに近いかもしれない。
「やっぱ、その……すんの?」
「できればしたいです」
「絶対嫌だって言ったら?」
「無理やりもらいます」
「結果は同じじゃん!」
選択肢ないなら「できれば」とか言わないでほしい。
つまり合意の上で精気? の提供をするか、無理やり吸われるか。その二択なわけだ、最初から。
冷静になって引っ込んだ涙がまたじんわり滲んできたが、泣いたってどうしようもない。
「じゃあもういいよ。あげるよ、精気」
「いいんですか」
覚悟なんて全然決まってないけど、俺は努めてなんでもないような態度を取った。
内心めちゃくちゃビビってる。握った拳が震えそう。
だがこの得体のしれない触手に逆らい続けて八つ裂きにされる可能性を考えれば、エロマンガみたいにされるほうが幾分マシだ。
あれ、ちょっと待てよ。エロマンガみたいな触手ってことは。
「ちょ、ちょい待て。もしかしてこの触手ってなんか……えっちな汁とか出すのか?」
「出ますね」
「ギャア!」
目の前でプラプラと揺れていた触手から、なにかとろりとネットリの中間みたいな粘度の液体が滲み出てきた。
なにそれ汗? いやきっともっと物騒な成分が入ってる。
「やっぱやだ! 絶対やだー! 苗床にされる、産卵プレイは性癖じゃないんだー!」
「昼間っからなんてこと大声で叫んでるんですか」
触手に冷静につっこまれた。誰のせいで叫んでると思ってるんだ。
今まで見てきた触手モノのエロマンガの被害者は女子ばかりだったが、ああいう作品にはそれなりの確率で孕ませや産卵のシーンがある。
触手がえっちなことをした後に卵を産み付け、アヘ顔ボテ腹大ゴマで終わるとか、小さな触手や卵を産まされて次の犠牲者を待つとか、そういうやつだ。現代日本人男性は触手に詳しいのだ。
対象が男だとどうなるのか分からないが、可能性はゼロじゃない。卵生なら人間の女性のめしべがどうこうって話じゃないだろうし。
そして今回の被害者は俺の予定だ。無理! それだけは無理!
今までの大人しさがどこへやら、俺は手足をばたつかせてベッドから逃げ出そうとしたのだが。
「ちょ、落ち着いてください」
「うわぁっ、むぐーっ」
深谷の触手は一本だけではなかった。
しゅるしゅるとヤツの背後から触手が何本も出てきて、素早く俺の四肢を拘束する。ついでにさっきの濡れた触手を口に突っ込まれた。
うわぁ、ヌルヌルする……!
しかし口の中に入った謎の粘液は変な味などではなく、むしろ甘くフローラルな香りを纏わせていた。
元カノにねだられて行った高級フレンチのコースで最後に出てきた、デカい皿にちょっとだけ盛られたスイーツの周囲に垂らしてあったソースに味が似てる。
いや食レポやってる場合じゃない!
俺は動かせない手足を必死に引っ張りながら、口の中の触手に噛み付いた。多少は手傷を負わせられると期待して。
そうしたらなんとフローラル粘液が溢れんばかりに出てきた。不覚!
口腔内に溢れた液体を体が勝手に嚥下してしまう。
「ぁ……これ、絶対やば……」
「お察しの通り媚薬ですね」
「で、ですよね……」
粘液が通り抜けていった場所が熱い。
触手が出ていったのに口を閉じられない。無意識に舌を伸ばして、さっきの甘い液体をもっと飲みたいと思……待て、今の俺は正常じゃない!
お腹が熱い、もっと欲しい。いやだめだ正気を保て、このままじゃ本当に……。
「何か誤解してるみたいなんで言っておきますけど、苗床にしないし産卵もさせないですよ。本当にちょっとだけ、精気もらえればいいんで」
「ほ……ほんと? ちょっと、だけ?」
「えぇ」
にっこり笑った深谷は触手のくせにやっぱり顔が整ってて、なんだか妙に安心してしまった。
「ん……じゃあ、してもいいよ……」
「やった、ありがとうございます新さん。チョロい上に媚薬が効く体質で良かった」
「んぇ?」
「や、なんでもないですよ」
次に俺の唇に触れたのは、触手じゃなく深谷の唇だった。
軽く合わさったあと、躊躇なくこじ開けられる。絡まった舌はさっき口の中に押し入ってきたものと同じで、外見は人間でも中身はやっぱり触手なんだと改めて思った。
「共同生活をするにあたって、嘘をついていたくないので……先にお話ししておきたいんですが」
真剣な眼差しにビビりながらも「嘘」という言葉に嫌な予感を覚えつつ、俺も対面に正座する。妙な構図だ。
正面から見た男の顔は無駄に整っていて、姿勢も綺麗だった。
「俺、実は……人間じゃなくて」
男の言葉が理解できず、右から左へ流れていく。
今こいつはなんて言った? ジツワニンゲンジャナクテ? 何と言い間違えたんだ?
