居酒屋ぼったくり

秋川滝美

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2巻

2-3

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「器用貧乏って何でも切り分けられる三徳みたいな人のことなんだよ。言うなれば、なんちゃってオールマイティー。一緒に働く人間にとっては重宝きわまりない」
「なんちゃってオールマイティー……。言葉はあれだけど、そのとおりかも」
「会社はスペシャリストだけじゃ動かない。なんちゃってオールマイティー上等。アキちゃんの上司とか同僚もきっとそう思ってる。それならそれでちゃんと本人に伝えてやればいいのに、怠慢たいまんもいいところだな」
「ヤマちゃんの言うとおり! 三徳だってちゃんと手入れしないと切れなくなる。説教で研ぐのも大事だけど、褒めたり讃えたりして水気を取ってやらなきゃびちまう」
「アキちゃんみたいに明るくて元気な働き者を粗末にするような会社、先が知れてる!」

 ヤマちゃんとケンさんは、二人して憤慨ふんがいしている。挙げ句の果てに、もういっそそんな会社辞めてうちに来ればいいのに! とまで言い始めた。
 採用を決める権限まではないはずの二人が、こんなことを言うのはちょっと無責任かもしれない。それでも美音は、ヤマちゃんとケンさんがアキのために熱弁を振るってくれるのが嬉しかった。


 そして美音もまた、我が身を振り返って思う。
 自分は今でも父の背を追い続け、いつまで経っても追いつけないと落ち込んでばかりいる。父の、こうと決めたら頑としてゆずらない職人気質かたぎや、磨き上げられた料理人の技を見て育ち、あれこそが『ぼったくり』のあるじとしてあるべき姿だと思ってきた。
 けれど今の自分には、とてもじゃないけれどそこまでできそうにない。小さな店とはいえ、知っておかねばならないこと、こなさなければならない作業は山のようにある。その全部についてスペシャリストになることはできない。
 父にしても、母に任せていた部分だってあるのだ。たとえば接客などはそのいい例だ。
 父を知る昔からの常連はよく言っていた。


「先代は料理の腕はピカイチだが、客に冗談のひとつも言えない唐変木とうへんぼくだった。俺は料理人なんだから口は上手くなくていいんだ、なんて開き直りやがってよ。そのうち店を潰しちまうんじゃねえかって、随分心配したもんだ。あれでおかみさんがいなかったらどうなってたことか……」

 シンゾウやトクの口から、何度となく漏れるそんな話を思い出して、美音はくすりと笑う。
 父さんにだって苦手なことはあったのよね。それならば私も変に背伸びすることをやめて、今できることを今できるレベルで精一杯こなしていこう。『ぼったくり』のお客さんは、私の成長を待ってくれるし、困難にぶつかったときは助けてもくれる。だから焦ることなく、でも決しておこたることなく、ちょっとずつ前に進めばいい。
 そもそも『ぼったくり』は和洋中華を問わず、あらゆる料理を出す店だ。もともとスペシャルなんかじゃない。なんちゃってオールマイティー上等の三徳だ。それなら私は、ものすごく切れ味のいい三徳を目指せばいい。出刃に負けず劣らず魚の骨まで断てるような……
 今度アキさんが来たら、ヤマちゃんとケンさんの話を伝えよう。
 会社には出刃や菜切り包丁が必要な部署もある。でも、三徳が、いや三徳だからこそ必要とされるところだってあるのだ。なんちゃってオールマイティーだって十分に胸を張っていい。それでも会社が認めてくれなければ、ヤマちゃんたちの会社に転職しちゃえ、と。
 それを聞いたところで、アキが喜んで転職するとは思えないし、「なんちゃって、ってなによ!」と不満の声を上げるかもしれない。それでもヤマちゃんとケンさんの気持ちはきっと伝わるだろう。 
 いっそ、一緒によく切れる三徳を目指そう、と言ってみようか。

「やーよ、包丁なんて!」

 とけんもほろろに言われるかもしれないけれど……


     †


 翌週、『ぼったくり』に現れ、美音からヤマちゃんとケンさんの話を聞いたアキは、依然としてちょっと投げやりな雰囲気を壊せないままでいた。それでも、「なんちゃってオールマイティーか……」と確かめるように呟いたところをみると、なにか感じるところはあったのだろう。
 次の来店も、その次のときも、アキはいつもの底抜けに明るい笑顔を見せてはくれなかった。このまま時間薬に頼るしかないか……と思いかけたある日、元気一杯の声とともに引き戸が開けられた。

