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VIII 正しさ
076 正義
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七六 正義
翌日も、それ以降もずっと吉川は普段通りの様子だったし、『お嬢様方』の態度にも変化は見られなかった。硬化もなければ軟化もない。しかし高志とは、吉川をめぐる対処で居心地の悪い距離感が残っている。たしかに高志や、鈴谷のいう通りオーケストラは実力社会なのかもしれない。所詮学生のやること、プロでもないのに――しかし、と考えが立ち止まる。夏に瀬戸が出したオーボエへの転向希望を受け、吉川自身、オーケストラは音楽教室でない、賛助がつくレベルを維持しろ、と瀬戸を厳しく叱責したのだ。だから、吉川へは昨日のような対処が、かの女自身も望んでいるのかもしれない。
それは正しい。論理にほころびもなく、ずっと唱え続けるにあたり、不安定なところもない。まったくもって窮屈で、居心地の悪い正しさである、とわたしはその時思った。なぜなら、勝者しか用いえない論理だからだ。
確かにわたしの母校は吹奏楽の強豪校だった。わたしが二年生の時に加わっていた木管五重奏では支部大会まで勝ち進んだのだし、部自体、全国大会の常連であった。
わたし自身はアンサンブルコンテストで敗退し、退部届を出したが、部の常勝の気風はそのままだし、それはあの時も、今年も、来年も、変化すべき理由も必要もないだろう。
吉川と高志は出身が同じだという。高校時代、塾が同じだったと高志は話していた。ジュニアオーケストラでも一緒だった可能性も大いにある。それならばある程度、気心の知れた仲であってもおかしくない。事実、同じ大学に進学したかれらは恋人同士となっていたのだ。
だから、お互いの考えていることも、いわずとも分かり合えているのだろう。わたしだけか。わたしだけなにも知らず、ただほかの駒の存在を知らずに、人生の盤上で勝ち誇っていた裸の王様なのか。でも――吉川のあの扱いは、理解はできても納得はできない。文系キャンパスをうつむいて早足で歩く。自販機のベンチで、灰皿の周りで、噴水のほとりで、だれもが呑気に談笑している。わたしだけがなにも知らないわけではないだろう。とはいえこの学生全員が、世界はとても冷淡で、屈折していることを知っているかどうかは疑問だったが。
ややぬるい温風に迎えられ、学生食堂に入る。出入口横には楕円のテーブルが置かれ、肉と魚の日替わり定食が透明なビニールの蚊帳の中でディスプレイしていた(食品サンプルをいちいち購入するのも効率が悪く、実物を置いているため、虫よけが必要だからだ)。肉の定食と魚の定食、前者は焼き鳥で後者は秋刀魚だった。焼き鳥とは珍しい。肉の定食を発券する。
席にかけ、短く祈りを捧げ、箸を折る。
父も焼き鳥が好物だった。焼き鳥や枝豆、餃子、おでん、カツオのたたき、湯豆腐、タコわさ、酢鶏、唐揚げ、つまり父は居酒屋で供されるようなメニューはなんでも好きだったのだ。サマーコンサートの打ち上げ、そのあと高志とふたりで行った「居酒屋」というところの出す料理は物珍しく、とてもおいしかった。回転寿司やイタリアンレストラン、ファストフード店といったファミリー層向けの店とは異なる味覚を刺激するからだ。
こんなことがあった。
わたしが小学生の頃、家族三人で行ったチェーンの和風料理店で、口をいっぱいに広げて焼き鳥を串のまま食べていると「聖子ったら、みっともないんだから」と母にいさめられた。ところが父は「いや、焼き鳥はこの状態でいただくのが正しい。そうでなかったらフライパンで炒めた方が手っ取り早いからな。けど、それじゃ焼き鳥じゃなくなる」と、やけにわたしの肩を持ってくれた。「はいはい。聖子はこんなに理屈っぽく育たないといいんだけどね」と半ば呆れて見せながら母は笑った。
正しさ。
焼き鳥の作法云々ならまだいい。わたしの引っかかっていたところは、正しさがそうでない者たちを弾圧するところにある。正義、という言葉がある。わたしの場合はあった、と過去形にいいかえるだろう。正しさは勝つ。戦争でも、法廷でも、オーケストラでも。そのときそのときで状況は異なるが、常に勝者は正しさだった。父は焼き鳥に対しての正義はあるようだったが、勝敗と関係ない、概念としてのものだったので母も笑っていたのだろう。吉川と木村のように、力量の差、勝敗にもとづく正しさではなかったのだ。
父はもう世を離れたが、高志という新しい間柄がわたしの懐中を温もらせてくれている。わたしはリップが落ちるのもかまわず、焼き鳥を串のまま食べる。家族は失ったが、ともにした時間はいまもこの胸にある。
