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VIII 正しさ
072 適性
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七二 適性
中にはその知らせに驚く者もいたが、志望者全員の合格の報を受け、わたしたちは高橋ゼミに入室した。
入室オリエンテーションは、講義室でプロジェクターを使用した、ゼミ全体のやや詳細な説明があった。工学部や理学部などが共同で使う実験棟に移動すると、実機を用いた機材の解説が、主に農学部が使う試験農場では作物の紹介などが、担当の教官やゼミ生によって行われた。
時間を置かず、各分野に分かれた専科の解説、およびその選択などが予定されており、わたしの大学生活で、講義とオーケストラとゼミの三本柱ができあがったときだった。
高橋ゼミ――遺伝子組換え作物における遺伝子操作技術に関する研究室――の中で、ゲノム編集、つまり自然界に存在しえない遺伝子を人為的に生み出す技術を専科とするチームの教官は高橋教授であった。
信頼と安全性のあるゲノム編集技術は今後、需要が増すものと思われる。新しい世代の農業の担い手は、先進国も途上国も、企業や国家単位で、しかも国際的なプロジェクトとなるのだ。大規模農場で効率と生産性が必要とされる、製品としての農産物を生み出さなくてはならない。同じ条件で、同じ種などをプロジェクト単位として大量に播種するのだから、あらゆる悪条件も想定しなければならない。ある農期で、同じ品種が多雨や日照りなどで壊滅的な被害を受ける――そうならないようにするためには、より高度、かつ低リスクを実現させるゲノム編集の技術が必要なのだ、と。
折しも学部の講義とかなりの部分でオーバーラップしており、相補的に予習復習を兼ねたものであったため、大いに役立ったのは否めない(もちろん、そうでなくとも予習復習の習慣はかねてより染みついていたのだが)。
ゼミは先輩ゼミ生、また大学院の研究生から機器の手ほどきを受けてのスタートだった。たとえばSPM、つまり走査プロープ顕微鏡を用いたプラスミド(細菌や酵母の細胞の核の外に存在する、環状二本鎖構造を持ったDNA分子の総称)の観察や、サーマルサイクラー(PCR装置。ポリメラーゼ連鎖反応を用い、ごく微小なDNAやRNAを複製できる)などは初めて扱う装置だったので、新鮮な向学心をかき立てられた。クリーンベンチを用いた初歩的な無菌操作や、蛍光顕微鏡(染色した細胞組織を観察できる光学顕微鏡)での観察など、学部の講義で馴染みのある機器の操作もあった。
専科を決める前、新入室生向けに農学部試験農場の紹介がされた時のことだ。よく晴れた日で、日差しも強かった。時間をかけて試験農場を練り歩くには、日焼けの面でよいコンディションとはいえない。
「あ、ショウちゃん!」
手を振る横山にわたしは気後れするものを感じ、目を伏せる。
晩秋だというのに麦わら帽子をかぶった横山は、講師や研究生の話すトウモロコシや馬鈴薯などの生育環境や土壌、農薬とその種類、世話の楽しさと大変さ、対照実験のために要する土地の広さなどの説明に目を輝かせて聞き入っていた。わたしは発がんリスクの高い紫外線を気にしていたし、慣れない有機肥料(要するにニワトリやのコウモリの糞である)のアンモニア臭に辟易していた。クリーンルームまでとはいわないが、清潔な研究室に籠っているのが自分の最適解であることは早々に結論できた。
「ショウちゃん、これ! 見て見て!」横山が手招きする(多少のそばかすはあるものの、悪い方でもない横山の顔に泥がついていた。かの女の顔面に有機肥料が付着していると思うとわたしは近寄るのがためらわれたが、ことさらに避ける正当な理由もないので、畝のあいだを注意深く歩いてゆく)。「でっかい甘藷!」
「かんしょ? ああ、サツマイモね」
「うん、これ、Lか2Lだよ、見た感じAくらいかな、等級」
「なんや。詳しいんやな。実家、農家?」先輩ゼミ生が(作物を褒められたことが嬉しいのだろう、やや誇らし気に)が訊く。
「あ、はい。甘藷もカボチャもエンドウも、あと馬鈴薯とか、それと種類は少ないんですけど花卉もやってます。甘藷はもっぱら飲んじゃうことが多いんですけどね、焼酎なんかにして」と横山は笑っていった。
「へえ、いろいろやっとんやな。あ、そや。この試験農場のコメで造った酒、飲んだことある?(横山は首を振る)ああ、二十歳未満やったな。大きくなったらお兄さん奢ったるで! 近くの店ならたいてい置いてあるけん、飲もう飲もう(横山は嬉しそうにうなずく)」
主要な作物の農地はひと通り巡った。一貫して、自分には室内の作業に適性がある、または農場でのそれには適性がない、という印象を抱いた。
横山、か。かの女のように誰とでも話せる人間もいる。わたしのように話せる相手が限られる者もいる。それだけのことだ。なにも劣等感を感じなくてもよい。ただ、差異があるだけだ。
「ショウちゃんも二十歳になったらここの日本酒、いっしょに飲めたらいいね。うち、誕生日が楽しみやわ」
