文月帳〜短編&番外編〜

文月 青

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ショートショート編

私の夫

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そもそも始まりが最悪だった。何故なら私の不注意で夫に怪我させたことから、そんな願望なんて微塵もなかったのに、彼と結婚する羽目になってしまったからだ。私が二十九歳、夫が二十四歳のときだ。

「すみませんでした」

念の為病院で治療を受けた後、持ち合わせがなかった彼に代わって診療費を支払い、タクシーで一人暮らしをするアパートまで送り届けた私は、何度目か分からない謝罪を口にした。

「大丈夫ですから、もう謝らないで下さい。たまたま僕が貴女の後ろにいただけで、助けたわけでもありませんし」

仕事帰りに友人と会う約束があった私は、時間に急かされるまま駅の階段を上り、五段目あたりで足を滑らせて落っこちた。そのとき後ろにいて巻き添えを食った夫は、私を庇うように落ちた挙句足を痛めた。捻挫だけで済んだのは不幸中の幸いだった。

「診療費とタクシー代は後程お返ししますので」

「とんでもありません。せめてものお詫びです」

「それは駄目です。必ずお返しします」

にっこり笑った夫は人が良さそうな反面、とても幼く、頼りなく見えた。良心の呵責と持ち前の庇護欲を刺激された私は、以降何くれとなく彼の面倒をみた。

たぶんそれがいけなかった。夫は私に甘えるのが日常化し、その後の通院代も交通費も当然のように私に払わせるようになった。

「怪我のせいで仕事ができなくて、クビになってしまいました」

やがてそんなことを言い出し、同時に私に結婚を匂わせ始めた。

正直結婚なんてしたくなかった。三年前につきあっていた男が浮気性で、遊びに行く度に違う女の子とよろしくやっていたので懲りたのもある。が、一番の原因は姉だ。

年子の姉は大恋愛の末結婚したが、優しさだけが取り柄の相手は極度のマザコンだった。毎日姑と旦那を取り合う姉に、夫への愛情など欠片も残っていなかったが、

「クソババアを喜ばせてたまるもんですか」

意地の張り合いが高じて、離婚を勧める実家の両親を余所に、妻の座にしがみついているのだ。その姿は私を可愛がってくれた姉のものではなかった。

こんな修羅場にばかり遭遇していれば、一般の女性が憧れてやまない結婚に、夢も希望も抱けるはずがなかった。

「痛くてしゃがむのも辛いんだ」

捻り方が悪かったのか、夫の足はなかなか完治しなかった。骨に異常はないので、おそらくふくらはぎや太腿に、二次的に影響が出ているのではないかという。

「いつ入籍する?」

つきあってもいないのに、既に選択肢がなくなっているような気がした。

でも怪我をさせて仕事を奪った責任もあるし、このままお金を要求され続けるのも困る。いずれ怪我が治ったら働くだろうし、お財布が一緒なら気持ちの上での負担も減る。どうせ愛などはなから求めていない。それならいっそのこと……。

こうして清水の舞台から飛び降りる覚悟で、私は嫌だった結婚に身を投じた。




「ただいま」

仕事を終えて二人の家、もとい私が一人暮らしをしていたアパートに帰ると、夫が炬燵に入ってぬくぬくしながらゲームをしていた。三月初めで肌寒くはあるが、室内は暖房で温まっているのに、更に炬燵まで背負っているとは。

「お腹空いた。早くご飯にしてね」

その一言にイラッとしたが、ただでさえ疲れているのだから、これ以上無駄な労力を使いたくなかった。

「今日は何?」

「魚」

「えー、たまには分厚いお肉が食べたいなあ。君ちゃんと働いてるの? 大黒柱ならもっと頑張ってくれなくちゃ」

奴のたわんだ尻に包丁を突き立ててやりたくなった。煩い、だったらお前がしっかり働いてこい! その台詞を必死で呑み込む。ここで喧嘩をしても疲弊するのは私だ。

人間の本質は簡単には変わらない。結婚して二年が経過したが、夫は未だに仕事をしていなかった。

「通院するとお金がかかるから行かない。でも痛いから仕事もできない。働く意欲はあるんだけどね」

堂々と意味不明な理由を連ねている。おそらくもう病院からは門前払いされる状態、つまり健康なのに違いない。

まともなプロポーズも指輪を贈られることもなく、なんの真新しさもない自分の部屋でスタートした新婚生活。トップを切って届けられたのは、夫が独身時代に滞納した税金の督促状だった。

