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VI ドーピング
050 息吹
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五〇 息吹
飲ませて好きなようにするのは世の多くの男(もしくは女)の持つ都市伝説だ。しかし高志とわたしはふたりそろってコーラとカルピスでお腹をたぷたぷにしつつ、次から次へと運ばれてくるカツオのたたきやタコわさ、ゲソ天やキムチチゲを楽しんだり、そうかと思えば真剣な眼差しで、同じ席にいた第一バイオリンの横山、セカンドバスーンの瀬戸、それからわたしと一緒に今日の演奏を振り返ったりした。
お店の枝豆がこんなにおいしいとは思わなかった。カツオのたたきにマヨネーズが合うというのも、今日初めて知る事実だった。わたしは豆類やマヨネーズに幸福感を覚えるほど満ち足りていた。吉川や部長は相変わらず飲んでは絡み、また絡んでは飲んでいた。料理とカルピスでふくれるお腹をさすると、刺激ではなく安定にも似た心地よさがあった。居酒屋、か。見たことはないけれど、父の楽しそうな顔が目に浮かんだ。
そうして九〇分の飲み放題と食べ放題が終わり、それぞれの帰路や将来へ足先を向ける。
「よし、団員は注目。もうオーダーストップは過ぎた。いよいよである、いよいよ我らは帰るべきところへ帰り、やがてそこからも巣立つ。この、オーケストラでさえもが過去の思い出となるのだ(それまでの大仰なしぐさの腕をだらりと下げる)。でもな、いくら単位につながらなくたって、いくらエントリーシートに書けなくたって、やっぱ俺、オケが好きなんだわ。みんなが大好きなんだわ。俺、オケ辞めても絶対オケが好きなまま社会人になると思う。今日はそんな人間がこぞって成し遂げた最高の日やん。だから最後は華麗にしめようぜ。では皆様お手を拝借――」
図書館や大講堂で過ぎていった時間も、高志や吉川と話して過ごした時間も、わたしに新たに息を吹き込み、まったく別の人間として芽吹かせるに十分な時間だった。
ゴッド・ブレス・ユー――これは「神の御恵みがあなたにありますように」と訳される。高志や吉川がわたしに吹かせた息吹、父のオーボエに息を吹き込んだのも、神の御心なのかもしれない。目に見えないものを信じよ、と聖書にある。
――そして、目に見えるものはすぐに朽ちるのだ、とも。
居酒屋から屋外へと出るといまだ熱の残る空気が腕を撫でる。円陣を組んでは通行人に睨まれていた団員もそれぞれに帰るころ、吉川が近づいてくる。
「悪いな、聖子」
「えっ」吉川の顔色はいつもと変わらず、呼気を嗅がない限り、先ほどまで酒を飲んでいた人間とは思えないことにすこし驚いた。
「だってさ、外聞のために飲ませなかったし。まあ法的にもだけどさ」
「そんな、ほかの団員も二十歳未満は飲まなかったし、ヨッシーが謝らなくても」
「そっか。オッケー、ならいいんだ。ショウちゃんもついにヨッシーって呼ぶ気になったか。なんでもいいんだよ、ヨッシーでも局でも」そこで相好を崩し笑う。
「じゃあ――さくらさん、でも?」と、吉川を姓でなく名で呼ぶ。
「あはは。なんでもいいよ、っていったらなんでもいいんだよ。ほら高志、いつまでつっ立ってんの。送ってあげなよ、紳士的にね」平松は煙草を携帯灰皿に捨て、咳をひとつしてから「はい?」と素っ頓狂にいった。
「これだから高志は――いや、なんでもない。おーい! あたしもう酔ったよ。早く帰って寝たいわ。今ならだれの家でもいいよ!」三、四年生の団員を中心におお、と囃す声が上がる。「おう、俺んち来るか?」と部長が仁王立ちする。「ああ、その、すまん。田中以外で頼む。もしくはタクシー代だけなら田中でもいい」吉川がそういうとさらに笑い声が起こる。
「なんだよ、あたしをひとりで帰らせるような薄情なオケなのか」
「分かった、分かったら。もう一軒だけ行こう、な?」と、部長がなだめているうちにわたしと高志は場を離れ、繁華街をふたりでそぞろ歩いた。
「やっぱ一杯くらい飲んでおけばよかったなあ」と腕を高く上に突き出し、体を左右にねじりながらいった。「飲まないと肩の凝りが取れない」
「高志、何歳から飲んでるの?」
