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VI ドーピング
047 夏祭
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四七 夏祭
大学オーケストラのサマーコンサートは市民文化会館のホールで上演された。全員の持ち物、楽器、さらになにかあった時にいつでも代替が利くようにと、事務方を含めた団員全員と、学校備品の楽器もが搬入された。子どもが多く来場する定演であるので、服装も団で揃えて作成したTシャツを着て、堅苦しくならないよう配慮された。
団の音響担当の者は、会館の職員と合同して機器のセッティング、録音の準備とテストを行った。控室で部長がここぞとばかりに話し始めた。「団員は注目。予算関係と渉外担当の部長です。つまりパンフに広告を載せていただいてる賛助さんとの窓口をやるだけだ。はい、ええ、なにを話すかと申しますと、とくにいうことはない。部長なのに、サマコンなのに、仕事がない!(控室が笑いとブーイングが起こる)ああ、すまない。だがおれは本気だ。サマコンが終われば――次はなんだ?(場が少し静まり、「冬の定演?」とささやく声がする)もちろんそうだ、サマコンの次は打ち上げだ! 幹事はおれだ! みんな、緊張しすぎて楽しめなくなっちゃだめだぞ。これはもちろん打ち上げの話だ」
「ちょっと部長、こっちはいま集中してるんですけど」と黙っていた吉川が頭上で手を払うようにひらひらとさせる。
「おっと、学指揮。いい指摘だ。よって部長挨拶終わり。いつも通り頑張ろう。困ったら各パトリか、顧問にでも早めにいおう。では次、平松」
「はい?」と、クラリネットのリードを舐めたり首をかしげたりしていた平松がとぼけた返事をする。「なんかいえよ、目立てるぞ」と部長が指揮者のように手で起立を促す。
「ええと、数学科二年、セカンドクラリネット、平松高志です」
「そんなん知っとるわ。もっといいこといえよ、なんかあるだろ。時間ないんだから」
「え? ええ。そうですね、皆さん緊張してますか。おれはケツの毛ほど緊張してません。緊張は交感神経の働きすぎですよね。ステージって、照明でけっこう暖かいんです。下手すりゃ眠くなるくらい適温です。きょうはそこにマッサージも加えましょうか。といっても手足をちょっともじもじさせるだけでいいです。身体のリラックス状態に騙された脳は自動的に副交感神経を優位にさせます。押して駄目なら引いてみようって話です。で、まあ、以上です」
「ああ、うん、お前本当に数学科か? まあ、水虫を疑われん程度に足を動かそう。あとお前、人に話すときはリード、ぺろぺろするなよな? すごくおいしいアイスの棒かと思われるぞ。では諸君、そろそろ頃合いだもんで――」
「はいはい、部長。学指揮のあたしからひとつ」と、吉川は手を挙げた。「一年生には初だけど、今日はお祭り、夏祭だからね、ミスしようがなんだろうが、姿勢よく、堂々とね。視覚的にもすごいと思わせるのも生オケの味だからね。子どもたちを楽しませよう。今日の指揮は顧問であたしの指揮とは違うけど、気にしないで。以上」
録音した音源を聴いて最後の確認する者、小声でおしゃべりをする者、スマホを操作する者など、思い思いに時間を過ごし、そして定刻を迎えた団員は舞台へと歩いてゆく。
舞台袖で待っているとき、高校時代の吹奏楽部が思い起こされた。あの頃は主に批評家への作品発表であった。今日は違う。客席からは子どもたちのはしゃぐ声や、若い女性の笑い声が聞こえた。この人たちは楽しみに来ている。わたしたちを見定めにきているとは思えない。そのことは高校時代以上にわたしを奮起させた。左手に握るこの楽器のためにも、わたしはあのころの自分を越えた音楽をするのだ。
