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第一話 さくらとあんぱん
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天幻神社のはす向かいにある料亭の看板には、『しきよみ亭』と書かれていた。比較的新しい看板だ。九十九よりしきよみ亭を引き継ぎ、清人さんが亭主となったとき、新調したらしい。
その店名は、初代しきよみ亭亭主、四季ヨミ安の名からつけられた。しかし、死期や黄泉という薄暗いものを連想させる響きがもとで、四季家は死期を詠む一族といううわさが流布された。……というのは、純子さん贔屓の母、千花からの受け売りだ。
とにもかくにも、不穏な憶測がさまざま流れる料亭で働くことになってしまった私は、不本意ながらも朝早くからしきよみ亭を訪れていた。
おそるおそる店の戸を引く。
薄暗いしきよみ亭に染まらないよう、華やかな花柄の小袖に丸いハンドバッグを持ってきたけれど、湿っぽい空気の漂う店内では輝きを忘れたように貧相に見えた。
あいかわらず、日の入らない暗い店だ。ため息が出てしまう。
「おはようございます……」
明るくて元気が良くて器量良しと評判の藤城屋の娘である私から、やる気のなさが出てしまったごとく、蚊の鳴くような声が漏れた。
薄暗い玄関の奥に見える座敷で、清人さんは昨日と同じように正座していた。私が来ることは知らせが入っているはずなのに、その横顔は無表情で、私のことなんて忘れてしまったかもしれないと思うぐらいだった。
しばらくすると、清人さんがこちらへ顔を向け、笑むように目を細める。
「ああ、香代さん。良いところへ来てくださいました。表の掃き掃除をお願いしますね」
顔を合わせるなり、彼は玄関の端を見る。そこには、ほうきが立てかけてあった。
「えぇ……」
あまりにも唐突で驚いた。なんて人づかいの荒い。彼には、順序というものがないのだろうか。
「働きに来たのですよね?」
不服そうに見えたのか、彼はすっくと立ち上がり、土間へ降りてくると、念を押すように尋ねてきた。
「あれは、修太郎がお見合いじゃないかなんて疑ったりするからついた嘘だったのに……お母さんがその気になってしまって」
ごにょごにょと言い訳する私を、冷ややかな目で見下ろす彼は、淡々と言う。
「疑うもなにも、真実でしょう。疑われたくないほど、修太郎くんをお気に召しているのでしょうか」
「えっ! 違います。おかしなうわさを立てられたら大変でしょう?」
「今さら、ひとつやふたつ増えたところで問題はありませんよ」
それはそうかもしれないけれど……と、あきれていると、清人さんが身をかがめて顔をのぞき込んでくる。
「こうして毎日来てくださるだけでもうれしいのですよ」
「そうは見えませんでしたけれど」
「考えごとをしていました。これからは香代さんを一番に考えます」
長いまつげがなんて綺麗な人だろうと思いながら、目をそらす。
「か、考えなくて結構です。それより、考えごとって、修太郎の言ってた、あの?」
彼は小さくうなずく。
「しきよみ亭へは来たことのない方なんですよね?」
店に入ってくれていたら死なずにすんだものを……と清人さんは言ったが、彼が気に病む必要は何もない。人の生き死になど、左右できるはずがないのだ。
「ご来店いただけていたら……と思いますよ」
「来ていたらどうなるんですか?」
「どうなるんでしょうね」
彼ははぐらかす。
「じゃあ、聞き方を変えます。しきよみ亭の亭主が人の死期を詠めるのは本当なの? あの人が亡くなるって、清人さんはわかっていたんでしょう?」
もしわかっていたとしても、彼ができることは、食事を出すことだけ。客を死なずにすませる方法などあるはずがない。
言葉にすればするほど現実味がない話なのに、私はすがるように続けた。
「しきよみ亭を訪れた客がすぐに亡くなるといううわさがあるのは、余命が少ないとわかっている客ばかりを選んで食事を振る舞ってるからなんでしょう?」
そう問うと、清人さんは少々驚いたように目を見開いたあと、うっすらと口もとに笑みを浮かべた。
「しきよみ亭の秘密を知ったら、俺と結婚しなければなりませんよ? それでもお聞きになりますか?」
「えっ、それは困りますっ」
なぜ、そういう話になるのだろう。
「そうですか。そんなに聞きたいのでしたら今からお話します。しきよみ亭の亭主は……」
「あっ、やめてくださいっ。自分で調べますから。偶然知ってしまっても、結婚はしませんからね」
「調べると言いながら、偶然ですか。いいでしょう。香代さんに毎日会えるのでしたら、いくらでもお調べください」
私が秘密を知れば、結婚の口実になるとばかりに、優越に清人さんは笑う。
負け戦に挑んでしまったのではないかと戦慄する私は、「掃除お願いしますね」と無慈悲に差し出されるほうきを、あたかもそれが挑戦状かのように、負けじと受け取った。
