最期の時まで、君のそばにいたいから

雨ノ川からもも

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💧 Life3 ふたりのかたち

産声

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 *

「――う、丈」
 あまねのか細い声に起こされたのは、ふたりで迎えた二度目の春のこと。満開の桜が散る、ある夜だった。
「ん……どした?」
 深い眠りから引きずり出され、回らない呂律で力なく答えた丈だったが、
「なんか痛い。きたかも」
 その言葉と苦痛に歪んだ表情を見て、冷や水を浴びたようにがばっと飛び起きた。
「えっ、うそ!?」
 壁時計が示すのは、深夜一時過ぎ。ついに。
 就寝前は別段変わった様子はなかったが、考えてみれば、三月の終わりが予定日だったのに、もう四月に入っている。いつ産気づいても、不思議ではない。
 えーと、こういうときって、まずどうすればいいんだっけ? 陣痛の間隔測定? 家族に連絡する? どっちが先だ? いや、その前に救急車? けどまだ別に破水したわけじゃないし、普通は車とかタクシーで行くよな……?
 混乱する丈を横目に、あまねは枕もとに置いた自分のスマホを、とん、と小さくタップした。どうやらすでに、アプリか何かで陣痛の間隔を測り始めているようだ。まだ余裕はあるらしい。
 こんなときですら、彼女のほうが冷静だなんて。情けないやら、恥ずかしいやら、悔しいやら。なんだか複雑な心境である。
「落ち着いてね? パパ」
 茶目っ気のある声でそう言って、初期の頃からは想像もできないほど大きくなったお腹を優しくさする彼女は、もう母の眼差しをしていた。

 その後、それぞれの家族に連絡を入れ、陣痛の間隔が十分を切ったところで、お義父さんの運転する車に乗り込み、四人そろって病院へ。
 車内でこそ、丈のひざを枕にして後部座席に横たわり「いたい!」だの「あ~」だの「う~」だのと叫び、ときに「いたいってばもうっ!」と怒りさえしていたあまねだったが、診察を経て、夫婦ふたりで陣痛室に入ってから徐々に口数が減っていき、朝の気配がし始めた頃には、一言も喋らなくなってしまった。
 痛みのあまり、本当に気力が尽きたのか、いよいよ始まるお産に向けて、体力を温存しているのか。
 水も飲まず、蒼い顔をして荒い息を吐き、額に汗を滲ませながら、ひたすらにじっと耐えている。
 いつになく無口な彼女に、どんな言葉をかけて、何をしてやればいいのか分からない。
「大丈夫?」「痛い?」なんて愚問だし。
 お腹とか腰とか、さすってあげたほうがいいのかなって思うけど、むやみに触って痛みが増したら大変だし。ここはプロに任せよう。
 ただ、そうなると、ベッドの端に座って、手を握っていることくらいしかできなくて。
 何より、お互いの皮膚が白くなるほどきつく握られた手から、懸命に「離さないで」という切実な思いが伝わってくるようで。
 病院へ向かう車中、もしものことがあったときは君を選ぶ、と話したら「相変わらず重いなぁ。そんなドラマみたいなこと、そうそう起こらないから大丈夫」と笑われたけれど、現状を突きつけられた今、その「ドラマみたいな悲劇」がありえてしまうのでは、なんて不安がにじり寄ってくる。
 まだ、痛みに泣き叫んだり、喚いたりしてくれたほうが、こちらとしては気が楽だ。
「っ……!」
 痛みの波がくると、彼女の握る力が一気に強くなる。そっと握り返して、ふー……ふー……と深呼吸を促しつつ、空いているもう片方の手で、ひざ上に置いた彼女のスマホをタップする。
 しばらくして、握りしめる力がすーっと弱まったら、痛みが引いた合図だ。一緒になって力を抜き、またスマホをタップする。
 そんなことを繰り返すうち、いつの間にか陣痛が始まって八時間半が過ぎ、窓の外はすっかり明るくなっていた。
 深夜の陣痛は、眠気と痛みのダブルパンチだ。今はまどろむ余裕もないだろうけれど、少しでも睡眠を取った後でよかったと思う。
 現在の間隔は二分を切ろうというところで、一回の波も九十秒程度とずいぶん長くなってきている。そろそろ分娩室へ移る間合いかもしれない。
 助産師曰く、中には子宮口が開くまでに丸一日や数日かかる人もいるので、初産としてはかなり順調なほうらしいが、あまねにとっては充分長い闘いだろう。
 ともあれこのままいけば、彼女の「何がなんでも自然分娩で産む」という願いは無事叶えられそうだ。
 一度帝王切開してしまうと、以降の妊娠、出産に関して様々な制限が設けられる可能性があるようで、そこには強くこだわっていた。
 無理もないと思う。自分たちに今日と同じ明日が待っている確率は、周囲よりもずっと低いのだから。
 家族や子供についてだけでなく、与えられた時間を精いっぱい生きるためにも、そういった縛りごととは極力無縁でいたい。
 痛みに苦しむあまねの手を、幾度も握り返しながら、つい考えてしまう。
 無力だ、と。
 僕は君の、なんなのだろう。もちろん夫なわけだけれど、そういうことじゃなくて。
 非力な僕が、わざわざこうしてそばにいる意義は、あるのだろうか。
 と、陣痛室に入ってから、ろくにうなり声も上げていなかったあまねが「ねぇ……」とかすれた声で呟く。
「あんた今、なんか余計なこと考えてたでしょ? どうせ、僕には何もできないー、とか」
「えっ」
 出し抜けに図星を指されて、ギクリとすると、
「手って案外伝わるんだぞ~?」
 からかうように言って、弱々しい笑みを浮かべた。
「だって……」
「出た。丈の『だって』」
 つかの間戻ってきた日常に、ほっと胸をなでおろす。
「同じ痛みを味わえないことが無力だって言うなら、出産に関しては、男はみんな無力だよ。こうやって一晩中寝ないで付き添って、ちゃんとできることやってるんだから、そんなに自分を責めなくていいの」
 彼女はいつも、欲しい言葉をくれる。まるで見透かしたように。
 でもけっしておべっかじゃなくて、心から。
「それに、立場が変われば私だって同じ。あんたが体調悪くて吐いてても、代わってあげられるわけじゃないもん」
 彼女の強さに、もう何度救われたことだろう。
「とにかく、今そばにいてくれるのは、丈じゃなきゃ。あんたとの子なんだし。――っ!」
 数時間ぶりに訪れた平穏は、またすぐに、激しい痛みに奪われてしまった。