はじめに会館職員と田中部長が進行役として、挨拶をかねてプログラム——演目の紹介や指揮体験の流れ――の説明をし、演奏の大きな音で小さな子が驚くかもしれないが、泣き止んだらまたいつでも戻ってきてほしい、などといったアナウンスをした。
「さて、オーケストラのほうも用意ができたようですね。それでは皆様、拍手でお迎えください!」と会館職員と部長は裾へ退く。まばゆいライトに照らされ、ステージ下手よりコントラバスやテューバ、ティンパニといった客席から見て右へ詰める楽器が拍手に迎えられ、ステージに入ってゆく。続いてほかの楽器やコンサートマスターも入り、全員席に着いた。
客席の照明も徐々に落とされ、ホールは静かになる。わたしはすっと楽器を構える。A音――ラの音が団の音程を支配するのだ。ここでわたしが高めのラ、あるいは低めのラを吹けばオーケストラの調性も崩れれば、平均律に則った十二音も崩れる。しかし苦もなく四四二ヘルツのラを出し、コンサートマスターはじめ、楽団員を統率した。全員楽器を膝などに置く。裾で控えるステージマネージャーの合図により、指揮者である顧問が拍手とともに入り、指揮台の下で頭を下げる。顧問が指揮台に上り、客席に背を向けると拍手がやむ。観客もコンサート慣れしているのかもしれない。シビアな耳を持っていると思っていいだろう。
顧問は真っ白なタクトを構える。それが軌跡を描きつつオーケストラの中に踊る。
前半の部が終わり、合間に挟まれた二〇分の休憩時間は長いほうだろう。座って聴いているのに飽きてきた子どもたちはトイレに行ったり、小さな子はおむつを替え、また母親たちは授乳室を利用したりしていた(市の設備基準が刷新され、ファミリーにやさしく改装された市民文化会館は利用料こそ高いが、集客の上ではもってこいの施設といえた)。
二〇分は用事を済ませるのには長くも短くもないが、待っている間の子どもたちにとっては退屈でしかなかった。普段なら校庭へ出てドッジボールを行なえる時間数だ。そんな隙間を狙った楽器体験である。ロビーで子どもたちが団の備品の楽器に触れあう行事は、今年も好評を博していた。ただ、わたしはそもそも子どもが苦手である。団所有の樹脂製オーボエを持ち、さてどうしたものかと立ち尽くしていた。鈴谷など教育学部生は様々な楽器を手に取り、実際に子どもたちの目の前でアニメやゲームの曲などを次々に吹いてみせた。子どもたちは「ねえ、今度あれ吹いて!」とテレビの曲をリクエストする。鈴谷は曲の途中でやめ、「やってみる?」と子どもに声をかける。もじもじと気後れしていた子どもたちではあったが、ひとりでも吹いたり弾いたりする子が出たら、その子を皮切りにバイオリン、トランペット、フルートなど、どんどん行列ができていった。
鈴谷は壁の時計を見、「はい、そろそろ休み時間が終わります。まだやっていない子は、おうちに帰ってからお父さんやお母さんに相談しましょう。楽器習いたい、ってお願いしてみようね。では、お席に戻って待ちましょう」と、促した。
後半の部の冒頭では子供たちの指揮体験が行われた。「はい、小学校四年生以上の子で指揮をやってみたい子は立ってね。お兄さんとじゃんけんして、最後まで勝った子が指揮者になれます!」と部長がステージで取り仕切る。「お兄さん、じゃんけんは強いからねえ。勝てる子はいるかな? それ、じゃん、けん、ぽん! はい、お兄さんグー出しました。パーの子は立っててね。あいこのグーか、チョキの子は座りましょう」と、どんどん絞ってゆき、最後まで残った三名の子がステージに上る。部長がタクトを握り、お手本と称し滅茶苦茶に振って見せる。出たらめなタクトに合わせ、打ち合わせ通り団員が演奏すると客席から笑い声が聞こえた。収容人数の大きなホールであるので緊張していた三名の子も、笑顔でタクトを順番に握り、後半の部が始まった。
