15 / 96
II Con amore è per te
015 蒼天
しおりを挟む
一五 蒼天
冷たい雨の降る日だった。
高志の不在という致命打を受けたわたしは心身ともに動きも鈍り、一日のほとんどを自宅で過ごす日々を送っていた。電話が鳴り、ゼミの教官であると画面は告げた。どうせつまらない用事だろうと思いながら電話に出る。
スマホを置いたわたしはどうにか取り繕えるだけの服を着て、家を出る準備をする。明け方に飲んだアルコールのにおいが抜けていないかもしれないし、そうでもないかもしれない。いずれにせよ、今のわたしには大した意味もない。だれが死んでいるも同然の人間を咎めようと、森の中の一枚の葉が落ちたか落ちていないかで議論するようなものだ。ブーツを履き、雨の中を歩く。工学棟の研究室へ緩慢な歩調で向かう。いま時が終わればいいのにね、とビニール傘越しに見上げた空に頬笑む。止まる必要はない、終わればいいだけ。ドアをノックし、応接室へ入る。「朝野さん」
「高橋先生」椅子を勧められ、バッグを抱えたままのろのろとかける。
「雨の中ありがとうね、寒かったでしょ」と教授はいい、暖房の設定温度を操作しにゆく。「本音をいうと心配だからっていうより、もったいなかったの。それもかなり。朝野さんのような優秀な子の将来を潰したくないんだ。これは私の義務みたいなものだから、ね」
教授は電気ポットの湯をカップに注ぐ。「最近はどうやって過ごしてるの? 正直、うつ状態みたいな感じ?」
その教官が淹れたコーヒーからは香りが立ちのぼっている。でも、香りがするだけで心地よいとか、おいしそうだとか、そのような情動はまったくなかった。
「わかってます、精神科に行けっていうんでしょ。自分のことは、把握できてます」
コーヒーを勧めたうえで「なんていうか、朝野さんまで引きずり込まれてもよくないかなと思ったんだよね。例の転籍の件も前向きに考えてほしいし。第一、朝野さん自身がしんどいでしょ?」と諭す。
「わたし、平松がいなくなって、精神科通いになって、それで仮に楽に生きたとして、でもそこにはなにもないんです。もう取り返しがつかないのに、ただただ義務として生きるだけ人生なんか――終身刑です」
教授はコーヒーに口をつける(考える時間を引き延ばすように見えた)。「でもほら、最近はSSRIやSNRIより新しい世代の抗うつ薬とか、いい薬があるじゃない。楽するのを奨めてるわけじゃないわ。積極的に苦しむのもよくないってことよ。極度に落ち込むのって、あまり得策じゃないから。事実は事実として理解してるようだし、今度は朝野さんが自分のことを考えなきゃ」淹れたばかりのコーヒーは応接テーブルで湯気を上らせ(ながらも確実に冷め)ている。
「――すか」
「うん?」
聞き取れずに教授は訊き返す。
「平松は、わたしに悲しまれちゃ迷惑なんですか(雨はすでに上がり、日差しが研究室に影をつくっている)」
「(かぶりを振る)――わかったわ。後期試験、出ないの?(あいまいにうなずく)じゃあ自動的に留年となるけど、手続きはこっちでしていいの? とにかく学籍だけでも確保しなさいよ。次、講義?(わたしは緩慢に首を振る)わかった、大いにわかった。せめて日常生活が破綻しないようにね。あと、お酒も控えた方がいいわ」
研究室を辞し、晴れ上がった空を見上げる。
冷たい雨の降る日だった。
高志の不在という致命打を受けたわたしは心身ともに動きも鈍り、一日のほとんどを自宅で過ごす日々を送っていた。電話が鳴り、ゼミの教官であると画面は告げた。どうせつまらない用事だろうと思いながら電話に出る。
スマホを置いたわたしはどうにか取り繕えるだけの服を着て、家を出る準備をする。明け方に飲んだアルコールのにおいが抜けていないかもしれないし、そうでもないかもしれない。いずれにせよ、今のわたしには大した意味もない。だれが死んでいるも同然の人間を咎めようと、森の中の一枚の葉が落ちたか落ちていないかで議論するようなものだ。ブーツを履き、雨の中を歩く。工学棟の研究室へ緩慢な歩調で向かう。いま時が終わればいいのにね、とビニール傘越しに見上げた空に頬笑む。止まる必要はない、終わればいいだけ。ドアをノックし、応接室へ入る。「朝野さん」
「高橋先生」椅子を勧められ、バッグを抱えたままのろのろとかける。
「雨の中ありがとうね、寒かったでしょ」と教授はいい、暖房の設定温度を操作しにゆく。「本音をいうと心配だからっていうより、もったいなかったの。それもかなり。朝野さんのような優秀な子の将来を潰したくないんだ。これは私の義務みたいなものだから、ね」
教授は電気ポットの湯をカップに注ぐ。「最近はどうやって過ごしてるの? 正直、うつ状態みたいな感じ?」
その教官が淹れたコーヒーからは香りが立ちのぼっている。でも、香りがするだけで心地よいとか、おいしそうだとか、そのような情動はまったくなかった。
「わかってます、精神科に行けっていうんでしょ。自分のことは、把握できてます」
コーヒーを勧めたうえで「なんていうか、朝野さんまで引きずり込まれてもよくないかなと思ったんだよね。例の転籍の件も前向きに考えてほしいし。第一、朝野さん自身がしんどいでしょ?」と諭す。
「わたし、平松がいなくなって、精神科通いになって、それで仮に楽に生きたとして、でもそこにはなにもないんです。もう取り返しがつかないのに、ただただ義務として生きるだけ人生なんか――終身刑です」
教授はコーヒーに口をつける(考える時間を引き延ばすように見えた)。「でもほら、最近はSSRIやSNRIより新しい世代の抗うつ薬とか、いい薬があるじゃない。楽するのを奨めてるわけじゃないわ。積極的に苦しむのもよくないってことよ。極度に落ち込むのって、あまり得策じゃないから。事実は事実として理解してるようだし、今度は朝野さんが自分のことを考えなきゃ」淹れたばかりのコーヒーは応接テーブルで湯気を上らせ(ながらも確実に冷め)ている。
「――すか」
「うん?」
聞き取れずに教授は訊き返す。
「平松は、わたしに悲しまれちゃ迷惑なんですか(雨はすでに上がり、日差しが研究室に影をつくっている)」
「(かぶりを振る)――わかったわ。後期試験、出ないの?(あいまいにうなずく)じゃあ自動的に留年となるけど、手続きはこっちでしていいの? とにかく学籍だけでも確保しなさいよ。次、講義?(わたしは緩慢に首を振る)わかった、大いにわかった。せめて日常生活が破綻しないようにね。あと、お酒も控えた方がいいわ」
研究室を辞し、晴れ上がった空を見上げる。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる