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第一話 甘い夫婦生活とはなりません

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 夕食の準備を終えると、誠さんの部屋へ向かった。

 彼の部屋は事務所の隣にある。
 事務所とつながるドアには鍵がかかっており、もっぱら出入りは廊下側の引き戸になる。

 誠さんの部屋は、壁一面の本棚以外はシンプルだ。本を読むためのスタンドライトが乗る小さな机と座布団。あとは押入れ。

 誠さんが何時に帰ってきても大丈夫なように、押入れから取り出した布団を敷いて、枕元に浴衣を用意する。すると、廊下に黒い影ができる。
 何かと見上げると、ブラウンのスーツを身につけた誠さんが立っていた。
 すぐに出かけるのだろう。普段は着物を着ている彼だが、遠出する時はスーツを着る。

「整髪料がありませんでしたか?」

 髪は整えられているが、柔らかな印象の髪型はスーツ姿に少々頼りない。サイドを固めればもっと素敵になるのにと思って尋ねると、誠さんは「ああ」と息をついて、髪をかきあげた。

「匂いのつくものはいりません。それより千鶴さん、今日も遅くなるので先に休んでいて大丈夫ですよ」

 先週の水曜日は誠さんの帰りを待っていた。なんとなく眠れなかっただけだが、彼に気を遣わせてしまったようだ。

「はい。……でも弟さんが帰られるのでしょう?」
「弟の部屋は離れですから。食事をすませたらすぐに離れへ行かせてください」

 誠さんは庭の方を指さす。
 ちょうど庭を挟んだ誠さんの部屋の向かいに、小さな小屋がある。

「昔は俺たちの勉強部屋でしたが、今は弟が時々泊まりに使うぐらいです。掃除は弟に任せればいいですよ」

 小屋だと思っていたのだが、どうやら空き家らしい。
 弟の世話までする必要ないと誠さんは気遣うが、やはり重大なことを忘れているらしい。

「その……、誠さんがいないと弟さんとふたりきりになってしまいます」

 それは不安だと訴えてみたのだが、誠さんはきょとんとしてから笑った。

「千鶴さんが一人でいるよりは安心です。ちゃらんぽらんな弟ですが、たまには役に立ちますから」
「えっ……と」

 そういうことではないのだと困惑してしまう。しかし、誠さんは気に留める様子もなくネクタイを締める。そして、引き戸の横に置かれていた鞄を持ち上げた。

「そろそろ行ってきます。弟が帰ってきたら……」

 そう彼が言いかけた時、事務所のドアが勢いよく開く音がした。ついで、若々しい青年の元気の良い声が部屋中に響く。

「兄貴ー! 兄貴はいるかー? いきなり結婚したなんていうから、どんな奥さんもらったのか見に来たぜー」
春樹はるきのやつ……」

 誠さんは苦々しげに笑うと、鞄を持ったまま事務所へと向かった。
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