「触手なんです」
男が正座している腿の上に置いていた手が、奇妙な動きで波打った。
それは肌色の、指と手の甲だったもので、今は手首から五本に分岐した、人間の手ではない「なにか」で。
「出てってください」
■ 触手とルームシェア ■
俺は今リビングルームから、玄関へと移動している。
玄関まで追い詰め、ドアの外へ叩き出した「そいつ」を閉め出すためにドアノブを引っ張っているところだ。
「少しだけ、少しだけ話を聞いてもらえませんか」
向こうも必死だ。
ドアを押さえて閉まらないようにしているが、隙間は僅か数センチしか残っていない。
「えぇい黙れ未確認生物! せめてもの情けに家具家電は置いておいてやる、次の部屋を見つけるまで保管してやるからとっとと消えろ!」
「触手は瞬間移動とかできませんよ」
「そういうことじゃねえ! 徒歩でいいからここから去れーッ!」
ドアに挟まっていた靴先を力任せに外へと押し出し、なんとか玄関扉を閉めることに成功した。
気密性の高い金属ドアが軋むことなくピタリと閉じ、急いで鍵を掛けU字ロックも掛ける。
しばしそのままドアに張り付き耳を澄ませたが、外から物音が聞こえることはなかった。いなくなったのだろうか。
ドアスコープを覗こうとして、やめた。もしあの小さなガラス越しに未確認生物と目があったらチビる。
「はぁー……なんだったんだ、あいつ」
よろよろとリビングに戻ってきた俺はダイニングの椅子を引いてどっかりと腰を下ろした。
今日は記念すべきルームシェア初日、になる予定だった。
元々こんなはずじゃなかったんだ。俺には長い付き合いの彼女がいた。
学生時代からの付き合いで、うまがあって一緒にいると心地よくて、直接的な約束は交わしていなかったが結婚するつもりだった。その準備としてこの2LDKのマンションを借りてネコも飼った。
念願の同棲をはじめて、三ヶ月後。
彼女が浮気をして出ていった。俺とネコをこの部屋に置いて。
今考えれば俺が浮気相手だったのかもしれない。
判明したお相手は外資系のエリートサラリーマンで、顔良しスタイル良し実家が太いの三拍子揃った男だと、知りたくもないのに教えてくるやつがいた。
俺はこの広い部屋に取り残され、わずかにあった楽しい思い出がすべて裏切りの記憶で上書きされてしまった。
そんな部屋からはすぐにでも引っ越したかったが、いくらなんでも入居したばかりで出ていくのは無理だった。
新居で長く使えるようにと良い家電を買い揃えてしまったこともあって、先立つものがすっからかん。元カノは酷い女だが、今にして思えば高い家電をごっそり持ち出したりしないだけマシなやつだった。
なにより今の俺には「ネコ次郎」がいる。
元カノの実家で昔飼っていたという「ネコ太郎」に柄が似ているからと名付けられた白黒猫は、臆病で繊細な性格だ。
なによりネコは家につくと言われるくらい、環境変化を嫌うとネットに書いてあった。
ただでさえ野良生活から保護ネコ、さらには見知らぬ地で飼いネコとなっているのだから、これ以上ストレスを与えたくない。
そんな俺の事情を知った会社の親しい同僚が、ほうぼうあたって話を持ってきたのが今回のルームシェアだった。
「たしかあいつ、姉の旦那の友達があの未確認生物だって言ってたよな……」
同僚の姉の旦那もろとも未確認生物疑惑が浮上したが、今はそれどころではない。
幸せが裸足で逃げ出しそうな深く重い溜め息を吐き出して、俺はテーブルに置いたメモ紙を手に取った。
名前、深谷 伊織、年齢、23歳。かわいい名前だが男。
実家は北海道、大手スポーツ用品メーカー営業。
動物アレルギーなし、ネコ好き。
先程の人物だ。二度ほど会って、それなりに信用できそうだと思ってルームシェアを受け入れた。
元カノの痕跡を涙をのみながら全て消し去って部屋を空け、いざ入居となったのに、これだ。
「いや予測できないだろ、あんなのが来るなんて……なんだったんだあれ……」
一瞬しか見なかったが、アレはたしかに人間の手の形状を逸脱していた。
まるで軟体動物のようにウネッと動いて、それがこちらへ伸びてきそうになって───。
背筋にぶるりと悪寒が走る。ダメだ、もう忘れよう。
「新さん」
それにしてもツイてない。
会社近くの店で面通ししたときは普通だった。
同僚から聞いていたプロフィール通りの人物で、地方出身だが野暮ったい感じはなく、気さくで明るく清潔感のある好青年。
ちょっと見ないくらい顔貌が整っていて、背も高くモデルみたいな体型だが、外見を鼻にかけることはなかった。
喋ってみると話題は合うしテンポも心地よくて、部屋を見せたときは靴を揃えて上がってたし、ネコ次郎に失礼な態度を取ることもなくて、良い相手に恵まれたと思ったのに。
まさか想定される様々な難のあるタイプを飛び越えて、人外だとは。
「新さん」
しかしせっかく部屋を空けたのだ。あの人外が家具家電ごと出ていったらまた新しいルームシェア相手を探したい。
今度はちゃんと人間で───ん?
