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💧Life2 蒼きジレンマ
「お前のことが大事だ……と思う。たぶん」
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声を殺して泣き続けて、どれくらい経っただろう。
ようやく落ち着いてきた頃、閉めきった出入り口の向こうから、足音が聞こえてきた。
「あまね」
――どうしてこのタイミングで。
無言を貫くわけにもいかず、濡れた頬をあわててこすり「なに?」と答える。
出入り口がわずかに開く。
「そろそろ仕事行くけど……って、えっ」
もう大丈夫だと思っていたのに、
「なに泣いてんの? お前」
父と目が合ったとたん、なぜか一粒のしずくがつたった。そしたら、蛇口の栓が緩んだみたいに、また止まらなくなった。
「うっさい。私だって泣くことくらいあるわよ、人間なんだから」
俯いて涙声で憤慨すると、父はまるで、母親を探して泣く迷子と偶然鉢合わせてしまったような、気まずい視線を寄越してくる。
「……ったく、意味わかんねぇ」
ぶつくさ言いながらリビングに足を踏み入れると、テレビの前に置かれたティッシュ箱を手に取って、仏頂面で丸ごと差し出した。
「何があったか知らねぇけどさ。お前、最近おかしいだろ」
あまねは起き上がってティッシュを数枚引き抜き、鼻をかみながら、思う。
たしかに、おかしい――自分が思っているよりも参っているのかもしれない。とんでもなく鈍いはずの父に、そう言われるくらいなのだから。
「あのさ、私ってなんでこんな変な名前なの?」
ふと気になって尋ねてみる。
「はぁ? なんだよ急に。てか、さらっと変とか言うなよ」
「だって変なんだもん」
泣きながらいろいろと想いを巡らせるうち、思い出したのだ。丈の存在を初めて意識したあの日、彼の名前はフルネームにしてみてもあだ名みたいで、自分に負けず劣らず変ちくりんだなと感じたことを。
「どうせ、梅雨の時期で雨ばっか降ってたから、とかだろうけど」
半ばやけになって言うと、父は「まぁ、間違ってはねぇけど……」と無精ひげの生えたあごを撫でながら腰をおろした。
「強いて言えば、逆だな」
「逆?」
想定外の返答に、思わず訊き返す。
「ああ。お前の言う通り、梅雨真っ盛りで雨ばっかだったんだけど。なんでか――お前が生まれた日だけ、からっと晴れてたんだよな」
十時間を超える陣痛に耐え抜いた母は、生まれて間もない娘を抱きながら、果てない青と自慢げに輝く太陽を見て、こう呟いたという。
――あたし、雨の音が好きなのに。
「んで、なんでこんなときに限って晴れなんだって怒りだすから、そんなに好きならこいつにそういう名前付ければって言ったんだ」
まさか、父の発案だったとは。
「漢字に悩んだけど、『雨』に『音』は露骨すぎるし、『天』に『音』もなんか仰々しいから、もうひらがなでいいんじゃね? ってなって。俺らバカだったし」
さも当然のように自分たちをバカ認定した父に、あまねは白けた視線を投げた。
「途中まで案外いい話かと思ったのに、最後はやっぱ適当だった……」
「うるせぇ。適当じゃねぇよ」
子供のようにそっぽを向き、拗ねた口調で吐き捨てる父。その横顔は幼稚で、どこか微笑ましくもあった。
あまねは、小さく息を吐いて、吸う。
「私ね、ずっと、自分はいらない子なんだって思ってた」
母は、真っ赤なドレスがお気に入りだった。そんな格好で深夜まで町中をほっつき歩いては、酒に溺れて、煙草の臭いを漂わせながら玄関で倒れた。自堕落な母の姿を見るたび、自分は絶対に酒にも煙草にも手を出さない、と幼心に誓ったものだ。
父は不愛想で仕事ばかり。早朝に帰ってきたと思ったら、ただいまも言わずに夕方まで寝室に籠って、また出かけてしまう。
家族三人、川の字で寝たことなんか、一度もなくて。
愛されていない。
物心ついたときから、そういうむなしさというか、心の穴みたいなものは、常にあった。
思春期と呼ぶにはまだ少し早い年齢で、新しい命がどうやって芽吹くのかを知ってしまってからは、ますます。
「私はふたりの過ちで生まれた子だから、お利口にしてなきゃ捨てられちゃうって」
「バカ言え。そんなんだったらおろしてるわ」
さっきから、バカバカうるさいやつだ。
「気づいたときにはもう……とかじゃなくて?」
真面目腐って訊けば「あのなぁ……」と呆れ気味に苦笑される。
「アレが二ヶ月きてないとかのん気なこと言ってるから病院連れてったら妊娠してて、当たり前みたいに産む気でいるから親説得して高校やめて、入籍した」
父は一気に捲し立てた後、ばつが悪そうにまたあごを触った。年頃の娘に世間体のよくない過去をさらすのは、少なからず気が引けるのだろう。
「つーかなんだよお前、その、デキ婚イコール……みたいな発想。ドラマの見すぎだ」
「しょうがないじゃん。だって私、テレビが友だちだったんだもん」
思わず、詰責を込めて言いきってやる。
中学に上がって勉強が忙しくなり、それと同時にキッズ携帯を卒業してスマホを手に入れてからはある程度落ち着いたが、以前は本当にそんな状態だった。
家に帰って宿題を済ませると、薄暗い部屋でひとり、適当なレトルトか、冷凍食品を温めて、貪りながらテレビを見る。
風呂に入ってパジャマに着替え、少し風に当たったら、眠気が訪れるまで、またテレビを見る。
父も母も、教師も教えてくれない、世の中のいろいろなことを、テレビ画面の中から学んだ。さほど視力が下がらなかったのは、神様が孤独な私に同情してくれたのかもしれない。
そういえばあの頃――小学校四年生くらいまでは、自室が嫌いだった。二十四時間のうち、自分の姿が親の目に一度も触れないのが嫌で、せめてもと思い、リビングに布団を敷いて寝ていた。ちょうど、今みたいに。
余計なことを思い出してしまった自分に辟易し、あまねは小さなため息をつく。
「結局さ、お母さんは、お父さんのことは好きだったのかもしれないけど、私のことはどうでもよかったんだよ」
面と向かって「お父さん」と呼んだのは、とても久しぶりな気がした。
どうでもいい。
それが母の口癖だった。そんな無情な心のままに、母は私を捨てたのだ。もうどんな言葉を並べても、その事実は覆らない。
愛の反対は無関心。
いつかマザー・テレサが言ったように、周囲に関心を持たないことは、ときに周囲を憎悪するよりも罪になる。
母の二の舞にはなりたくないけれど、私には分からない。どんな場所でも、ねじ曲がった自己顕示欲を振りかざし、存在を忘れられないようにするだけで、精いっぱいなのだ。
愛については、テレビも明確な答えをくれなかったから。
「……母さんの気持ちは、よく分かんねぇけどさ」
父は渋い顔で静かに呟いて、腰を上げる。
逃げるのか、と恨めしく睨みつけたとき、
「俺は、少なくともお前が思ってるよりは、お前のことが大事だ……と思う。たぶん」
――えらく遠回しに、曖昧に、柄にもないことを言った。
不覚にも心が揺れ動いてしまった自分をごまかしたくて、
「なにそれ。意味分かんない。キモい」
思いつくまま無遠慮に言葉を投げつけた。
だが、父はまったく相手にせず「さーて、仕事仕事」なんて言って、リビングを去っていく。
涙は、いつの間にか止まっていた。
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