かくまい重蔵 《第1巻》

麦畑 錬

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(13)花という女 ①

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 ◇

 五年前と聞くと、チクリと胸に刺さるものがある。

 重蔵には今も忘れられぬ女がいて、名前を《おはな》といった。

 ちょうど五年前の春、重蔵はお花への恋に敗れた。

 ◇

 過失によって盗賊を死なせてからというもの、重蔵は家の外に出られなくなった。外へ出るたびに、眩暈と耳鳴りに襲われるためだ。

 しかし、屋敷に籠って一年以上が過ぎた夏、重蔵は仕事と風呂以外の外出を余儀なくされた。

 長らく刀を研がなかったせいで、刀身はいまにも折れそうな有様になっていたのである。

 重蔵はようやく重い腰を上げて、亡き父の代から縁のある研ぎ師に修復を任せた。

 父の刀は、すでに父本人の意思によって鋳潰すと決まっていたため、それも研ぎ師に依頼した。重蔵の手元に返るのは、自身の刀と、父の形見であるのはずだった。

 ところが、包まれて返されたのは重蔵の刀だけで、父のはない。

「こっちよ」

 刀を届けにきた研ぎ師の娘・お花が鍔を持っていた。

「返してくれ」

「じゃあ、追いかけていらっしゃいよ」

 お花は優雅に身を翻し、鍔を持ち去ってしまった。

 父の形見を奪われて泣き寝入りするわけにはいかず、重蔵はやむなく、お花を追うために屋敷を出た。

 ふだんは酔っ払いしか歩いていない夏の夜道に、やたらと人が湧いているので、重蔵の眩暈はますます酷くなったものだ。

 眩暈でふらつく重蔵を気遣ってか、お花は時折足を止めてくれる。その後ろをよたよたと追いかけるうちに、屋台と人でごった返す両国橋へと行きついた。

 ようやくお花を捕まえて、この無礼な女をいざ叱ってやろうと肩をそびやかした刹那、

「ほら見て、もうすぐよ」

 お花の笑う後ろで、両国の夜空に閃光が弾けた。

 花火の音に驚いたせいか、その後の祭りに連れ回されたせいか、帰るころには鍔のことなど忘れていて、ついに重蔵は父の形見を取り返せなかった。

 それからというもの、お花はを餌にして重蔵を誘うようになった。お花に悪意がないのを分かっていただけに、重蔵は怒ることもできずに振り回されていた。

「なぜ、いつも私に悪戯をするのだ」

 ある真夏日、日本橋へ連れ出されていた重蔵が呆れて尋ねると、

「だってあなた、いじめたくなるのよ」

 と、お花は愉快げに答えた。

「それに、重さんのことは、父からもよく訊いているの。子供時分は賑やかなところが大好きで、いつも浅草や神田へ連れて行ってもらったとか」

 お花の父である研ぎ師は、重蔵の父の代からの馴染みだった。重蔵の子供時分の話は、きっと父が話していたに違いない。

「……子供時分のことだ」

 蝉の声と交わる耳鳴りに耳孔を痛めながらも、重蔵は言った。

 確かに、幼い時分の重蔵には、本所から見える都心の景色が別世界のように見えた。

 大川の向こう岸からは楽しそうな人々の声がして、夜でも煌々と空が明るくて、毎日祭りが開かれているのではないかと勘違いしたほどだ。

「そこまで知っているのなら、私の手が汚れているのを、お父上から聞いているのではないのか」

 重蔵がこわごわと訊いてみる。

 両親が天寿を全うしたのは、重蔵が人を殺めるより以前のことなので、父の口から研ぎ師に伝わるのはあり得ない。

 ただ、お花が何もかも知っていそうな気がして、重蔵には底恐ろしかったのである。

 すると、お花はその一瞬だけ真摯な面差しになった。

「汚れてる?」

 お花は重蔵の手を取った。

「あたしから見て、汚れてなければいいのよ。あなたの手、白くてなめらかで、あたしは好きね」

「そなたが良ければいいだなんて、そんな勝手な言い方……」

 言いかけて、言葉を失った。

 怖いほどに、お花の言葉が胸に滲んでくる。

 罪悪感で満ちていた胸から、膿がすっと抜けていくような心地だった。

「……っ」

 悲しかったわけでもなく、ただ涙が出た。

 重蔵の罪は一生消えぬ。
 忘れてはならぬ。
 人から責められなくてはならぬ。

 そう覚悟していた。

 それなのに、お花に認められたことが、なによりも心を軽くした。

「かがんで。私が隠してあげる」

 お花は袂から出した手拭いを重蔵へ寄越してやりながら、重蔵を胸へ抱き寄せた。

 情けないと分かりながらも、壁とお花の間に挟まれる安心から、絶えず涙がこぼれた。

 顔を両手で覆う重蔵を、お花は微笑みをもって見下ろしていた。

「落ち着いたら、甘いものでも食べに行きましょう。せっかくの出かけデートだもの。泣き顔で帰せないわ」

 その言葉通り、お花はようやく息を整えた重蔵の手を引き、水売りから白玉の入ったものをふたつ買った。

「どうぞ」

 白玉の入った椀を差し出されて、重蔵は素直に馳走になって良いかも分からず、困惑していた。

「女人から馳走になるのは、男としていかがなものかと」

「あら、お口に合わないかしら」

 眉を上げて様子をうかがってくるお花から視線を落とし、椀を見た。

 砂糖水のなかで白玉が涼しげに浮いている。

「甘いものは、好き、だが」

「うん」

「あまり食べすぎるなと、父上が」

「しっかりしたお父様なのね。でも、今日はいいのよ」

 お花は箸で白玉をひとつ掴むと、重蔵の唇へ軽く押し当てた。

 ひやりとした白玉の冷気が、妙な色気を帯びていた。

「あたしが許すわ」

 お花が許せば良いものでもなかろうに、重蔵は言われるがままに白玉を咀嚼していた。

 許されたことをするのは、楽な心地である。

 それでいて、お花はこの心地良さを、つねに重蔵へ与えてくれた。

「本当のことを言うとね、あたし、あなたをいじめたくて、お父さまの鍔を持っていったんじゃないのよ」

 肩身を狭めて白玉を啜る重蔵を、愛おしげに見つめてお花が言った。

「では、ほかに?」

「あなたをおでかけデートにお誘いする口実が欲しくて。一目見た時から、可愛いって思ってたのよ」

「……そういうことを言うと、勘違いする男がいるのでは」

 現に、重蔵は勘違いを起こしかけている自覚がある。

(私を好き、ということで、良いのだろうか)

 であれば、相愛である。

 重蔵はお花と目を合わせられぬまま、火照った顔を犬のように椀へ沈めていると、

「ねえ、重さん」

 ふと、お花が目の奥に鋭い光を宿し、身を乗り出すような姿勢で、重蔵へ肩を寄せた。

「今夜、あなたのところへ行ってもいいかしら」

 ◇
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