「あー、お腹空いたあ! 美音さん、なにかしっかりお腹に溜まるものちょうだい!!」

 心なしか食欲までおとろえがちだったアキの、久しぶりの明るい笑顔。美音も馨も、そして常連たちまで、おお! と言わんばかりになってしまった。

「いいねえ、アキちゃんの元気な声! あんたはそうでなくっちゃ!」

 マサが、まあまあ座りねえ、とばかりに自分の隣の椅子をぽんと叩いた。

「やあねえ、マサさん。私だってたまには物思うこともあるのよ!」
「だってこのところずっと『お静か』だったじゃねえか。隣でもりもり飯食ってくれないと、俺たちも酒が旨くねえんだよ」
「あーら、マサさんってば失礼ねえ! うちのお酒はアキちゃんに助けてもらわないと美味しく呑めないとでも言うの?」
「あ、いや馨ちゃん、そういうわけじゃあ……」
「馨、意地悪なこと言わないの!」

 すかさず妹をたしなめ、美音は慌てているマサに、いいんですよ、と頷く。アキが元気になってくれて嬉しい気持ちは美音も同じだった。

「その様子だと、今日はたっぷりお酒かしら?」

 アキの元気が移ったような明るい笑顔で、美音は注文をく。
 嫌なことがあった日は、美味しいご飯をしっかり食べる。でもいいことがあった日は、祝杯を上げる。いつだったかアキはそんなことを言っていた。あの『盗み吟醸』を出した日からこっち、アキはご飯がすすまないばかりではなく、お酒もほとんど注文しなかった。けれど、今日ならきっと気持ちよく酔うことができるだろう。

「うん! もう今日はね、大祝杯!」
「もったいぶってないで、教えてくれよ! そのピカイチの笑顔はどうしたわけだい?」

 お酒もお料理も美音さんにお任せ! と丸投げして、アキは今日、会社で起こったことを話し始めた。

「あのね、うちの部長、今年で勤続二十年になったの。今日、その表彰があったんだけど……」

 その部長は中途採用だったために、イレギュラーな時期に永年勤続の表彰を受けることになった。朝礼で表彰状と記念品を受け取ったあとのスピーチで、彼は言ったそうだ。
 何を頼まれても、明るい笑顔で、ハーイ、すぐやりまーす、と返事をする。いつだって頼んだ人間の事情を優先して、自分の仕事はそっちのけでぱたぱたと片付けてくれる。それでいて、必ず間違いがないか二度三度と確認するから、安心して任せられる。それどころか、ときどきはこっちがうっかり忘れていることまで、そういえばあれやらなくていいんですか? なんて、思い出させてくれる――

「部長はね、こんなに長く、しかも気持ちよく仕事を続けてこられたのは、我が社にそういう縁の下の力持ちがたくさんいてくれるからだ、って言ってくれたの。感謝してます……って」

 彼は別に名指しでアキを褒めたわけではなかったそうだ。それなのに、部長の言葉を聞いた同僚たちは、一斉にアキを見た。
 軽く頷いた上司もいれば、あなたのことよ、とばかりに小さく指をさした女性社員、意味ありげにウインクを飛ばしてきた先輩男性社員までいた。アキを飛び越えて昇格していった後輩は、音がしないようにそっと手を合わせて拍手をしてくれたそうだ。

「私なんて事務所の備品みたいなもの。誰も見ていないし、評価もしてくれてないって思ってたけど、そうじゃなかったんだよ。それがわかって、すごく嬉しかった」
「そう……」

 アキは本当に嬉しそうだった。運動会で一等賞になった子どもみたいな笑顔。アキがそうやってニコニコしているのが嬉しくて、周りはもっと笑顔になる。

「よかったなあ、アキちゃん。神様はちゃんと見てるっていうけど、人様が見ててくれるほうが、わかりやすくていいよな!」
「ほんとよね。じゃあ、とりあえず乾杯といきましょう!」

 そして美音は、カウンター越しに酒を注いだ杯をアキに渡した。
 アキが器を覗き込むと、透明な酒に氷が浮いている。

「透明だし、お米の匂いがするから、これ日本酒でしょ? ロックなんて珍しいね」
「と、思うでしょ? でもよーく匂いをいでみて」

 米の香りがする、と言っているのにさらにもう一度、嗅いでみろと言われ、アキは怪訝けげんそうにしながらも素直に杯に鼻を近づけた。

「あ……れ?」
「なんだい、なんだい、何でそんな不思議そうな顔になってんだ?」
「ねえ、マサさん、これちょっと……」

 自分の感じたものに自信が持てなかったらしく、アキは杯をマサに渡した。マサは注意深く鼻を近づけて、そっと息を吸い込んだ。

「ウイスキーみたいじゃねえか! 透明なのに……」
「だよね。お米で造ったウイスキーみたい……って、あ、そうか、米焼酎こめじょうちゅうだ!」
「ピンポーン! アキさん正解でーす! ただし、正確にはウイスキーと焼酎は違うものなんだけどね」