――誕生日、か。それはわたしの死を意味するんだけどね。むろん、横山にはそうとはいえず、あいまいに笑ってごまかすしかなかったのだが。
中にはその知らせに驚く者もいたが、志望者全員の合格の報を受け、わたしたちは高橋ゼミに入室した。
入室オリエンテーションは、講義室でプロジェクターを使用した、ゼミ全体のやや詳細な説明があった。工学部や理学部などが共同で使う実験棟に移動すると、実機を用いた機材の解説が、主に農学部が使う試験農場では作物の紹介などが、担当の教官やゼミ生によって行われた。
時間を置かず、各分野に分かれた専科の解説、およびその選択などが予定されており、わたしの大学生活で、講義とオーケストラとゼミの三本柱ができあがったときだった。
高橋ゼミ――遺伝子組換え作物における遺伝子操作技術に関する研究室――の中で、ゲノム編集、つまり自然界に存在しえない遺伝子を人為的に生み出す技術を専科とするチームの教官は高橋教授であった。
信頼と安全性のあるゲノム編集技術は今後、需要が増すものと思われる。新しい世代の農業の担い手は、先進国も途上国も、企業や国家単位で、しかも国際的なプロジェクトとなるのだ。大規模農場で効率と生産性が必要とされる、製品としての農産物を生み出さなくてはならない。同じ条件で、同じ種などをプロジェクト単位として大量に播種するのだから、あらゆる悪条件も想定しなければならない。ある農期で、同じ品種が多雨や日照りなどで壊滅的な被害を受ける――そうならないようにするためには、より高度、かつ低リスクを実現させるゲノム編集の技術が必要なのだ、と。
折しも学部の講義とかなりの部分でオーバーラップしており、相補的に予習復習を兼ねたものであったため、大いに役立ったのは否めない(もちろん、そうでなくとも予習復習の習慣はかねてより染みついていたのだが)。
ゼミは先輩ゼミ生、また大学院の研究生から機器の手ほどきを受けてのスタートだった。たとえばSPM、つまり走査プロープ顕微鏡を用いたプラスミド(細菌や酵母の細胞の核の外に存在する、環状二本鎖構造を持ったDNA分子の総称)の観察や、サーマルサイクラー(PCR装置。ポリメラーゼ連鎖反応を用い、ごく微小なDNAやRNAを複製できる)などは初めて扱う装置だったので、新鮮な向学心をかき立てられた。クリーンベンチを用いた初歩的な無菌操作や、蛍光顕微鏡(染色した細胞組織を観察できる光学顕微鏡)での観察など、学部の講義で馴染みのある機器の操作もあった。
専科を決める前、新入室生向けに農学部試験農場の紹介がされた時のことだ。よく晴れた日で、日差しも強かった。時間をかけて試験農場を練り歩くには、日焼けの面でよいコンディションとはいえない。
「あ、ショウちゃん!」
手を振る横山にわたしは気後れするものを感じ、目を伏せる。
晩秋だというのに麦わら帽子をかぶった横山は、講師や研究生の話すトウモロコシや馬鈴薯などの生育環境や土壌、農薬とその種類、世話の楽しさと大変さ、対照実験のために要する土地の広さなどの説明に目を輝かせて聞き入っていた。わたしは発がんリスクの高い紫外線を気にしていたし、慣れない有機肥料(要するにニワトリやのコウモリの糞である)のアンモニア臭に辟易していた。クリーンルームまでとはいわないが、清潔な研究室に籠っているのが自分の最適解であることは早々に結論できた。
「ショウちゃん、これ! 見て見て!」横山が手招きする(多少のそばかすはあるものの、悪い方でもない横山の顔に泥がついていた。かの女の顔面に有機肥料が付着していると思うとわたしは近寄るのがためらわれたが、ことさらに避ける正当な理由もないので、畝のあいだを注意深く歩いてゆく)。「でっかい甘藷!」
「かんしょ? ああ、サツマイモね」
「うん、これ、Lか2Lだよ、見た感じAくらいかな、等級」
「なんや。詳しいんやな。実家、農家?」先輩ゼミ生が(作物を褒められたことが嬉しいのだろう、やや誇らし気に)が訊く。
「あ、はい。甘藷もカボチャもエンドウも、あと馬鈴薯とか、それと種類は少ないんですけど花卉もやってます。甘藷はもっぱら飲んじゃうことが多いんですけどね、焼酎なんかにして」と横山は笑っていった。
「へえ、いろいろやっとんやな。あ、そや。この試験農場のコメで造った酒、飲んだことある?(横山は首を振る)ああ、二十歳未満やったな。大きくなったらお兄さん奢ったるで! 近くの店ならたいてい置いてあるけん、飲もう飲もう(横山は嬉しそうにうなずく)」
主要な作物の農地はひと通り巡った。一貫して、自分には室内の作業に適性がある、または農場でのそれには適性がない、という印象を抱いた。
横山、か。かの女のように誰とでも話せる人間もいる。わたしのように話せる相手が限られる者もいる。それだけのことだ。なにも劣等感を感じなくてもよい。ただ、差異があるだけだ。
「ショウちゃんも二十歳になったらここの日本酒、いっしょに飲めたらいいね。うち、誕生日が楽しみやわ」
――誕生日、か。それはわたしの死を意味するんだけどね。むろん、横山にはそうとはいえず、あいまいに笑ってごまかすしかなかったのだが。
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