「何なの、これ」

初めてこんな紙を受け取った私は、驚きのあまり目を剥いた。

「督促状だよ。知らない?」

「そんなことを聞いてるんじゃないわよ」

怒って問いただすと、夫は給料の殆どを趣味のゲームやラジコンにつぎ込んでいたらしく、税金も年金の支払いも滞っていた。当然貯金はゼロ。正確にはATMで引き落とせない小銭のみ。

「結婚後にかかるお金は仕方がないにしても、独身時代の借金は身内に頼むなりして清算して。もちろんいずれ仕事をして返してね」

私の意見に夫は素直に頷いた。しかし翌日義母からはとんでもない答えが返ってきた。

「結婚したんだから、自分達のことは自分達でどうにかしなさい」

いやいや、元は貴女の息子の不始末ですが? おまけに諸悪の根源までがのほほんと宣う。

「僕もお母ちゃんの言う通りだと思う。自分達で何とかしなくちゃ。だから君が払うべきだよ」

はあーっ? 冗談じゃないわよ。私はあんたを養う為にいるんじゃない!

憤ったところで夫サイドは支払う意思もなく、放っておけば督促状はうちに届き続けるし、金額も膨らんでゆく。私は涙を飲んで全額支払った。

よくよく確かめてみれば、義父が仕事をころころ変える人で、一家は常に生活苦に悩まされていたそうだ。しかも夫を含めて子供が六人もいて、義母も代わりに職に就くことができなかった。

「お母ちゃんのお兄ちゃんて人が、気の毒がって援助してくれたんだって」

それ程までに苦労したなら、何故夫からは切羽詰まった感じがしないのだろう。その理由が分かった気がした。たぶん夫は人に助けられることに慣れているのだ。困ったときは誰かに甘えてよいのだと。義母の言葉も然り。

「俺は君よりたくさん苦労してきたんだよ」

胸の中に黒いモヤモヤが広がる。私は苦労らしい苦労をしたことはない。両親は私も姉も大学まで出してくれたし、習い事にも通わせてくれた。ありがたいと思っている。

けれど夫の苦労は、苦労の範疇に入れてもよいのだろうか。子供の時分はいざ知らず、大人になってからの諸々は自己責任の筈だ。苦労で済ませるのはどうなんだ?

夫の微妙な片鱗は次々に現れた。例えば体調を崩して病院で点滴を受けている私の枕元で、

「明日は休まずに仕事に行ってよ。生活ができなくなるでしょ」

文句を垂れたのだ。これには私だけではなく、医師も看護師さんもびっくりしていた。

収入のない大人を一人養うのは結構きつい。まして夫は浪費家だ。友達に結婚祝いをしたいと三万貰って、その日のうちに新しいゲームソフトやラジコンを買ってくる。そうしてまたお金を催促することの繰り返し。

なのに体に鞭打って出勤する私を労わりもせず、自分を棚に上げて責める始末。

「お母ちゃんが可哀想だから、家に少しでもお金を入れろよ」

実家住みの弟に電話で説教するのを聞いたときは、どの口が偉そうにと蹴っ飛ばしてやりたくなった。

「ああ、今日は足が痛くて正座もできない」

そのくせちくちくと脅迫も忘れない。

「もう充分お詫びはしたでしょう。別れなさい」

姉のみならず私までがろくでもない結婚をした為、両親は毎日のように懇願する。

「一生あのヒモにたかられるわよ」

とっくに夫をヒモ認定した友人も、会う度に私の説得を試みる。

最初のうちは私も離婚したくて仕方がなかった。こんな地獄を延々と味わうなんてごめんだった。しかし今別れたら私には何も残らない。せめて夫に搾り取られた金額と、私が無駄にした時間だけは返してもらわなければ。

そう、それは意地。私は姉と同じ道を辿ったのだ。結婚において大事なことは、人の良さや優しさではないと私達姉妹は学んだ。

「お母ちゃんの誕生日にプレゼントを贈りたいから、後でお金頂戴ねえ」

ゲームの音楽と共に、大きな子供がおねだりをした。目減りする預金残高に思いを馳せながら、私はだんだんと音を立てて、ねぎのぶつ切りを大量生産したのだった。


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