「おまっ、なんで中に!?」
「鍵開けは得意です。触手なんで」
「ギャーーッ!」
肌色の指に似た、明らかに別の何かをウネウネさせながら立つ男は、さっき追い出したはずの深谷だった。
触手が鍵開けできるかどうかなんて知らねぇよ!
いや今はそれどころじゃない。
「おま、おまえ……なんなんだよマジで! この家に上がり込んで、なにをするつもりなんだよ!」
「ルームシェアですが」
「人外がルームシェアするわけないだろ!」
「触手もルームシェアしますよ。家と食べ物と職がないと生きていけないんで」
職? もしかして勤務先とか本当の情報なのか? 触手も働く時代なのか?
待て、そういう問題じゃない。そもそも触手とか空想上の生き物だろ、いや生き物かどうかも怪しい。
「それでですね、新さんに正体を明かしたのは理由がありまして」
「ヒッ、わ、わかったぞ。俺を殺して人間に成り代わろうってんだろう!」
「そんなことしませんよ。ちゃんと戸籍あるし、人間の姿が問題ないことは新さんも知ってるでしょう」
触手でも戸籍取れるのか?
「じゃ、じゃあ……俺を食う気か!」
「あ、それ当たりです」
「アタリデスぅ!?」
やっぱりこいつ猟奇的未確認生物じゃねえか!
なんでこんなのが野放しにされてんの現代日本!? 業者さん呼んで!
「俺、新さんのことめちゃくちゃ好みで。精気分けてほしくて、こうして正体明かしたんです。俺の、食糧になってくれませんか?」
にっこりと笑いかける男の顔は整いすぎるほどに整っていて、現実味が薄かった。
父ちゃん母ちゃん、先立つ不孝をお許しください。
俺はこれから未確認触手に捕食されるみたいです。せめて棺桶の顔のところ開けられる程度のキレイな死体で見つかりたい。
「あ、食糧っていっても週一回くらいでいいんで」
「俺の死体をバラバラに刻んで週イチで食べるってことか……勘弁してくれ、夢なら覚めてくれ……」
「いやいや、殺しませんってば。精気ですよ、生命エネルギーっていうか……わかりやすく言えば、ヤらせてほしいってことです」
吉野 新、27歳。
人は理解不能な状況で追い詰められると思考停止するということを、今俺は身を以て知ったのだった。
そしてなぜか数分後、俺達はまた向き合っていた。
深谷は再び床に直で正座、俺はもはや畏まる意味を感じないので胡座をかいて男を睨みつける。
「なんの目的で俺の家に上がり込んだんだよ。地球征服か」
「違います。ルームシェアのためですよ、新さんだって知ってるでしょう」
「っていうかなんなんだよ触手って」
「ここを締め出さないのであれば、もちろんお教えしますけど……あ、そうだ」
ヤツの横にはさっき押し付けたボストンバッグが置いてある。
大物の家具などは先に業者が持ってきたので、あれは引越し当日にヤツが持参した荷物だ。
「これからお世話になるので、これを」
「あ、これはどうもご丁寧に」
社会人の悲しい習性として、礼儀正しくなにかを差し出されるとつい受け取ってしまう。
バッグの中から出てきたのは綺麗に包装された乾麺セットだった。
触手にも引っ越し蕎麦とかいう概念あるのか。
「それとこれ、ネコ次郎さんに」
俺はヤツの言葉にハッとして、リビングの入り口を振り返った。
臆病だが情に厚いネコ次郎は、俺がぎゃあぎゃあ騒いでいるのを心配して様子を見に来てくれたらしい。さっきまで寝床で丸くなっていたはずの黒白の小柄な体がドアのそばで硬直している。
そしてなんと触手野郎はあろうことか、その場から動かず、左手をネコ次郎にすっと向けた。
するすると肌色の触手が伸びてネコ次郎に迫る。そんな、まさか、ヤツの狙いは。
「やめろぉ! 俺はどうなってもいいっ、ネコ次郎に手を出すなーっ!」
俺は急いで立ち上がり、ネコ次郎に駆け寄ろうとして───触手の動きのほうが早かった。
