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一章
14. 知らされたまさかの真相
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12月中旬の火曜3限にあたる時間。
逢宮大学外国語学部准教授である鳴成秋史と彼のTAである月落渉は、正面の大きな窓が特徴的な建物の中にいた。
文系キャンパスの正門を通ると正面に見える10階建てのその建物は、『メイン館』という別名でも呼ばれている逢宮大学の第一校舎である。
この長方形の箱はキャンパス内で最も大きく、逢宮大学のシンボルだ。
大学設立当初から設置されている、文、経済、商、法学部が主に授業で使用している。
外国語学部の鳴成たちにはあまり縁のない場所であるが、この日は大学事務系職員を含めた打ち合わせのために第一校舎内の会議室に集まっていた。
各申請や連絡が時代と共に簡素化しオンラインでのやりとり優先となった現在、以前までは学部校舎ごとに散らばっていた事務系職員は一箇所に集約されている。
そのため、職員を含めての打ち合わせの際には第一校舎で行うことが、大学教職員内での暗黙の了解となっている。
「それでは、後期定期テストの内容をお配りします」
そう言いながら部屋に集まった面々にプリントを配る50代の女性は、外国語学部英語学科の学科長である。
鳴成と月落以外で円形のテーブルを囲むのは、1年生の必修英語を担当している教員、そして事務系の職員である許斐ヨリ子の八名である。
冬休み明けの来年1月後半に行われる、定期テストについての擦り合わせのために召集されていた。
「部数を人数分きっちりしか持ってこなかったの。ごめんなさいね、鳴成准教授のところは一緒に見てもらえる?」
「ええ、TAを伴う旨を事前にご連絡しなかったこちら側に落ち度はあります。どうぞ、お気になさらず」
さらりとそう言って、配られたプリントをほぼスルーで自分のTAへと手渡した鳴成は、脚を組みながら黒のオフィスチェアにゆったりと座っている。
受け取りながら月落は、少しだけばつの悪い顔で鳴成を睨んだ。
『だから言ったでしょう?』と口だけを動かして抗議する年下の青年に、眉毛だけを動かしてどこ吹く風の年上の男。
教員が集まる正式な場だ。
そこにただのTAである自分が突然参加するのは甚だ場違いだ、と辞退を申し出る月落に、ならば私も行きませんと耳を疑うような我儘で押し切った鳴成の意図が全く分からない。
普段はそんなことを言う人ではないのに、不思議だ。
意味を探ろうにも、それから口を閉ざしてしまった相手に対してはどんなアクションも暖簾に腕押しだった。
ともあれ、『行かない』という選択肢は月落にもないので、円を外れた鳴成の後方に寄り添うように座っている。
気まぐれで遊ばれたのだろうと半ば諦めて、月落はプリントに意識を集中させた。
「と言っても、内容は昨年大きく変更したので、そこからはあまり変えていません。選択問題が6割、記述問題が4割、事前に皆さんからヒアリングで指摘を貰っていた箇所については、追加および修正を行っています」
90分の試験時間で解くには中々のボリュームだという印象を月落は抱くが、逢宮の外国語学部に通う生徒の実力の高さはこの3か月で実感している。
さらに、鳴成の授業を受けているのであれば空欄で提出することなどないだろうという謎の確信で、月落は納得した。
ざっと読み進めていると、記述問題の最後に『今現在の気持ちを英語でどうぞ』という一文を見つけて、月落は小さな声でそっと呟いた。
「Feeling like a little uncomfortable because of my boss doing childish things.」
聞こえた鳴成だけが、下を向きながら口元を隠すようにしてくすくすと笑う。
「……I thought it would be boring without you.」
その想いははっきりした音にならずに、男の胸の中に染みこんで消えた。
「他に気になる点がないようであれば、後期の定期テストはこちらで最終決定とします。許斐さん、後でデータを送るので事務室での保管をお願いします」
名前を呼ばれた許斐ヨリ子は赤のうる艶リップで弧を描くと、優美な仕草でお辞儀をした。
「お任せくださいませ」
―――――――――――――――
3限の授業終了のチャイムと共に教室を出た文学部2年生の石橋みやびと柳原舞羽は、第一校舎の中央階段を使って1階へと降りる。
お腹が空いたからドーナツでも買おうか、と話しながらエントランスを通り過ぎようとしていると、そこに一際目立つ存在を見つけて思わず立ち止まった。
