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X 無窮の開演、永遠の閉演
091 徒爾
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九一 徒爾
木枯らしに吹かれた落葉樹も丸裸になり、山の賑わいとなるほどの本数も植わっていない冬の理系キャンパスはただただ殺風景だ。構内を歩いているだけで体力も気力も無に等しくなる。
ただし無はゼロではない。ある項目にプラスでもマイナスでもない絶妙な釣り合いが取れたときこそがゼロであって、最初からなにもなかった状態が無だ。宇宙のはじまりは時間すらなかったとか、爆発により空間、時間、物質が生じたとか、いや、神のみが存在していた、など諸説あるが、宇宙のはじまりは宇宙自身の発生と同時に宇宙の内側に作られた時間と空間、それこそが宇宙である、とわたしは考えている。では入れ子である宇宙の外側は何であるのか。それこそが無だ。それこそがわたしだ。
自分はどこへゆきたいのか、自分はなにになりたいのか、一切の欲がそがれ、五感を用いた毎日はどこか遠く、夢の中の夢のように距離があった。
自主休講が増えた。講義の集中力にも欠け、ゼミで発言する気力も失せた。
「朝野さん」
見るに見かねてか、ゼミの高橋教授に呼び出された。応接間に通される。(専任教授の身分では教授室はあてがわれていないらしい)
「取り立てて叱責するメリットもないし、応援する意図も理由もないんだけど」席を勧めたうえで高橋教授はいい、後ろの電気ポットでコーヒーを淹れる。
「――目に余る、とでもいおうか」
わたしは後ろの高橋教授の声とポットの蒸気の音を聞きながら、窓の外をぼんやりと見る。今日も鉛か、コンクリートのような空だ。
高橋教授は小さくため息をつく(落胆というよりは、どこかしら安心にも通ずるようなため息だ)。
「私も教授とはいえ専任だからね。学生個々人のメンタルケアにまでは手が回らないの。でもね、朝野さん。二年前、入試の二次試験から直近の試験、それから提出物類を一見したところ、あなたほど優秀な学生はいなかった。生命工学科の中だけでなく、学部全体で見ても。あなたのような成績優秀者はできればずっと持っていたい。私のエゴでもあるし、学問の発展の上でもそう。だから絶対に潰したくない。いまあなたに大変なストレスがかかっているのはもはや自明。そこで私からの提案なんだけど――」
「転籍、ですか」
「――ご明察。じゃあ、どこが候補地かもわかるわね?」
「いえ、そこまでは」
「知能システム工学科、といったら?」高橋教授がわたしから見て左前の応接ソファに座る。九〇度法、か。緊張した相手からもっとも話を引き出しやすい位置関係だ。心理療法ではすべての基礎となる面接技術だが、わたしにはあまり興味の持てる事柄ではない。なにを話そうと、なにを話すまいと、なにも、なにも変わりはしないのだ。それに大体、右利きのわたしの左前方に位置するのでは効果は半減だ。
「――シス工、ですか」さしたる感情も抱かず、おぼろげに高橋教授の方を見ながらわたしは訊き返す。
「転籍試験は今すぐでもいいし、三年次からの転籍としてもいい。いずれにせよ、善は急げ、となる。というにもシス工は出席のカウント、ゆるいからね。正直、今のままだと三年次への進級も危うい。ああでも、察してくれてると思うけど、研究室はぜひうちに残ってほしい。まあ、どうしてもほかの研究室へ、という気概があれば、推薦状も書かなくもないけど」
「まだ――わたしは生命工学科でやり残している領域があります」
「でも、それが体力的にできるかできないかといわれたら、返答に窮す、と」思った通りの返しだ。
「シス工といえば、こんな研究もある。たとえばヒトの脳を一億個、並列連結して同時演算させたらどうなると思う? 物理的にできない実験をAIが代わりにやってくれたらスマートだし、AIなら私たちの『創造主』の顔も知ってるかもね――昔読んだSF小説だけど、そうしたAIを駆使して、神の本質を探っていた研究所があってね。そうしたらそのラボの所長の顔が『創造主』として表示された、という嘘のような本当のような描写もあったわ。AIの発展は自然科学にも社会科学にも波及する。とにかく、今私たちが見聞きしている学問はおしなべて未開の地、宝の山よ。不必要に急がなくていいけど、よく考えて早めに結論を出すことね」
少し時間がほしい、といって辞去した。廊下を歩きながらつらつらと考える。
『シス工の見地ならではの研究もうちのゼミに欲しいし、あっちは理研の就職率も学部内では高い方よ。まあ、納得いくまで悩みなさい。ただし、下手の長考にならないように』。
理化学研究所か。いま理研を目指しても、目指さなくても、わたし自身へは何の変容もないように思えた。八方塞がりなのだ。その日の講義はすべてないものとし、とぼとぼとアパートまでを歩く。雲が分厚くなってきた。帰るなり、ベッドに倒れ込む。ふと思い出したかのように、オーケストラの面々が頭をよぎる。もう、住む世界を異にし始めているのかもしれない。
本棚のけして狭くはない区画を占有する、楽譜のスペースへ這い寄る。高志がくれたバウアー作曲のオーボエとクラリネットのための二重奏を開く。曲のイメージがわからない。でも、さして難解な作品でもないのだ。この楽譜をもらった晩、すぐに楽曲をオンラインで購入した。この曲はひと通り聴いたはずなのに。譜面を開いても音が聴こえてこない。何年間もオーボエを構えていたのに、そのオーボエの音を頭の中で再現できなくなっていた。