ヤツは目にも留まらぬ速さで、ネコ次郎の目の前で、切ったのだ。
細長い袋の封を。
「ネコ次郎さんこれ好きなんですよね?」
「……っ、っ、ちゅ~◯かよォ!」
派手にずっこけた俺を尻目に、ネコ次郎がち○~るを舐めている。触手の先端に摘まれた赤い細長いビニールの先から出る薄い色のウェットフードを、一心不乱に舐めている。
仕方ない。◯ゅ~るの魅力には飼い主も太刀打ちできない。
そんなことより俺は深く安堵した。
ネコ次郎をこんなワケのわからない未確認生物に傷つけられたら、俺は元カノの浮気を知ったときより絶望する自信がある。
俺の最愛の飼いネコが秒で人外に懐柔されてしまったが、そんなのはあとでこいつをしっかり追い出せばいい話だ。
しかし小袋を一本食べさせ終わった人外男は俺を見つめ、にっこりとおぞましい笑みを浮かべた。
「ネコ次郎さんに手を出さなければ……新さんはどうなってもいい?」
「……ヒッ」
「今そう言ってましたよね」
「い、言ってない」
「触手は耳がいいんですよ」
「じょっ、冗談だった」
「俺、嘘は嫌いなんです。だから正体も明かしました。人間である新さんがそんな嘘つかないでくださいよ」
「……ゃ、やだ……」
「往生際が悪いですよ」
人はドアスコープ越しに人外と目が合わなくてもチビりそうになるし、いい歳の男でも情けなく泣いたりするものなのだ。
吉野新、27歳。人生は毎日が勉強だ。
たとえ世界中の誰も経験したことがなさそうな、触手にやんわり体を包み込まれるという体験をしていたとしても、人生にはまだまだ知らないことがたくさんあるのだ。
生命の危機と貞操の危機、どっちをより嘆けばいいのかわからないままべしょべしょと泣いている間に、俺の体は人外野郎に持ち上げられて運ばれた。
思いがけず優しい仕草でベッドに降ろされ、様々な水分でぐしゃぐしゃの顔のまま見上げる。
「新さん軽いですね。ちゃんとご飯食べてます?」
俺をここまで運んできた触手野郎は、まるで親兄弟か親戚のようなことを言いながら覆いかぶさっている。
やつの腕(という認識で良いのだろうか)は衣類に包まれたまま、俺の体の両側にある。胴体があって、下半身はチノパンで、脚も俺の体を跨ぐように両側に置かれている。
男に押し倒されているという状況自体、勘弁してくれと泣き喚きたいシチュエーションだが問題はそこじゃない。
四肢が間違いなくあり、顔は俺の頭上にあるのに、それ以外のなにかが俺の髪を撫でている。
「あのさ……」
「なんですか?」
「触手ってマジなの?」
「マジですよ」
どうやら俺の頭に触れていた「何か」は、ヤツの首からひょろりと伸びた触手だったらしい。
目の前に差し出されて、若干寄り目になりながらそれを観察する。
色は目の前の男と同じ肌色。質感は人間の肌よりはツルツルしてるっぽい。毛は生えてない。形状は、吸盤のないタコの脚のような。円錐状に先が細くなっていて、少し平たい面がある。
「すげぇ。エロマンガで見たことあるやつ」
「デリカシーないですねぇ」
うねうねとした動きから骨が入っていないように見えるけど、触って確かめる勇気はない。視線で根本まで辿ってみると、とりあえず長さは腕と同じくらいらしいということが分かった。
いや何も分かってない。分かった気になっただけですごめんなさい。
人間というものは極度に理解不能な状況に陥ると、逆に冷静になってしまうものだ。どちらかといえば思考を放棄しているのに近いかもしれない。
「やっぱ、その……すんの?」
「できればしたいです」
「絶対嫌だって言ったら?」
「無理やりもらいます」
「結果は同じじゃん!」
選択肢ないなら「できれば」とか言わないでほしい。
つまり合意の上で精気? の提供をするか、無理やり吸われるか。その二択なわけだ、最初から。
冷静になって引っ込んだ涙がまたじんわり滲んできたが、泣いたってどうしようもない。