大学オーケストラのサマーコンサートは市民文化会館のホールで上演された。全員の持ち物、楽器、さらになにかあった時にいつでも代替が利くようにと、事務方を含めた団員全員と、学校備品の楽器もが搬入された。子どもが多く来場する定演であるので、服装も団で揃えて作成したTシャツを着て、堅苦しくならないよう配慮された。
団の音響担当の者は、会館の職員と合同して機器のセッティング、録音の準備とテストを行った。控室で部長がここぞとばかりに話し始めた。「団員は注目。予算関係と渉外担当の部長です。つまりパンフに広告を載せていただいてる賛助さんとの窓口をやるだけだ。はい、ええ、なにを話すかと申しますと、とくにいうことはない。部長なのに、サマコンなのに、仕事がない!(控室が笑いとブーイングが起こる)ああ、すまない。だがおれは本気だ。サマコンが終われば――次はなんだ?(場が少し静まり、「冬の定演?」とささやく声がする)もちろんそうだ、サマコンの次は打ち上げだ! 幹事はおれだ! みんな、緊張しすぎて楽しめなくなっちゃだめだぞ。これはもちろん打ち上げの話だ」
「ちょっと部長、こっちはいま集中してるんですけど」と黙っていた吉川が頭上で手を払うようにひらひらとさせる。
「おっと、学指揮。いい指摘だ。よって部長挨拶終わり。いつも通り頑張ろう。困ったら各パトリか、顧問にでも早めにいおう。では次、平松」
「はい?」と、クラリネットのリードを舐めたり首をかしげたりしていた平松がとぼけた返事をする。「なんかいえよ、目立てるぞ」と部長が指揮者のように手で起立を促す。
「ええと、数学科二年、セカンドクラリネット、平松高志です」
「そんなん知っとるわ。もっといいこといえよ、なんかあるだろ。時間ないんだから」
「え? ええ。そうですね、皆さん緊張してますか。おれはケツの毛ほど緊張してません。緊張は交感神経の働きすぎですよね。ステージって、照明でけっこう暖かいんです。下手すりゃ眠くなるくらい適温です。きょうはそこにマッサージも加えましょうか。といっても手足をちょっともじもじさせるだけでいいです。身体のリラックス状態に騙された脳は自動的に副交感神経を優位にさせます。押して駄目なら引いてみようって話です。で、まあ、以上です」
「ああ、うん、お前本当に数学科か? まあ、水虫を疑われん程度に足を動かそう。あとお前、人に話すときはリード、ぺろぺろするなよな? すごくおいしいアイスの棒かと思われるぞ。では諸君、そろそろ頃合いだもんで――」
「はいはい、部長。学指揮のあたしからひとつ」と、吉川は手を挙げた。「一年生には初だけど、今日はお祭り、夏祭だからね、ミスしようがなんだろうが、姿勢よく、堂々とね。視覚的にもすごいと思わせるのも生オケの味だからね。子どもたちを楽しませよう。今日の指揮は顧問であたしの指揮とは違うけど、気にしないで。以上」
録音した音源を聴いて最後の確認する者、小声でおしゃべりをする者、スマホを操作する者など、思い思いに時間を過ごし、そして定刻を迎えた団員は舞台へと歩いてゆく。
舞台袖で待っているとき、高校時代の吹奏楽部が思い起こされた。あの頃は主に批評家への作品発表であった。今日は違う。客席からは子どもたちのはしゃぐ声や、若い女性の笑い声が聞こえた。この人たちは楽しみに来ている。わたしたちを見定めにきているとは思えない。そのことは高校時代以上にわたしを奮起させた。左手に握るこの楽器のためにも、わたしはあのころの自分を越えた音楽をするのだ。
はじめに会館職員と田中部長が進行役として、挨拶をかねてプログラム——演目の紹介や指揮体験の流れ――の説明をし、演奏の大きな音で小さな子が驚くかもしれないが、泣き止んだらまたいつでも戻ってきてほしい、などといったアナウンスをした。
