ハッピーレクイエム

煙 亜月

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VIII 正しさ

073 媾合

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七三 媾合(こうごう)

 講義が終わり、トイレに向かう。鏡の前で制酸剤を噛み砕いて飲み込む(同じ上水道といえど、トイレの洗面台の水では薬は飲めなかった)。制酸剤は程度の悪いラムネのような味だ。飲んで三分を経過した。みぞおちの疝痛はまだ引かない。吐き気だって強い。おまけに講師の話す内容がテキストを行ったり来たりで、インターネットのように求める情報だけ求めるときに求めるだけの情報を、選択的に知ることができるわけでもない。フラストレーションが溜まってばかりだ。ここのところいらいらが治まらない。制酸剤を飲んで十五分。胃薬に加えて、そろそろわたしも精神安定剤を飲むべきなのだろうか。

 自宅へ帰ると着替えもせず、カーテンも引かず、うつぶせでベッドに倒れこむ。
 何なんだ、この不調は。生理前? そう思いいたって鼻で笑う。ここまで乱れた周期では判断のしようがない。
「高志。いま、いい?」わたしは電話をかける。
 ――だめっていっても押し通すんだろ? で、なんだ?
「やりたい」
 ――なるほど。どうしようかねえ。時間は有限だし。まあ、でも今日はたまたま暇してるからな。特別に行くよ。
 頼みさえずれば、よほどのことがない限り高志はいつでも来てくれるし、いつでも望むようにしてくれた。
「――はあ、聖子、もういいか?」
「待って、あと少し――あっ、あっ」
 力を失った高志の体重が体にのしかかってくる。「お――ちょっと、重い」
「ああ、ごめん。脱力してた。暑い」
 高志とわたしはシングルベッドに並んで寝ころび、ティッシュで互いの股間を拭いたり、ぬるくなった酒を分け合って飲んだりした。これが世にいう恋人という間柄なら、もっと早くから気づいておきたかった、と今でも思う。裸のまま廊下を歩き、トイレで用を足す。でも、高志ではない人間と恋人になっても、セックスまでするのは嫌だな。なにもかも高志がいい。部屋に戻ると、服を着た高志はベランダで煙草を吸っていた。わたしはよく知らないが、高志くらいのものだろう――行為の二時間前は喫煙を控えてくれるものは。
 ただし、思うようにならないことも厳としてあった。
 
「んっ、い、いっ――いいたいっ!」
 かれは動きを止め、体と体を密着させてわたしの痛みが引くのを待つ。わたしの性交痛も、あの夏から完全に消え去った訳でもない。
 だが高志も高志で、つねに気遣えたわけでもない。かれの酔いが回っているときなど(一度や二度でもない回数で)、強引に動かしたこともあった。そのときの出血は跡として残るし、自分の心にもささくれのようにして残った。ベッドカバーを洗うたび、自分は前よりも大事に扱われていないのか、とげんなりするのだ。マットレスの染みがわたしの気持ちをかき乱す。
 ――いや、あれは不正出血の血だ。たまたま性交痛と不正出血が重なったからだ。そう思い込むことにしている。そのときはそう、たまたまだ。たまたまセックスと不正出血が重なっただけ。その染みに過ぎないのだ。
 愛されている実感はある。でも、そうでない瞬間だって時としてある。高志だって若い盛りだ。我慢ばかりしていては発散できない。それに、わたしには懸念もあった。性交痛の著しい女性は、男にとって厄介だとか、難しいとされるらしい。だから、かれを文字通り体でつなぎ留めておくためにもセックスは必要だったのだ。この認識はわたしをいつも自己嫌悪に陥れる。
 それ以外にも問題はあった。
「――待って、ねえ、待ってよ! 待ってってば!」覆いかぶさってきたかれを両手両足で押しとどめる。「もう、子どもでも作る気?」
 ふたりとも酔っているのとはいえ、だめだ。避妊具もつけずに来るかれを全力ではねのける(コンドームであっても避妊率が約九十八%と、絶対ではない。しかしそれは装着を怠る理由にはちっともならない)。
「外出しするからさ。一回だけ、生で聖子に挿れてみたいんだ――だめ?」
「だめに決まってるでしょ、なに馬鹿なこといってんの! そんなことしたらわたし、別れるよ?」
 そういうと高志は急にしょげ返り、
「あ――ごめん。じゃあ、今日はおれ、帰るわ。なんか、悪かったな」と服を着始めた。
「え、は? あ、いや、待ってよ、待って。なにも帰ることないじゃない。そんなんじゃまるで――」
 わたしは自分の言葉の行く先のあまりの恐ろしさに口をつぐむ。まるで――。
「いや、わかってる。体目当てじゃないよ。おれもそこまでひどくない。ただ、なんていうか、おれたち結婚して子どもをつくる、って段階までいかないと、その、生でできないってなると――」かれは語尾を濁す。
「でもこれ、いちばん薄いの買ってるんでしょ? 子どもは、そりゃ、将来的には欲しいけど――でも今『堕ろした』っていう経験はしたくないのよ。わかるでしょ?」
 かれはうつむいて目を合わせようとしない。——まずい。いや、でも高志に従ったところで、さらによくない結果を導くおそれもあるのだ。もちろんこのままかれの不満足が続けば、関係にひびが入るのは理解はできた。素早く考えた末に下唇をきつく噛む。
「い、一回だけだからね。出すときは絶対、外に出してよね」

 そのときの高志は、サマーコンサートの夜に初めて結ばれたときのように優しく、ふたりとも満足を感じていた。ふたりで仰向けに寝転がる。ふたりとも、本当のセックスをした、と誤解に基づく多幸感で満ち足りていた。こういうのも悪くはないのかもしれない、と笑みを浮かべ、唇を重ねる。

 限界効用逓減の法則。一が二になるときの抵抗は、ゼロが一になるときのそれよりも軽い。一回だけ、という条件であれ、一度でも呑んでしまった要求はその後段階的に増えてゆく。
 この愚策が、果たして本当に愚策だったと断じられるのか、わたしはまだ考えをまとめられない。あれから何年も過ぎた。農薬を主とした製薬企業に就職し、ラボでひたすらスギナをやっつけようと腐心していても、このことが頭をよぎる。
 あのときあなたを拒めば、だれも死なずに済んだのかもしれない。

 ね、高志。あなたは、どうなればよかったの? 本当に子どもを身ごもったりして、わたしが自主退学して、高志が卒業したら結婚して――。
 そこまで考えて、煙草の灰がキーボードに落ちそうなことに気づく。煙草をもみ消す。明日も休みである。時刻は夜の二時を回っている。かれとの思い出を綴ったファイルでこのパソコンのも容量がいっぱいだ。テキストだけではない。ふたりの笑顔を写した画像、(高志にせがまれて撮影した)情事の時の動画。保存できるものはすべて保存してある。深夜のコーヒーは肌にも睡眠にもよくないことくらい、分かっている。わたしはメーカーで煮詰まっている苦いコーヒーに唇を寄せる。ちょうどふたりで夜を明かした、いくつもの朝に飲んだコーヒーを思い出しながら。
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