「田舎では元服したら飲むんだよ」
「あなたってわたしの質問に真面目に答えたためしがないよね」
「そうか? ヨッシーのいる前よりかはかなり――」
「ヨッシーの話はいい」
「へ?」
「今ここにいるのはわたしとあなただけなんだから、的を絞って話そうよ」
かれは腕組みをしてにやにやとする。「なによ」
「いや、聖子にもそういう一面があったんだなあ、って」と、明らかに嬉しそうな顔をされたのでわたしはむすっとする。
「わかってるんなら、いい」
「へい。で、どっか店入る?」
「あなた、さっき紳士的に送れって――」
「ヨッシーの話はいい」と、かれはにやりと笑ってみせた。
「どこでもいいよ。わたし、詳しくないもの」
かれが先にのれんをくぐり、こぢんまりとした居酒屋に入る。ずんずん奥へ進むかれについてゆき、席に着く。「生中とレモンサワー、鶏酢ふたつと湯豆腐ふたつ、あと刺身盛り合わせひとつ」とよどみなく店員にいう。「あなた、さっき食べたばかりじゃないの?」
「食う食う。なんか、わいわい食べると食べた実感なくってさ。飲み物頼んじゃったけど、レモンサワーでよかった?」
かれとこうして飲むことにいくらかは不安もあり、がやがやとした狭い店内を見渡しながらわたしはわずかにうなずく。
「時間も時間だし、一杯で帰ろうな。おれ、馬鹿だからって破天荒な性格でもないし。ちゃんと送るから」
わたしは反論すべき点もさして見当たらず(すべてが真実だと仮定して)、冷たいおしぼりで手を拭きながら、そういえばわたし、最初は「しょうこ」ではなく「せいこ」と呼ばれていたな、とふと思い出す。
「そういえば高志って、かわいい子の名前、調べるんだったね」
「そりゃまあ、好きなアイドルの名前みたいなもんだよ」
「でも、『せいこ』って間違えるの、テキストでしか名前を知らない場合に限られない?」とわたしがいうと、かれはああ、とかおお、などといいながら顔を拭く。高志の携帯が鳴る。かれはただちにマナーモードにし、「一応、衆人環視では顔は拭かないようにしてるんだ」と少年のように笑う。飲み物と料理が運ばれてくる。「この時間で鶏酢と湯豆腐が残ってるのは珍しいんだ。食べよう」
「そうやってはぐらかすんだから」
飲ませて好きなようにするのは世の多くの男(もしくは女)の持つ都市伝説だ。しかし高志とわたしはふたりそろってコーラとカルピスでお腹をたぷたぷにしつつ、次から次へと運ばれてくるカツオのたたきやタコわさ、ゲソ天やキムチチゲを楽しんだり、そうかと思えば真剣な眼差しで、同じ席にいた第一バイオリンの横山、セカンドバスーンの瀬戸、それからわたしと一緒に今日の演奏を振り返ったりした。
お店の枝豆がこんなにおいしいとは思わなかった。カツオのたたきにマヨネーズが合うというのも、今日初めて知る事実だった。わたしは豆類やマヨネーズに幸福感を覚えるほど満ち足りていた。吉川や部長は相変わらず飲んでは絡み、また絡んでは飲んでいた。料理とカルピスでふくれるお腹をさすると、刺激ではなく安定にも似た心地よさがあった。居酒屋、か。見たことはないけれど、父の楽しそうな顔が目に浮かんだ。
そうして九〇分の飲み放題と食べ放題が終わり、それぞれの帰路や将来へ足先を向ける。
「よし、団員は注目。もうオーダーストップは過ぎた。いよいよである、いよいよ我らは帰るべきところへ帰り、やがてそこからも巣立つ。この、オーケストラでさえもが過去の思い出となるのだ(それまでの大仰なしぐさの腕をだらりと下げる)。でもな、いくら単位につながらなくたって、いくらエントリーシートに書けなくたって、やっぱ俺、オケが好きなんだわ。みんなが大好きなんだわ。俺、オケ辞めても絶対オケが好きなまま社会人になると思う。今日はそんな人間がこぞって成し遂げた最高の日やん。だから最後は華麗にしめようぜ。では皆様お手を拝借――」
図書館や大講堂で過ぎていった時間も、高志や吉川と話して過ごした時間も、わたしに新たに息を吹き込み、まったく別の人間として芽吹かせるに十分な時間だった。
ゴッド・ブレス・ユー――これは「神の御恵みがあなたにありますように」と訳される。高志や吉川がわたしに吹かせた息吹、父のオーボエに息を吹き込んだのも、神の御心なのかもしれない。目に見えないものを信じよ、と聖書にある。