わたしは、もしかしたらなにをやっても駄目なのかもしれない。
木枯らしに吹かれた落葉樹も丸裸になり、山の賑わいとなるほどの本数も植わっていない冬の理系キャンパスはただただ殺風景だ。構内を歩いているだけで体力も気力も無に等しくなる。
ただし無はゼロではない。ある項目にプラスでもマイナスでもない絶妙な釣り合いが取れたときこそがゼロであって、最初からなにもなかった状態が無だ。宇宙のはじまりは時間すらなかったとか、爆発により空間、時間、物質が生じたとか、いや、神のみが存在していた、など諸説あるが、宇宙のはじまりは宇宙自身の発生と同時に宇宙の内側に作られた時間と空間、それこそが宇宙である、とわたしは考えている。では入れ子である宇宙の外側は何であるのか。それこそが無だ。それこそがわたしだ。
自分はどこへゆきたいのか、自分はなにになりたいのか、一切の欲がそがれ、五感を用いた毎日はどこか遠く、夢の中の夢のように距離があった。
自主休講が増えた。講義の集中力にも欠け、ゼミで発言する気力も失せた。
「朝野さん」
見るに見かねてか、ゼミの高橋教授に呼び出された。応接間に通される。(専任教授の身分では教授室はあてがわれていないらしい)
「取り立てて叱責するメリットもないし、応援する意図も理由もないんだけど」席を勧めたうえで高橋教授はいい、後ろの電気ポットでコーヒーを淹れる。
「――目に余る、とでもいおうか」
わたしは後ろの高橋教授の声とポットの蒸気の音を聞きながら、窓の外をぼんやりと見る。今日も鉛か、コンクリートのような空だ。
高橋教授は小さくため息をつく(落胆というよりは、どこかしら安心にも通ずるようなため息だ)。
「私も教授とはいえ専任だからね。学生個々人のメンタルケアにまでは手が回らないの。でもね、朝野さん。二年前、入試の二次試験から直近の試験、それから提出物類を一見したところ、あなたほど優秀な学生はいなかった。生命工学科の中だけでなく、学部全体で見ても。あなたのような成績優秀者はできればずっと持っていたい。私のエゴでもあるし、学問の発展の上でもそう。だから絶対に潰したくない。いまあなたに大変なストレスがかかっているのはもはや自明。そこで私からの提案なんだけど――」
「転籍、ですか」
「――ご明察。じゃあ、どこが候補地かもわかるわね?」
「いえ、そこまでは」
「知能システム工学科、といったら?」高橋教授がわたしから見て左前の応接ソファに座る。九〇度法、か。緊張した相手からもっとも話を引き出しやすい位置関係だ。心理療法ではすべての基礎となる面接技術だが、わたしにはあまり興味の持てる事柄ではない。なにを話そうと、なにを話すまいと、なにも、なにも変わりはしないのだ。それに大体、右利きのわたしの左前方に位置するのでは効果は半減だ。
「――シス工、ですか」さしたる感情も抱かず、おぼろげに高橋教授の方を見ながらわたしは訊き返す。
「転籍試験は今すぐでもいいし、三年次からの転籍としてもいい。いずれにせよ、善は急げ、となる。というにもシス工は出席のカウント、ゆるいからね。正直、今のままだと三年次への進級も危うい。ああでも、察してくれてると思うけど、研究室はぜひうちに残ってほしい。まあ、どうしてもほかの研究室へ、という気概があれば、推薦状も書かなくもないけど」
「まだ――わたしは生命工学科でやり残している領域があります」
「でも、それが体力的にできるかできないかといわれたら、返答に窮す、と」思った通りの返しだ。
「シス工といえば、こんな研究もある。たとえばヒトの脳を一億個、並列連結して同時演算させたらどうなると思う? 物理的にできない実験をAIが代わりにやってくれたらスマートだし、AIなら私たちの『創造主』の顔も知ってるかもね――昔読んだSF小説だけど、そうしたAIを駆使して、神の本質を探っていた研究所があってね。そうしたらそのラボの所長の顔が『創造主』として表示された、という嘘のような本当のような描写もあったわ。AIの発展は自然科学にも社会科学にも波及する。とにかく、今私たちが見聞きしている学問はおしなべて未開の地、宝の山よ。不必要に急がなくていいけど、よく考えて早めに結論を出すことね」
少し時間がほしい、といって辞去した。廊下を歩きながらつらつらと考える。
『シス工の見地ならではの研究もうちのゼミに欲しいし、あっちは理研の就職率も学部内では高い方よ。まあ、納得いくまで悩みなさい。ただし、下手の長考にならないように』。
理化学研究所か。いま理研を目指しても、目指さなくても、わたし自身へは何の変容もないように思えた。八方塞がりなのだ。その日の講義はすべてないものとし、とぼとぼとアパートまでを歩く。雲が分厚くなってきた。帰るなり、ベッドに倒れ込む。ふと思い出したかのように、オーケストラの面々が頭をよぎる。もう、住む世界を異にし始めているのかもしれない。
本棚のけして狭くはない区画を占有する、楽譜のスペースへ這い寄る。高志がくれたバウアー作曲のオーボエとクラリネットのための二重奏を開く。曲のイメージがわからない。でも、さして難解な作品でもないのだ。この楽譜をもらった晩、すぐに楽曲をオンラインで購入した。この曲はひと通り聴いたはずなのに。譜面を開いても音が聴こえてこない。何年間もオーボエを構えていたのに、そのオーボエの音を頭の中で再現できなくなっていた。
わたしは、もしかしたらなにをやっても駄目なのかもしれない。
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