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僕ではない誰かへの言葉

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 僕は氷雨と、ふたりきり。
 何も言わずに並んで、川面の煌めきを眺めていた。

「何話すんでしょうね」

 遠くを見る時の声で言う氷雨は、対岸の人影を眺めていた。
 僕は目を細める。

「さあ、僕らにはわからないことさ」

 いくら目つきを悪くしても、彼らにピントが合うことはない。
 若と芽衣花や、対岸の彼らもそう。人生が他人と交わりきることはない。
 だから僕は、最初に立てた予想と真逆の選択を取るようにしている。
 氷雨の言おうとしていることだって、同じことだ。

「君の伝えたいことって?」
「じゃあ、ここで問題」

 ジャジャーンと優しい口調で言って、氷雨が目を閉じる。

「アタシが伝えたいことがある相手って、よぎセンでしょーか」
「一応聞くけど、ヒントは?」
「ないっス」
「だよな」

 僕はフッと笑う。無理にそうしたから、吐いた息は自嘲げに聞こえる。

「違う。僕じゃない」

 答えは、もうわかっていた。
 氷雨はゆっくりと目を開けると、イジワルな顔で笑いかけてくる。

「せーかいです」

 その言葉を聞いて、落胆がなかったといえば嘘になる。
 けれど僕の心は、不思議なほどに凪いでいた。
 氷雨は僕の額に人差し指を当てて、柔らかく微笑む。

「でも、半分不正解です」
「答えは一つじゃないのか」
「そりゃそっスよ。最終的に答えが一つになるのは、ガッコーの数学だけで通じるおままごとです」

 氷雨の指先が、額からゆったりと流れ落ちてくる。

「ちゃんとあるっスよ。よぎセンにも、伝えたいこと」

 やがて彼女の指先が鼻で止まると、ときおり見せる少年みたいな笑顔で笑いかけてきた。

「でも、それは一番最後っス」

 アタシ、デザートは最後に取っとくタイプなんで。
 止まった指先が、鼻先をツンと弾く。
 微かに僕は仰け反って、それから形のいい鼻をつまみ返す。
 氷雨は大げさに手を振って降参して見せた。

「何やってんの、アンタら。もう」

 そこに若と芽衣花が戻ってくる。
 晴れた空のように笑う芽衣花の後ろには、顔を背けた若がいて。二人から漂う春みたいに透き通った青臭さに、僕らは自然と笑顔になる。
 持っていた飴をあげて「おめでとう」と言ったり、強がる若に冷やかしを入れて、些細な小突き合いに発展したり。
 最終的には、川辺の水切りで判定を決めた。
 そこで僕は、人生で初めて若に勝利した。
 絵に描いたような、取り留めもない日常があった。青春なんてものが現実に存在するのなら、今がそうだと言ってもいい。

「よぎセン、アタシね。今まで生きてきた中で、今が一番フツーで──いっちばん楽しいです」

 そう言った彼女に、僕は上手く笑えていただろうか?
 ひりついた喉と痛むほどに痙攣する口角を、川辺の風が隠してくれる。
 すぐにでも抱き締めてしまいたい。そんなことを思ったのは、氷雨が初めてだった。

「氷雨」

 僕は改めて、その綺麗な名前を呼ぶ。
 これから伝える言葉が不純であることは、とっくに理解していた。

「僕は君に寄り添っていたいと思うんだ。だから、聞いてほしい」

 恥ずかしくて、みっともない告白の言葉だった。
 けれどその告白は「愛してる」を伝える前に、消えてしまった。
 氷雨の人差し指が、僕の唇に添えられる。

「ダメっスよ、よぎセン。そこから先は、言わせないっス」

 代わりに、頬に小さなキスが触れた。
 この瞬間だけは、愛結晶のことを完全に忘れていられた。自分が怪物であることも、この病を僕以外の人間が保有している可能性も。
 ただ、屈託なく笑う氷雨の顔がひたすら瞼の裏に焼き付いていた。

 それが二〇一四年の七月二十日までに、僕らが経験した夏の出来事だ。
 七月の終わりには終業式があって、夏休みが始まった。
 八月一日までは大雨が続いて、僕らは久しぶりに一人の夜を過ごした。
 その間、氷雨からは何の連絡もなかった。
 氷雨が言葉を伝えられないのは、きっと最初から分かっていた。けれど僕は、それでいいと思っていた。
 伝えるために勇気が必要な言葉なら、僕の前くらいでは臆病でいい。いつか恐怖や悲しみに波のような隙間が出来たなら、その時にでも伝えてくれればいい。
 誰かに伝えた言葉が、せめて一つでも氷雨自身の幸福に繋がることを、僕は祈っていた。

 氷雨茉宵の全裸写真が拡散されたのは、八月六日のことだ。
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