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第二話 御影家には秘密がありました

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 赤い椿が花を咲かせる橙色の着物を召した千鶴さんが、事務所の引き戸を開けて「誠さん、お疲れでしょう?」と入ってくる。

「ああ、ありがとう、千鶴さん」

 いつものようにローテーブルにホットコーヒーと手作りクッキーを用意する千鶴さんの横顔へ視線を向ける。

 黒石城下は緑豊かな土地ではあるが、冬の訪れは早く寒い。
 結い上げた髪から覗く首もとが寒そうだ。もともと線の細い華奢な体つきで、首も白く細い千鶴さんには繊細という言葉がよく似合う。しかし、弱々しい印象もあって心配になることが多い。

 今日だって体調がすぐれないのだろう。千鶴さんが寝坊するときは必ず具合がよくない時と知っている。それでも彼女が言い出さないから、見守りながら尋ねるタイミングを見計らっている。

「髪飾りを新調しましょう」

 綺麗に整えられた髪を飾る、丸い玉がついただけのシンプルなかんざしに指をそっと触れさせる。
 千鶴さんは嫌がらない。むしろ俺が触れるとほおを赤らめるから、喜んでいるのだろうと欲深な気持ちが生まれる。

「次の休みには出かけましょう」

 探偵事務所を営む俺にとって休みなどあってないようなものだが、そう申し出ると、千鶴さんは素直にうれしそうに微笑んだ。

「今日もとても冷えます。風邪を引いてはいけません」

 ひざにかけていた茶色のショールを広げ、千鶴さんの肩にかける。そのままそっと抱き寄せる。香水を好んでつけない千鶴さんからは優しい香りがする。

 俺はこうして千鶴さんに寄り添うだけで癒されるが、彼女はどうだろう。

「少し疲れましたか? 八枝さんは気さくですが、それなりに気をつかうでしょう」
「気をつかうのは当然ですから。八枝さんはお優しいし、いろんなお話を聞かせてくださいますから楽しいです」
「そう、それはよかった」

 そう答える千鶴さんが一番優しいのだと言おうとして見つめあったら、そんなことはどうでもいいような気分になって唇を合わせていた。
 言葉で伝えなければならないこともあるが、こうしている間は言葉などいらないのだと思う。

 さらに欲深に唇を合わせたら、わずかにビクッと彼女の肩がはねる。ハッと我にかえる。つい本能に任せて千鶴さんの気持ちをないがしろにしてしまった。

「ああ、いけませんね。夫婦と言えども、千鶴さんの気持ちがなければ」

 反省するように眉をさげて謝罪すれば、彼女は小さく首をふって、うつむいてしまった。

「千鶴さん、無理なことはしないと決めていますから傷つかないでください」

 後悔しかない。ああ、とため息をついて、千鶴さんの肩に手を乗せ、どうしたものかとあたりを見回したとき、屋敷の廊下につながる引き戸がそろりと薄く開く。

 最初に現れたのは、黒い毛の生えた小さな手。そのあと戸の隙間にねじ込むように黒い頭と身体、きどったように揺れるしっぽが現れた。
 まん丸の目と目を合わせたら、助かった、と妙に安堵する。

「ミカン」

 俺の方へやってこようとする黒猫に声をかけると、ミカンは片足を浮かしたまま動きを止めて、じーっと千鶴さんの背中を見つめた。

 俺はとっさに千鶴さんへ視線をさげた。不穏な空気が一気に事務所の中に充満する。そのときにはミカンの全身は総毛立ち、「シャーッ」と鳴き声をあげていた。

「まさか……」

 しまった、と気づいたときには遅かった。

 千鶴さんの肩に乗せていた手を思いがけない強さで握られた。彼女の力とは到底思えないほどの強さで、あまりの痛みで彼女の手を振り払っていた。

 その瞬間に見せた悲しい彼女の表情に罪悪感が生まれた。
 何者かに取り憑かれているときでも、千鶴さんの中には千鶴さんの意識が存在していることがある。今もきっとそうだろう。自分ではどうにもならない感情に押しつぶされながら、千鶴さんはただただ霊に身体を開け放している。

「あなたは誰ですか」

 俺はそう、千鶴さんに尋ねた。警戒しながら俺の後ろ手に回るミカンの背をなでる。

 俺が冷静でいられるのはミカンのおかげでもある。千鶴さんにミカンは必要不可欠な存在で、今ではもう俺にとっても大切な存在になっているとまざまざと思い知る。

「どうか名前を教えてください」

 もう一度問うと、千鶴さんは正座したまま座布団をおり、畳の上に両手をついて、深々と頭を下げた。

「池上夏乃と申します」

 やはり、と息をつく俺の前で顔を伏せたまま、夏乃は続ける。

「昨日はうちのマヨイが大変お世話になりました。お礼を伝えたく存じておりましたら、このようなことになりまして私自身困惑しております」

 おかしな話だ、と俺も戸惑う。

「あなたは今、ふたつほど俺には理解しがたいことを言いました。尋ねても?」
「ええ、ご遠慮なく」

 夏乃はようやく顔をあげて、俺のすすめで座布団に座る。その頃にはミカンも俺のひざの上に乗ってきていた。

「まず一つ目ですが、うちのマヨイ、とおっしゃいましたね。それは誰のことですか?」
「マヨイは私の飼い猫でした。今はどういうわけか、八枝さんのお宅にお世話になっているようですね」

 すらすらと夏乃は答える。
 基本的に霊というのは嘘は言わないものだと俺は思っていたが、違うのだろうかと疑念がわく。

「そうですか。ではもう一つ、あなたはお亡くなりになられている。それもご存知でしょうか」

 神妙な顔つきで、夏乃はうなずく。

「事細かには覚えておりません。マヨイのこともそう。いつあの子がいなくなったのか、まったく……」

 悩ましげに眉をひそめて、両手のひらを眺める夏乃は、やはりゆるりとかぶりをふってため息をつく。

「気づいたときには暗い暗い闇の中におりました。どうしたことかと思っておりましたら、私の名が聞こえてきたのです。ええ、そう。八枝さんが私のことをあなた方にお話しになっていた。そこでマヨイも見つけたのです。マヨイの元気な姿を見たら安堵してしまって」

 夏乃は胸もとに手を当てて、つらそうにまぶたを閉じる。

「私は自殺したのだと、おっしゃっていましたね」
「ええ」
「なぜ……と問うほど幸せな生活はしておりませんでした」
「そうでしたか」

 俺は言葉少なにあいづちを打つ。

「それでも自殺をするなど考えられません」

 夏乃は依然と胸に手をあてたまま目を伏せていたが、不意に顔をあげて俺にすり寄った。

「私は本当に自殺なのでしょうか」

 上目遣いで俺を見上げる彼女の瞳をじっと見つめる。

「自殺するなど、本当に考えられないのです。もしかしたら私……、誰かに殺されたのではないでしょうか」
「それをお知りにならないことには成仏できませんか」

 はやく千鶴さんの身体から出ていってほしい。そう願いながらも、夏乃に同情した千鶴さん自らが彼女の魂を引き止めているのではないかとも思えてくる。

 さっきからまばたきするたびに、ふたりの女の顔がみえる。千鶴さんともう一人。
 もう一人の娘は千鶴さんに似ても似つかないが、年頃が同じだからか雰囲気がよく似ている。きっと彼女が池上夏乃だろう。千鶴さんの魂に共鳴し、同調しているのだろうかと思う。

「私にも、どうしたらいいのかわからないのです……」

 そう言って夏乃は両手に顔をうずめると、声を立てずに静かに泣いた。
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