「さて、オーケストラのほうも用意ができたようですね。それでは皆様、拍手でお迎えください!」と会館職員と部長は裾へ退く。まばゆいライトに照らされ、ステージ下手よりコントラバスやテューバ、ティンパニといった客席から見て右へ詰める楽器が拍手に迎えられ、ステージに入ってゆく。続いてほかの楽器やコンサートマスターも入り、全員席に着いた。
客席の照明も徐々に落とされ、ホールは静かになる。わたしはすっと楽器を構える。A音――ラの音が団の音程を支配するのだ。ここでわたしが高めのラ、あるいは低めのラを吹けばオーケストラの調性も崩れれば、平均律に則った十二音も崩れる。しかし苦もなく四四二ヘルツのラを出し、コンサートマスターはじめ、楽団員を統率した。全員楽器を膝などに置く。裾で控えるステージマネージャーの合図により、指揮者である顧問が拍手とともに入り、指揮台の下で頭を下げる。顧問が指揮台に上り、客席に背を向けると拍手がやむ。観客もコンサート慣れしているのかもしれない。シビアな耳を持っていると思っていいだろう。
顧問は真っ白なタクトを構える。それが軌跡を描きつつオーケストラの中に踊る。
前半の部が終わり、合間に挟まれた二〇分の休憩時間は長いほうだろう。座って聴いているのに飽きてきた子どもたちはトイレに行ったり、小さな子はおむつを替え、また母親たちは授乳室を利用したりしていた(市の設備基準が刷新され、ファミリーにやさしく改装された市民文化会館は利用料こそ高いが、集客の上ではもってこいの施設といえた)。
二〇分は用事を済ませるのには長くも短くもないが、待っている間の子どもたちにとっては退屈でしかなかった。普段なら校庭へ出てドッジボールを行なえる時間数だ。そんな隙間を狙った楽器体験である。ロビーで子どもたちが団の備品の楽器に触れあう行事は、今年も好評を博していた。ただ、わたしはそもそも子どもが苦手である。団所有の樹脂製オーボエを持ち、さてどうしたものかと立ち尽くしていた。鈴谷など教育学部生は様々な楽器を手に取り、実際に子どもたちの目の前でアニメやゲームの曲などを次々に吹いてみせた。子どもたちは「ねえ、今度あれ吹いて!」とテレビの曲をリクエストする。鈴谷は曲の途中でやめ、「やってみる?」と子どもに声をかける。もじもじと気後れしていた子どもたちではあったが、ひとりでも吹いたり弾いたりする子が出たら、その子を皮切りにバイオリン、トランペット、フルートなど、どんどん行列ができていった。
鈴谷は壁の時計を見、「はい、そろそろ休み時間が終わります。まだやっていない子は、おうちに帰ってからお父さんやお母さんに相談しましょう。楽器習いたい、ってお願いしてみようね。では、お席に戻って待ちましょう」と、促した。
後半の部の冒頭では子供たちの指揮体験が行われた。「はい、小学校四年生以上の子で指揮をやってみたい子は立ってね。お兄さんとじゃんけんして、最後まで勝った子が指揮者になれます!」と部長がステージで取り仕切る。「お兄さん、じゃんけんは強いからねえ。勝てる子はいるかな? それ、じゃん、けん、ぽん! はい、お兄さんグー出しました。パーの子は立っててね。あいこのグーか、チョキの子は座りましょう」と、どんどん絞ってゆき、最後まで残った三名の子がステージに上る。部長がタクトを握り、お手本と称し滅茶苦茶に振って見せる。出たらめなタクトに合わせ、打ち合わせ通り団員が演奏すると客席から笑い声が聞こえた。収容人数の大きなホールであるので緊張していた三名の子も、笑顔でタクトを順番に握り、後半の部が始まった。
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