 ウイスキーは麦芽を使って二度蒸留し、長期熟成させる。焼酎は麦や米などのこうじを使い、一度きりの蒸留で熟成期間も短い。それでも両者が蒸留酒であることに違いはない。お米で造ったウイスキーみたいというアキの感想は言い得て妙だった。

「これは『益子ましこの炎』っていう米焼酎なの。この間、日本酒を造っている蔵に行ったときに、一緒に買ってきたのよ。癖がないからどんな料理にも合わせやすいし、焼酎だから保管場所に気を遣わなくていいし」

 うちの冷蔵庫は冷やしておかなきゃならないお酒で満員なのよ、と自慢だか愚痴ぐちだかわからないような口調で言ったあと、美音は酒について説明を始めた。
『益子の炎』を造っているのは焼き物の街として有名な栃木県益子にある株式会社外池とのいけ酒造店という蔵である。一八二九年に近江商人が栃木に開いた酒蔵の流れを汲み、一九三七年に現在の栃木県芳賀はが郡に蔵を移転。それ以来、『懐かしくこころゆ益子の酒蔵』という言葉を掲げ、現在まで操業を続けている。美音は蔵見学がてら、代表銘柄である『燦爛さんらん』を仕入れに行き、この『益子の炎』も一緒に買ってきたのである。
『益子の炎』は清酒『燦爛』を造る際に生じる酒粕さけかすと精米過程で生じる米粉を利用して造られており、米の旨みを存分に味わえる酒である。雑味がなくすっきりとした味わいは、どれだけ呑んでも飽きることがない。

「私はあんまり焼酎には詳しくないんだけど、これはすごく呑みやすくて美味しいと思ったの。日本酒に似ているせいかしらね?」
「『益子の炎』……じゃあ、もしかして、これも?」

 アキが手に持った杯を改めて見つめた。

「そう、益子焼。素敵でしょ? 売店で見たら、あれもこれも欲しくなっちゃって大変だったわ」

 湯呑みよりも大ぶりで握りやすい筒型で、手に持ってみると予想以上に重く、手触りはぽってりとしている。白地に茶色の筆で描いたような模様が入ったその器は、益子焼の特徴をよく表していた。
 益子焼の器に、益子産の酒を入れたら、きっと器も酒も喜ぶだろう……そんなことを思いながら、重い器と酒を抱えて帰ってきたのである。

「美音坊……酒や器が、わーいわーいって喜ぶのかい?」

 マサが面白がって美音をからかう。けれどアキは、確かに手の中の杯も酒も、一緒にいられてよかったねーなんて囁き合っているような気がすると言った。

「益子焼もこの『益子の炎』ってお酒も素朴で出しゃばらないんですよね。どこに置いても馴染なじむ器と、どんな料理でも馴染むお酒。なんていうか……」
「アキちゃんみたいだよね!」

 美音が言いかけた台詞セリフを、馨が横からさらっていった。
 どこにでも、何にでも馴染むというのはとても大切なことだ。特に『ぼったくり』のような居酒屋にはなくてはならない。だがそれは、心模様によっては『つまらない』と捉えてしまいそうな言葉でもある。あの、後輩が昇進してしまったとなげいていたときのアキならば、そんなふうに受け取ってしまいかねない。
 けれど、今日のアキなら大丈夫。自分の価値を周囲が認めてくれていたことを知り、誇らしげに笑っているのだから……

「ありがとう! 人間って、本当に現金よね! 『なんちゃってオールマイティー』っていいことなのかな……って悩んだけど、周りが私を評価してくれてるって実感できたら、急に自信が出てきちゃった」
「そうか、そうか、自信が出てきたか!」

 マサは目を細めて、けっこうけっこうと頷いている。そんなマサを尻目に、アキが呟く。

「私も何か新しいことでも始めてみようかな。あの子みたいに英語は無理だけど……」
「おう、そいつぁいい考えだ! 手始めに料理とかどうでえ? ささーっと飯が作れるようになったら、『ぼったくり』に通い詰めなくてすむぜ?」
「うわー、マサさん、なんてこと言うの! うちのお客さんが減っちゃう!」

