文月帳〜短編&番外編〜

文月 青

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ショートショート編

日向ぼっこ

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九月終わりの穏やかな空の下、私達は縁側に座ってまったりとお茶を飲む。二人とも五十歳になったばかりで、まだ隠居するには早いけれど、猫の喧嘩や草の間から唐突に姿を見せる虫に驚きながらも、忙しい毎日を癒す週末のこの時間が大好きだ。

「後悔していないか?」

どんなに幸せだと繰り返しても、彼はいつもこの問いを口にする。

「やっと一緒にいられるようになったのに、嬉しい気分に水を差さないで」

だから私も決まって同じ答えを返す。それでも彼は淋しそうに、どこか申し訳なさそうに笑むのだ。あの頃と変わらない、けれど年齢を重ねた大人の顔で。

二人がつきあっていたのは二十代の頃だった。友人の紹介で知り合ったものの、話をしたら何もかもが正反対。彼が野球と水泳とスキーが趣味だと言えば、読書と編み物と映画鑑賞を好むと言う私。そこから始まって朝食はご飯かパンか、使うボールペンは何ミリサイズかと、下らないことで張り合っていたある日。最後にたった一つ共通していた憧れ。

それが田舎暮らし。お互いの祖父母が田舎で農業を営んでいたことから、いつかこんなふうにゆったりと日々を送るのが夢だった。実際には田んぼも畑も忙しく、のんびりする暇はなかったのだろうが、大変だと愚痴を洩らしつつも、仲よく仕事をする祖父母の笑顔が印象に残っていた。

なまじ気が合わないと思っていたせいか、抱く夢が同じだと分かって私達の仲は急速に深まった。好きだの愛してるだのいう雰囲気はさておき、将来どの地でどんな家で暮らすかを語り、目標に向かってお金を貯めるべく会社勤めにも励んだ。

「結婚しよう」

プロポーズされたのは二十五歳のときだった。

「まだまだ田舎暮らしは無理だけれど、将来必ず一緒に田んぼや畑に囲まれた家で、子供や孫達と賑やかに生きていこう」

ドラマや映画のような甘い言葉ではなかったが、彼はそう約束してくれた。私はそれが嬉しくてその場ではいと頷いた。二人の夢を叶える為の大切な一歩の筈だった。

「息子には既に縁談がきているし、あなたでは釣り合いが取れない」

でも彼の両親に強硬に結婚を反対された。ネックとなったのは私の学歴だった。彼は大卒だが私は高卒。勤務先も彼が大手なら私は小規模。お茶やお華を嗜むでもなく、語学に堪能でもない。まして彼は跡取り長男。彼のレベルの足元にも及ばない私に、両親は認めるどころか勝手に彼のお見合いの日取りを決めてしまった。

「育ちが悪いにも程があります。息子の将来を良いものにしたいなら、身を引くのが本当の愛情ではありませんか」

断り切れずに彼がお見合いに向かった当日、彼の母親から最後通牒を突きつけられ、その日を境に私は彼の前から消えた。そもそも両親の期待や家族を背負う立場の彼に、田舎暮らしを選択する余地などなかったのだが、息子の将来をよいものにしたいならーーこの台詞は堪えた。自分が彼の足を引っ張る存在なのだと思うと、訳もなく涙が溢れた。

彼はずいぶん長い間私を探し、私の実家や祖父母の家にも足を運んでくれたようだが、遠方の叔母の元に身を寄せていた私は、二度と彼に会うことはないまま、叔母の勧める男性と結婚した。数年後に風の便りで、例のお見合い相手と彼が結婚したことを知った。




「相変わらず編み物が好きなんだな」

お茶を飲み終えて編み棒を手に取った私に、彼が懐かしそうに目を細めた。良品が安価で求められる現在では、恥ずかしくてとてもできないが、つきあっていた頃は手袋やマフラーを編んでは彼にプレゼントしていた。決して上手くはなかったそれらを、彼は文句も言わずに使ってくれていた。寒い季節にはそんな優しさが何よりの暖となった。

