菩提樹の猫

無一物

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8章 全てを捨てて救出せよ

9 オレが邪魔なんだろ

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◆◆◆◆◆


「レネ……お願いだ……せめて水だけでも飲んでくれ」

「…………」

 レオポルトが病人用の吸い飲みを、レネの口元に差し出すが、レネは顔を逸らして拒否する。
 男たちに捕まって、気が付けばレオポルトが寝台に寝かされている自分を見下ろしていた。

(やっぱり……こいつか……)

 口では心配しているようなことを言っているが、レオポルトはただこの状況に酔っているだけだ。
 テプレ・ヤロでは散々な目に遭わされて来たのだ、この男が用意するものは水一滴でも受け入れてたまるか。

 昨夜さんざん痛めつけられたせいで、発熱して身体じゅうがズクズクと痛い。
 断続的に来る苦痛の波を唸り声を上げてやり過ごす。

 いつも癒し手がいる環境に慣れていたせいか、レネは長時間続く苦痛に慣れていなかった。
 今まで、たくさんの人間を殺し傷付けてきたのに、自分はこんなにも打たれ弱い。
 自分の無力さが恨めしい。

「レネ、そんなに意地を張ってどうするんだい。バルナバーシュにはあんなにそっくりな立派な息子がいたんだよ。君みたいな華奢な子が頑張ったって敵うわけがないだろう。君は実の息子の身代わりでしかなかったんだよ。それに思うところがあるから家に帰ってなかったんだろ? 君はもう養父に見捨てられたんだよ」

「…………」

 その言葉が、まるで毒のようにレネの心を蝕んでいく。
 現にレネはバルナバーシュから『出て行け』と家を追い出されたのだ。

「私もレネと同じなんだよ。昔、兄が誘拐されて行方不明になり、私は兄に代わるべく跡継ぎとして必死に努力していた。それが十年後、兄がとつぜん戻って来て嫡男に返り咲くと、両親は私にまったく見向きもしなくなった。でもね……私は兄を憎むことができずに身を引いたのさ。——君も実子が急に出てきて、居辛くなったんだろ?」

「え……?」

(駄目だ……)

 今の自分とレオポルトは……あまりにも符合しすぎている……。
 だからレオポルトはバルトロメイを自分にけしかけたのか?

 まともに立ち上がることもできない今の状態では、自力でここを抜け出すのは無理だろう。
 バルトロメイがレオポルトと一緒にいるということは、たぶん二人はグルだ。

 今ごろ、団員たちはレネが仕事に来なかったことで騒いでいるだろう。
 レオポルトとの様子を近くで見ていたヴィート辺りが気付いたら大変だ。
 ゼラとの一件もある。変な正義感に燃えて動かないといいが……。
 貴族に下手に手を出したらたぶんタダでは済まない。

 そうならないために自分にできることはなんだ?
『自分の失態は自分でケリをつける』前にヘマをした時に言われた言葉だ。

 九年前、攫われた時に恐怖で震える自分を奮い立たせることのできた、あの顔はチラリとも浮かんでこない。
 幼い時のできごとが、レネの心を傷付けたままだ。
 今回は『出て行け』と言われたのだ。
 レオポルトが言うように、バルトロメイが現れたので自分は用済みになったのだ。

 熱に浮かされ、どんどん弱い方向へと引きずられていく。
 今のレネの心には、希望の光などなに一つなかった。

 寝台に座ってレネを覗き込むレオポルトの腰にはナイフが見える。

(——あれで……)

 渾身の力を振り絞って、レネはレオポルトからナイフを奪い取り自分の首へ突き立てる。

「なにをするっ!」

 その行動は、皮一枚刃先が食い込んだところで、レオポルトに阻止されてしまった。

「どうしたっ!?」

 次室に控えていたバルトロメイが飛んで来る。
 こんな男に止められるほど今の自分は非力なのだろうか……。
 思うように働かなくなった頭で、レネはぼんやりとそう思った。