翌日も、それ以降もずっと吉川は普段通りの様子だったし、『お嬢様方』の態度にも変化は見られなかった。硬化もなければ軟化もない。しかし高志とは、吉川をめぐる対処で居心地の悪い距離感が残っている。たしかに高志や、鈴谷のいう通りオーケストラは実力社会なのかもしれない。所詮学生のやること、プロでもないのに――しかし、と考えが立ち止まる。夏に瀬戸が出したオーボエへの転向希望を受け、吉川自身、オーケストラは音楽教室でない、賛助がつくレベルを維持しろ、と瀬戸を厳しく叱責したのだ。だから、吉川へは昨日のような対処が、かの女自身も望んでいるのかもしれない。
それは正しい。論理にほころびもなく、ずっと唱え続けるにあたり、不安定なところもない。まったくもって窮屈で、居心地の悪い正しさである、とわたしはその時思った。なぜなら、勝者しか用いえない論理だからだ。
確かにわたしの母校は吹奏楽の強豪校だった。わたしが二年生の時に加わっていた木管五重奏では支部大会まで勝ち進んだのだし、部自体、全国大会の常連であった。
わたし自身はアンサンブルコンテストで敗退し、退部届を出したが、部の常勝の気風はそのままだし、それはあの時も、今年も、来年も、変化すべき理由も必要もないだろう。
吉川と高志は出身が同じだという。高校時代、塾が同じだったと高志は話していた。ジュニアオーケストラでも一緒だった可能性も大いにある。それならばある程度、気心の知れた仲であってもおかしくない。事実、同じ大学に進学したかれらは恋人同士となっていたのだ。
だから、お互いの考えていることも、いわずとも分かり合えているのだろう。わたしだけか。わたしだけなにも知らず、ただほかの駒の存在を知らずに、人生の盤上で勝ち誇っていた裸の王様なのか。でも――吉川のあの扱いは、理解はできても納得はできない。文系キャンパスをうつむいて早足で歩く。自販機のベンチで、灰皿の周りで、噴水のほとりで、だれもが呑気に談笑している。わたしだけがなにも知らないわけではないだろう。とはいえこの学生全員が、世界はとても冷淡で、屈折していることを知っているかどうかは疑問だったが。
ややぬるい温風に迎えられ、学生食堂に入る。出入口横には楕円のテーブルが置かれ、肉と魚の日替わり定食が透明なビニールの蚊帳の中でディスプレイしていた(食品サンプルをいちいち購入するのも効率が悪く、実物を置いているため、虫よけが必要だからだ)。肉の定食と魚の定食、前者は焼き鳥で後者は秋刀魚だった。焼き鳥とは珍しい。肉の定食を発券する。
席にかけ、短く祈りを捧げ、箸を折る。
父も焼き鳥が好物だった。焼き鳥や枝豆、餃子、おでん、カツオのたたき、湯豆腐、タコわさ、酢鶏、唐揚げ、つまり父は居酒屋で供されるようなメニューはなんでも好きだったのだ。サマーコンサートの打ち上げ、そのあと高志とふたりで行った「居酒屋」というところの出す料理は物珍しく、とてもおいしかった。回転寿司やイタリアンレストラン、ファストフード店といったファミリー層向けの店とは異なる味覚を刺激するからだ。
こんなことがあった。
わたしが小学生の頃、家族三人で行ったチェーンの和風料理店で、口をいっぱいに広げて焼き鳥を串のまま食べていると「聖子ったら、みっともないんだから」と母にいさめられた。ところが父は「いや、焼き鳥はこの状態でいただくのが正しい。そうでなかったらフライパンで炒めた方が手っ取り早いからな。けど、それじゃ焼き鳥じゃなくなる」と、やけにわたしの肩を持ってくれた。「はいはい。聖子はこんなに理屈っぽく育たないといいんだけどね」と半ば呆れて見せながら母は笑った。
正しさ。
焼き鳥の作法云々ならまだいい。わたしの引っかかっていたところは、正しさがそうでない者たちを弾圧するところにある。正義、という言葉がある。わたしの場合はあった、と過去形にいいかえるだろう。正しさは勝つ。戦争でも、法廷でも、オーケストラでも。そのときそのときで状況は異なるが、常に勝者は正しさだった。父は焼き鳥に対しての正義はあるようだったが、勝敗と関係ない、概念としてのものだったので母も笑っていたのだろう。吉川と木村のように、力量の差、勝敗にもとづく正しさではなかったのだ。
父はもう世を離れたが、高志という新しい間柄がわたしの懐中を温もらせてくれている。わたしはリップが落ちるのもかまわず、焼き鳥を串のまま食べる。家族は失ったが、ともにした時間はいまもこの胸にある。
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