「下手の横好きよ。最近はボケ防止かな」

「まだ持っているよ。君が編んでくれたマフラー」

今年は腹巻でも編もうかと、笑いながら編み棒で目を作っていた私は、その一言に手の動きを止めた。

「まさか。何十年前だと」

「本当だよ。今度見に来るか?」

さわさわと心地よい風が吹く中、彼が真剣な表情で訴えている。

再会したのは四ヶ月前の五月だった。旅行会社の企画に「古民家ツアー」なるものを見つけ、友人数人と申し込んで参加したのだが、宿泊先の古民家の近くに何と彼の祖父母の家があったのだ。

「どうして、ここに……」

お互いの姿を確かめて呆然とした。祖父母亡き後、誰も住まなくなった家が傷まぬよう、彼は仕事の合間を縫って毎週末この地を訪れていたのだそうだ。

「元気だったか? 俺が聞けた立場じゃないけど」

若々しさも初々しさもなくなった二人なのに、一目で相手を認識できてしまうのは一体何故だろう。しかも田舎の古民家で再会を果たすなんて、これほどの皮肉があろうか。

「元気だったよ。あなたは?」

「元気だな。体は」

会ったら苦しくなるものだと思っていた。そして正しく息が止まりそうなほどに胸が苦しかった。でもそれを上回って押し寄せてきたのは、あの日必死で忘れようとした彼への想い。

「もしも許してくれるなら、今度この家にお茶を飲みに来て欲しい」

気づいたら連絡先を交換していた。昔は携帯電話などなく、声を聴きたければ自宅の固定電話にかけるしかなかった。こんなところにも時の流れを感じる。そうして電話のやり取りを繰り返し、あくまでも昔馴染みとしての交流が復活した七月の終わり、私は初めて彼の祖父母の家に一緒に向かった。

「もう一度、やり直してはもらえないか」

日照りの畑で水撒きや雑草取り、そしてたくさんの野菜の収穫を経験し、久し振りに気持ちのいい疲れを感じたその夜、彼が懇願するようにその言葉を口にした。二人は既に離婚していた。私は子供を授かる前に、彼は二人の子供の大学卒業を機に。

「私はもう皺だらけだし、髪も白髪がいっぱい。体にも張りが無いおばさんなのよ」

くすくすと笑いながら答えると、彼は静かに首を振った。

「俺には君があの頃と寸分違わず可愛いよ」

頬が熱くなった。女性として扱われる機会も、こんなふうに恥じらう自分も、とうに何処かに行ってしまったのに。

「今度こそ、一緒に」

私はやはりはいと頷いていた。




現在私は会社勤めをしながら一人でアパートを借りている。彼も結婚した長男に家督を譲り、働きながら一人でマンションに住んでいた。けれど私達はお互いの家を訪ねたことはまだなかった。週末に古民家で逢瀬を重ねるだけの関係。

「財産目当てに決まってるでしょ」

私達の結婚は彼の息子によってまたしても阻まれた。何のしがらみもない私と違い、彼には家族と資産があった。どちらも大事なものだ。

「彼女はそんな人間ではない」

「老いらくの恋を地でいくのはやめろよ。みっともない」

彼と家族が揉めることに忍びなくなった私は、籍など入れずとも共に在れたらよいと伝えた。遺産放棄の書面を用意する方法もあるのだろうが、子供としては父親が母親以外の女性と添うのは、決して喜ばしいことではないだろう。

そんな経緯から、彼のマンションに引っ越してくるよう望まれても、一度も足を運ぶことはしなかった。幸い私は仕事を持っているし、贅沢しなければ食べていける。何より彼との仲をお金に結びつけられるのは嫌だった。

「俺は君を不幸にしてばかりだ」

毎週末を古民家で過ごせるだけでも、私には充分幸せなのに、彼は過去と絡めて後悔の念を増幅させている。

「約束を破ってばかりだ」

子供や孫と賑やかに生きることは無理かもしれないが、田んぼや畑に囲まれた家で一緒に暮らすことはできる。けれど彼は自分を責め続けるのだ。

「冬が来る前に腹巻を編むつもりなの」

再び編み棒を動かし始めた私を、彼は黙ってみつめている。

「編み上がったら、マフラーの横に並べに行くわね」

瞠目した後、彼は顔を覆って俯いた。ありがとうという小さな呟きが、風に乗って私の耳に届いた。



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