「じゃあもういいよ。あげるよ、精気」
「いいんですか」
覚悟なんて全然決まってないけど、俺は努めてなんでもないような態度を取った。
内心めちゃくちゃビビってる。握った拳が震えそう。
だがこの得体のしれない触手に逆らい続けて八つ裂きにされる可能性を考えれば、エロマンガみたいにされるほうが幾分マシだ。
あれ、ちょっと待てよ。エロマンガみたいな触手ってことは。
「ちょ、ちょい待て。もしかしてこの触手ってなんか……えっちな汁とか出すのか?」
「出ますね」
「ギャア!」
目の前でプラプラと揺れていた触手から、なにかとろりとネットリの中間みたいな粘度の液体が滲み出てきた。
なにそれ汗? いやきっともっと物騒な成分が入ってる。
「やっぱやだ! 絶対やだー! 苗床にされる、産卵プレイは性癖じゃないんだー!」
「昼間っからなんてこと大声で叫んでるんですか」
触手に冷静につっこまれた。誰のせいで叫んでると思ってるんだ。
今まで見てきた触手モノのエロマンガの被害者は女子ばかりだったが、ああいう作品にはそれなりの確率で孕ませや産卵のシーンがある。
触手がえっちなことをした後に卵を産み付け、アヘ顔ボテ腹大ゴマで終わるとか、小さな触手や卵を産まされて次の犠牲者を待つとか、そういうやつだ。現代日本人男性は触手に詳しいのだ。
対象が男だとどうなるのか分からないが、可能性はゼロじゃない。卵生なら人間の女性のめしべがどうこうって話じゃないだろうし。
そして今回の被害者は俺の予定だ。無理! それだけは無理!
今までの大人しさがどこへやら、俺は手足をばたつかせてベッドから逃げ出そうとしたのだが。
「ちょ、落ち着いてください」
「うわぁっ、むぐーっ」
深谷の触手は一本だけではなかった。
しゅるしゅるとヤツの背後から触手が何本も出てきて、素早く俺の四肢を拘束する。ついでにさっきの濡れた触手を口に突っ込まれた。
うわぁ、ヌルヌルする……!
しかし口の中に入った謎の粘液は変な味などではなく、むしろ甘くフローラルな香りを纏わせていた。
元カノにねだられて行った高級フレンチのコースで最後に出てきた、デカい皿にちょっとだけ盛られたスイーツの周囲に垂らしてあったソースに味が似てる。
いや食レポやってる場合じゃない!
俺は動かせない手足を必死に引っ張りながら、口の中の触手に噛み付いた。多少は手傷を負わせられると期待して。
そうしたらなんとフローラル粘液が溢れんばかりに出てきた。不覚!
口腔内に溢れた液体を体が勝手に嚥下してしまう。
「ぁ……これ、絶対やば……」
「お察しの通り媚薬ですね」
「で、ですよね……」
粘液が通り抜けていった場所が熱い。
触手が出ていったのに口を閉じられない。無意識に舌を伸ばして、さっきの甘い液体をもっと飲みたいと思……待て、今の俺は正常じゃない!
お腹が熱い、もっと欲しい。いやだめだ正気を保て、このままじゃ本当に……。
「何か誤解してるみたいなんで言っておきますけど、苗床にしないし産卵もさせないですよ。本当にちょっとだけ、精気もらえればいいんで」
「ほ……ほんと? ちょっと、だけ?」
「えぇ」
にっこり笑った深谷は触手のくせにやっぱり顔が整ってて、なんだか妙に安心してしまった。
「ん……じゃあ、してもいいよ……」
「やった、ありがとうございます新さん。チョロい上に媚薬が効く体質で良かった」
「んぇ?」
「や、なんでもないですよ」
次に俺の唇に触れたのは、触手じゃなく深谷の唇だった。
軽く合わさったあと、躊躇なくこじ開けられる。絡まった舌はさっき口の中に押し入ってきたものと同じで、外見は人間でも中身はやっぱり触手なんだと改めて思った。
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