 抗議を込めて、馨がマサの背をばんばん叩く。「いてえよ、馨ちゃん、冗談じゃねえか」と悲鳴を上げるマサを笑ったあと、アキはカウンターの向こうにいる美音を見上げて言った。

「どれだけお料理ができるようになっても、私はここに来るのをやめたりしないよ。ここは、お腹をいっぱいにしてくれるだけじゃなくて、心を元気にしてくれるところだもん」
「いいこと言うねえ、アキちゃん! たとえ酒やさかながなくても、みんなでわいわいがやがややってるうちに問題解決!」
「だーかーらー! どうして今日のマサさんは、うちのお酒や料理に問題があるようなことばっかり言うの!」
「そういうわけじゃないって」

 マサはまたしても馨にばんばん叩かれている。
 馨ってば、お客さん相手に何やってるの、とは思うものの、マサはまるで孫娘とたわむれているように楽しそうな顔をしている。まあそれならそれでいいか……と見守って、美音はボウルに卵を二つ割り入れた。
 冷蔵庫の中から豚肉、野菜入れからタマネギ、人参、ピーマン……と、取り出してどんどん刻んでいく。この料理にはベーコンがよく使われるけれど、食べ応えを出すためにあえて豚肉のスライス。ついでに、ウインナーも小口切りに刻んで入れる。そして忘れてはならないのは、茹でたジャガイモ。生でもいいのだが、時間がかかるので美音はいつも、あらかじめ茹でておくのだ。
 それらを全部、フライパンで炒めて濃いめの味を付けた。炒めた野菜と溶き卵を見て、アキの目が輝く。

「もしかしてスパニッシュオムレツ!?」
「ご名答!」
「きゃー! 嬉しいっ! チーズ、いーーーっぱい、入れてね!」
「はいはい、お任せください」

 アキの要望どおり、炒めた材料と溶き卵をまぜたボウルにチーズをひとつかみ入れ、よく熱したフライパンに一気に投入。


 ジャーッという音、そしてチーズが焼けていく匂いに、さらにアキがうっとりする。蓋をして弱火でじっくり両面を焼き、火が通ったのを確認して出来上がり。
 美音は、大きなお皿をフライパンに被せ、よいしょっとばかりにひっくり返す。
 チーズを入れたおかげでぱりっと焼き上がったオムレツに、包丁で切り目を入れ、上には真っ赤なトマトケチャップ。ちなみに男性常連客はたいがいケチャップなしだが、アキは頑としてオムレツ系にはケチャップ、とゆずらない。

「この黄色と緑の取り合わせがいいよね! 冬ならほうれん草だけど夏はピーマン。ブロッコリーだってアスパラだってOK。栄養もたっぷりで、そこに真っ赤なケチャップ! 完璧!」
「赤なら人参でいいじゃねえか」
「このほんのりとした甘みがいいの! ほっといてちょうだい!」
「ガキみてえだぜ、アキちゃん」

 ガキでもいいの! 美味しければ! なんてマサとやり合っているアキは、もうすっかり、いつものアキだった。

「はい、おまちどうさま! けんかしないで熱いうちにどうぞ!」
「うわーっ! ジャガイモたっぷり! お腹ぺこぺこだからすっごくうれしい! 美音さん、ありがとう!」

 アキはもうマサとのケチャップ論争など忘れたように、さっさと箸を取り上げ、分厚く焼けたスパニッシュオムレツの一切れを口に運ぶ。

「あー、外カリ、中フワだー! ケチャップがすごく合ってるし!」

 美音は豪快に平らげていくアキを見ながら、肉、野菜、出来上がったオムレツ……と刻み続けた包丁を丁寧に洗う。


 いつもよく働いてくれてありがとう。お店が終わったら、ちゃんと研ぐからね……
 三徳は何でもこなせる万能包丁。でも、相手を選ばず活躍してもらうためには、やっぱり日頃の手入れは欠かせない。アキは新しいことを何か始めたい、と言ったけれど、包丁の手入れも同じようなものかもしれない。どんなによく切れる包丁も手入れをおこたっては切れ味が落ちる。必要に応じて包丁を研ぐように、新しい経験をすることで自分を高めていく。経験に溺れることなく研鑽けんさんすることで、アキは会社にとってなくてはならない人材になっていくことだろう。


 私も、いつもの暮らしに満足していないで、今までとは違うことを始めてみようか……


 心の中で、そんなことを考えながら、美音は働き者の包丁をしっかりと拭き上げた。

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