天幻神社のはす向かいにある料亭の看板には、『しきよみ亭』と書かれていた。比較的新しい看板だ。九十九よりしきよみ亭を引き継ぎ、清人さんが亭主となったとき、新調したらしい。
その店名は、初代しきよみ亭亭主、四季ヨミ安の名からつけられた。しかし、死期や黄泉という薄暗いものを連想させる響きがもとで、四季家は死期を詠む一族といううわさが流布された。……というのは、純子さん贔屓の母、千花からの受け売りだ。
とにもかくにも、不穏な憶測がさまざま流れる料亭で働くことになってしまった私は、不本意ながらも朝早くからしきよみ亭を訪れていた。
おそるおそる店の戸を引く。
薄暗いしきよみ亭に染まらないよう、華やかな花柄の小袖に丸いハンドバッグを持ってきたけれど、湿っぽい空気の漂う店内では輝きを忘れたように貧相に見えた。
あいかわらず、日の入らない暗い店だ。ため息が出てしまう。
「おはようございます……」
明るくて元気が良くて器量良しと評判の藤城屋の娘である私から、やる気のなさが出てしまったごとく、蚊の鳴くような声が漏れた。
薄暗い玄関の奥に見える座敷で、清人さんは昨日と同じように正座していた。私が来ることは知らせが入っているはずなのに、その横顔は無表情で、私のことなんて忘れてしまったかもしれないと思うぐらいだった。
しばらくすると、清人さんがこちらへ顔を向け、笑むように目を細める。
「ああ、香代さん。良いところへ来てくださいました。表の掃き掃除をお願いしますね」
顔を合わせるなり、彼は玄関の端を見る。そこには、ほうきが立てかけてあった。
「えぇ……」
あまりにも唐突で驚いた。なんて人づかいの荒い。彼には、順序というものがないのだろうか。
「働きに来たのですよね?」
不服そうに見えたのか、彼はすっくと立ち上がり、土間へ降りてくると、念を押すように尋ねてきた。
「あれは、修太郎がお見合いじゃないかなんて疑ったりするからついた嘘だったのに……お母さんがその気になってしまって」
ごにょごにょと言い訳する私を、冷ややかな目で見下ろす彼は、淡々と言う。
「疑うもなにも、真実でしょう。疑われたくないほど、修太郎くんをお気に召しているのでしょうか」
「えっ! 違います。おかしなうわさを立てられたら大変でしょう?」
「今さら、ひとつやふたつ増えたところで問題はありませんよ」
それはそうかもしれないけれど……と、あきれていると、清人さんが身をかがめて顔をのぞき込んでくる。
「こうして毎日来てくださるだけでもうれしいのですよ」
「そうは見えませんでしたけれど」
「考えごとをしていました。これからは香代さんを一番に考えます」
長いまつげがなんて綺麗な人だろうと思いながら、目をそらす。
「か、考えなくて結構です。それより、考えごとって、修太郎の言ってた、あの?」
彼は小さくうなずく。
「しきよみ亭へは来たことのない方なんですよね?」
店に入ってくれていたら死なずにすんだものを……と清人さんは言ったが、彼が気に病む必要は何もない。人の生き死になど、左右できるはずがないのだ。
「ご来店いただけていたら……と思いますよ」
「来ていたらどうなるんですか?」
「どうなるんでしょうね」
彼ははぐらかす。
「じゃあ、聞き方を変えます。しきよみ亭の亭主が人の死期を詠めるのは本当なの? あの人が亡くなるって、清人さんはわかっていたんでしょう?」
もしわかっていたとしても、彼ができることは、食事を出すことだけ。客を死なずにすませる方法などあるはずがない。
言葉にすればするほど現実味がない話なのに、私はすがるように続けた。
「しきよみ亭を訪れた客がすぐに亡くなるといううわさがあるのは、余命が少ないとわかっている客ばかりを選んで食事を振る舞ってるからなんでしょう?」
そう問うと、清人さんは少々驚いたように目を見開いたあと、うっすらと口もとに笑みを浮かべた。
「しきよみ亭の秘密を知ったら、俺と結婚しなければなりませんよ? それでもお聞きになりますか?」
「えっ、それは困りますっ」
なぜ、そういう話になるのだろう。
「そうですか。そんなに聞きたいのでしたら今からお話します。しきよみ亭の亭主は……」
「あっ、やめてくださいっ。自分で調べますから。偶然知ってしまっても、結婚はしませんからね」
「調べると言いながら、偶然ですか。いいでしょう。香代さんに毎日会えるのでしたら、いくらでもお調べください」
私が秘密を知れば、結婚の口実になるとばかりに、優越に清人さんは笑う。
負け戦に挑んでしまったのではないかと戦慄する私は、「掃除お願いしますね」と無慈悲に差し出されるほうきを、あたかもそれが挑戦状かのように、負けじと受け取った。
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