 *

 ――痛い! 痛い痛い痛い痛い痛いいぃぃ!
 あまねは分娩台の上で、声にならない叫び声を上げた。
 ――無理! もうっ、ほんとに無理!
 丈は病院に着いてから徐々に口数が減ったことをえらく心配していたようだが、いきみ逃がし中は力を抜かなくてはいけないし、陣痛が強くなるにつれて、声に出す余裕すらなくなっただけだ。心の中では、こんなふうに何度も叫び散らかしている。
 おまけに、痛すぎるせいか、お産が進んでいるからなのか、もう何時間もずっと気持ち悪い。波が襲ってきたときにうっかり喋ったりしたら、そのまま吐いていたかもしれない。
「はい、いきんでー」
「ふんっ、んんん~っ!」
「痛い」の一言はなかなか発せないのに、助産師の合図に従っていきめば、あまりの痛さに涙が滲み、思わず声が漏れてしまう。お産の際はかえって力が抜ける原因になるので、なるべく出さないほうがいいのだけれど。
「そうそう、上手ですよー。もう、頭見え隠れしてますからねー」
「自分のおへそ見てくださーい。かたいうんちするような感覚で」
 唯一の心の支えは、手慣れた助産師の声かけ――ではなく、隣にいる丈のぬくもりだった。助産師にとっては何十、何百と見届けてきたうちの一組にすぎないのだろうが、彼にとっては、妻も子も、目の前の私たちだけだ。
 相変わらず少し不安げな顔つきのまま、何も言わず傍らに立って、体を前へ引くためのレバーを握っていないほうのあまねの手と、自分の手をつなぎ、いきむタイミングでほんのわずかに力を注いでくれる。
 きっと本当は、「頑張れ」とか「痛いね」とかそんな言葉が脳裏をぐるぐるしているのだろうけれど、それを安易に口にしないところが、彼らしいと思う。
「っっ――!」
 自分の内側から、ものすごいものが出てこようとしているのが分かる。痛みでどうにかなってしまいそうなときには、もうすぐ産まれてくる我が子のことを考える。
 ――赤ちゃんだって、暗くて狭い産道を通ってくるんだ! 一緒に闘ってるんだ! この痛みを乗り越えたら、会える!
 そう思えば、自然と痛みがやわらぐ気がするから不思議だ。
「はっ、うぅ~っ、はぁっ……」「くっ……あー、はぁっ……」
 いきんでは休み、いきんでは休む、を繰り返しながら分娩台で格闘すること、約三十分――
「んっ、んん~っ、いっ……っ、あっ、あ、あ、あ、うっ、っ、あっ、あ――――――あぁっ!」
 人生最大の絶叫の後、三一二五グラムの男の子が産声を上げたのは、激痛に耐え続けて実に九時間が過ぎた、四月二日の、午前十時頃だった。
 元気な声に耳を傾けながらひとつ深く息を吐いて丈を見やれば、「ありがとう……」「ふたりともよく頑張ったね……」とみっともないくらいに泣いていた。
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