「自害しようとして、私のナイフを奪ったんだ」

 レオポルトに両手首をシーツに縫い留められ、動くこともできない。

「レネ……」

 上を見ると、厳しい顔をしたバルトロメイが見下ろしていた。

「……まさか……お前も…グルだったなんてな……——殺せよ……オレが…邪魔なんだろ……」

(お前なんかにオレの気持ちがわかるかよ……)

 左頬に衝撃を感じて、一瞬のうちに意識が混濁する。

『%&$$$&#$%&』
『&%%$#$%』

 なにか話している声が聞こえるが、まるで別の国の言語のようで聞き取れない。

 レネの意識は……真っ白な世界へと戻っていく。


◇◇◇◇◇
 

 しゅんしゅんとヤカンで湯の沸く音がする。

 温かいストーブのある部屋にレネは寝かしつけられていた。
 頭がズキズキして割れそうだ。

「レネ……ほら、お薬だけでも飲んで」

 母が布団から抱き起して上半身を抱え込むと、甘い味のする熱冷ましを匙で掬いあげて少しずつレネの口へと含ませるが、どうしても身体が受け付けない。
 顔に母のふくよかな乳房が当たり、レネは思わず頬を擦り寄せる。

(助けて、助けて、助けて)

 この苦しい状態から、どうか自分を救い上げてほしい。
 頼れるものは母しかいない。

「お願いだから……少しでもいいから飲んで……」

 母の切実な声が、ガンガンと響く頭の中を木霊する。

(……お母さんを困らせちゃいけない……)

 レネは喉を動かし懸命に薬を飲もうと努力した。


◆◆◆◆◆


 自害を図ろうとした後、バルトロメイがレネの頬を打つと、レネはあっさりと気を失ってしまった。
 体力の限界だったんだろう。

「レネには乱暴しないんじゃなかったのか?」

 レオポルトは思わず尋ねると、バルトロメイは不本意そうに俯いた。

 このままレオポルトの寝室においておくのはまずいと、外から鍵のかかる部屋へと移した。
 壁一面白い漆喰で塗られたこの部屋は、なんの目的で作られたのかは知らないが、窓には脱出防止の鉄格子がある。
 外から鍵をかけても一通り生活できるように水回りも整えてあったので、食事だけ小さな専用の扉から差し入れればいい。
 今のレネはとてもそんな状態ではないが、また自害する可能性もあるし、祖母の家を自由に動き回られては困る。

 バルトロメイはまるで子供でもあやすように胸に抱くと、レネは赤子のようにその胸に顔を擦り寄せた。
 痛み止めと熱冷ましの入ったシロップを木の匙で掬い、バルトロメイは淡紅色の唇へと運ぶ。

「少しでもいいから飲んでくれ……」

 熱が出てうなされているのに、昨日から水さえも口にしようとしない。
 懇願するようにバルトロメイはつぶやく。

 その願いが通じたのか、コクリ……コクリ……と喉が鳴る。
 意識の無い時の方がレネは素直だ。

「——可愛い……」

 隣でその様子を見つめていたレオポルトは、思わずつぶやく。
 麻袋から傷だらけで出て来たレネを見た時は、そんなつもりはまったくなかったので背筋が冷えたが、徐々に違う気持ちが湧き上がって来ていた。
 顔に散った赤ワインの染みのような痣と、黄緑色の瞳のコントラストの美しさに、つい目が離せなくなっていく自分がいた。

 弱ったレネを見ていると、心がギュッと締め付けられるような切なさを覚える。
 傷付いて弱っていく姿を見れば見るほど、『可哀想』と『虐めたい』という相反する気持ちがせめぎ合い、甘美な毒となってレオポルトの身体を蝕んでいくのだ。

 そして先ほどレネが教えてくれた。
 どうすればこの世の苦しみから解放されるのか……。

 一人だったら踏み込みきれなかったが、レネが一緒なら……怖くない。

(この世の快楽を一緒に味わったら、一緒に堕ちて行こう……)

「おい、あんた今……よからぬことを考えていただろう?」

 バルトロメイが、レネの首の傷を手当しながらレオポルトを睨みつける。

(この男は、兄上が付けただけあって、目敏い)

「そんなことないさ」

 心中を見事に言い当てられたが、レオポルトは適当に言い繕って誤魔化す。
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