――そして、目に見えるものはすぐに朽ちるのだ、とも。
居酒屋から屋外へと出るといまだ熱の残る空気が腕を撫でる。円陣を組んでは通行人に睨まれていた団員もそれぞれに帰るころ、吉川が近づいてくる。
「悪いな、聖子」
「えっ」吉川の顔色はいつもと変わらず、呼気を嗅がない限り、先ほどまで酒を飲んでいた人間とは思えないことにすこし驚いた。
「だってさ、外聞のために飲ませなかったし。まあ法的にもだけどさ」
「そんな、ほかの団員も二十歳未満は飲まなかったし、ヨッシーが謝らなくても」
「そっか。オッケー、ならいいんだ。ショウちゃんもついにヨッシーって呼ぶ気になったか。なんでもいいんだよ、ヨッシーでも局でも」そこで相好を崩し笑う。
「じゃあ――さくらさん、でも?」と、吉川を姓でなく名で呼ぶ。
「あはは。なんでもいいよ、っていったらなんでもいいんだよ。ほら高志、いつまでつっ立ってんの。送ってあげなよ、紳士的にね」平松は煙草を携帯灰皿に捨て、咳をひとつしてから「はい?」と素っ頓狂にいった。
「これだから高志は――いや、なんでもない。おーい! あたしもう酔ったよ。早く帰って寝たいわ。今ならだれの家でもいいよ!」三、四年生の団員を中心におお、と囃す声が上がる。「おう、俺んち来るか?」と部長が仁王立ちする。「ああ、その、すまん。田中以外で頼む。もしくはタクシー代だけなら田中でもいい」吉川がそういうとさらに笑い声が起こる。
「なんだよ、あたしをひとりで帰らせるような薄情なオケなのか」
「分かった、分かったら。もう一軒だけ行こう、な?」と、部長がなだめているうちにわたしと高志は場を離れ、繁華街をふたりでそぞろ歩いた。
「やっぱ一杯くらい飲んでおけばよかったなあ」と腕を高く上に突き出し、体を左右にねじりながらいった。「飲まないと肩の凝りが取れない」
「高志、何歳から飲んでるの?」
「田舎では元服したら飲むんだよ」
「あなたってわたしの質問に真面目に答えたためしがないよね」
「そうか? ヨッシーのいる前よりかはかなり――」
「ヨッシーの話はいい」
「へ?」
「今ここにいるのはわたしとあなただけなんだから、的を絞って話そうよ」
かれは腕組みをしてにやにやとする。「なによ」
「いや、聖子にもそういう一面があったんだなあ、って」と、明らかに嬉しそうな顔をされたのでわたしはむすっとする。
「わかってるんなら、いい」
「へい。で、どっか店入る?」
「あなた、さっき紳士的に送れって――」
「ヨッシーの話はいい」と、かれはにやりと笑ってみせた。
「どこでもいいよ。わたし、詳しくないもの」
かれが先にのれんをくぐり、こぢんまりとした居酒屋に入る。ずんずん奥へ進むかれについてゆき、席に着く。「生中とレモンサワー、鶏酢ふたつと湯豆腐ふたつ、あと刺身盛り合わせひとつ」とよどみなく店員にいう。「あなた、さっき食べたばかりじゃないの?」
「食う食う。なんか、わいわい食べると食べた実感なくってさ。飲み物頼んじゃったけど、レモンサワーでよかった?」
かれとこうして飲むことにいくらかは不安もあり、がやがやとした狭い店内を見渡しながらわたしはわずかにうなずく。
「時間も時間だし、一杯で帰ろうな。おれ、馬鹿だからって破天荒な性格でもないし。ちゃんと送るから」
わたしは反論すべき点もさして見当たらず(すべてが真実だと仮定して)、冷たいおしぼりで手を拭きながら、そういえばわたし、最初は「しょうこ」ではなく「せいこ」と呼ばれていたな、とふと思い出す。
「そういえば高志って、かわいい子の名前、調べるんだったね」
「そりゃまあ、好きなアイドルの名前みたいなもんだよ」
「でも、『せいこ』って間違えるの、テキストでしか名前を知らない場合に限られない?」とわたしがいうと、かれはああ、とかおお、などといいながら顔を拭く。高志の携帯が鳴る。かれはただちにマナーモードにし、「一応、衆人環視では顔は拭かないようにしてるんだ」と少年のように笑う。飲み物と料理が運ばれてくる。「この時間で鶏酢と湯豆腐が残ってるのは珍しいんだ。食べよう」
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