「え……ねぇ、舞羽。あれって外国語学部の鳴成先生じゃない?」
「どれ?……ほんとだぁ」
第一校舎は建物それ自体からは歴史を感じさせる趣があるが、内部はオールリノベーション済みだ。
白を基調とした明るい壁に、カラフルなテーブルや椅子などが各所に配置されている。
鳴成は窓際の黄色いソファのアーム部分に軽く腰掛け、凄い速さでスマホを操作していた。
学生でごった返すエントランスで気づかれないわけがないのだが、授業の間の移動時間が10分しかないせいで、立ち止まれずに鳴成を横目に見ながら走り去っていく学生も多い。
「相変わらずの容姿端麗だわ。てか、メインにいるの珍しくない?外国語学部ってここで講義しないよね?」
「だねぇ。この中で見るの初めてかも。私スーツフェチだから、あの格好大好きすぎる。なんで文学部にはああいう素敵な先生は一人もいなんだろうね?」
「文はおじさんばっかだからね、諦めよ。でもほら、うちらには誠吾モンがいるじゃん」
「キャラでしょそれは!誠吾モン、優しくて好きだけど!あれはキャラ枠!私が求めるのはそうじゃないのにぃ!」
次の時間に授業のない二人は完全に立ち止まり、稀有な存在の美人を離れた場所から鑑賞することに決めたらしい。
同じ部類の人間がちらほらと、つかず離れずの位置で観察している。
鳴成の周りだけ小さく閑散とした空間が出来上がっている状態だったが、そこに突如として突進する影がひとつ。
「待って、噂をすれば影なんだけど……誠吾モン来たわ」
「ほんとだぁ!しかも鳴成さん目がけて走って行ってない?」
「行ってる。え、まさか知り合い?」
「まさかぁ。接点なんてなくない?」
距離のある柳原・石橋ペアにも聞こえる大きな声で鳴成の名前を呼ぶのは、誠吾モン、もとい文学部准教授の烏丸誠吾。
黄色いソファへとゴールすると、走ったせいで乱れた呼吸を整える。
大きく上下する紫のアーガイルベスト。
額の汗は、ズボンのポケットから取り出したタオルハンカチで拭う。
鳴成は立ち上がり、スマホをスーツの胸ポケットへと仕舞った。
その顔には微笑みが浮かんでいる。
「え、え、え、知り合いだったー!!」
「みやびちゃん、声おっきい。叫んでるのは私たちだけじゃないけどさぁ」
そのまま親し気に話し始めた准教授同士の会話内容が非常に気になるところだが、あの空間に入って行ける猛者は残念ながらいないようで。
「なにあの光景……なんか、鳴成先生が謝ってる感じじゃない?」
「確かに。でも、鳴成さんが何かやらかすとは思えないよねぇ?謝るなら圧倒的に誠吾モンの方な気がするなぁ、キャラ的に」
「舞羽、誠吾モンに対して時々毒舌だよね」
「ていうかさ、鳴成さん、口元押さえて絶句しちゃったね?どうしたんだろうねぇ」
「しちゃってる。しかも耳が真っ赤じゃない?こっからでもめっちゃ分かるくらい真っ赤、燃えそう」
「可哀想なくらい真っ赤。でもちょっと可愛い」
「美人でしかも可愛いってのはズルいんだけど!あんなきっちりスーツ着て可愛いが似合うのは、もはやズルの極み!」
「しかも、なぜか誠吾モンがとんでもなく焦りだしたねぇ。どんどん謎な二人組と化していくね」
「新種の地獄絵図かなって感じだね。鳴成先生の顔面偏差値で、どうにか画が保ててるけど」
外野がやいのやいのと好き勝手感想を述べるなか、当事者のひとりは押し黙り、もうひとりはオロオロと慌てている。
『ごめんごめん、聞かなかったことにしてほしい』と必死に言い募る烏丸の声が聞こえるが、状況がいまいち分からない周りの人間は、頭の上にはてなマークを浮かべるしか出来ない。
午後の穏やかな校舎内で一種の緊迫ムード漂う現場。
しかしそこに、ひとりの救世主が颯爽と現れた。
白地にWのロゴが印刷された大きな紙袋を持って。
「うーわー!イケメンも登場したんだけど」
「あー、あの人、鳴成さんの新しいTAって噂の人だよねぇ。何だっけ、名前」
「月落さん。綺麗系にはどうも惹かれないって言ってたサークルの先輩を、一瞬で沼に落とした男」
「分かる。私は鳴成派だけど、あの見た目が嫌いな人はいないよねぇ」
「私は月落派」
「あ、ここにも堕ちてる人がいたぁ。みやび、身長高い人好きだもんねぇ」
「うん、正直めちゃくちゃ理想。あのがっつりした肩幅とか一生見てられる。でもお近づきになりたいとは決して思わない」
「それね。理想的すぎて逆に恐れ多いよねぇ。観賞用として崇め奉るだけでお腹いっぱい」
「うちの大学、私立で1位タイの偏差値だけど、あの二人がいるってだけで教職員の顔面偏差値も1位に爆上がりした気がする」
「キャラ部門でトップ独走の誠吾モンもいるしねぇ」
「色々突き抜けてる理工のハハ先生もいるし」
「多種多様で好きだわぁ、逢宮。むしろ学生のキャラ薄すぎ問題まであるよねぇ」
「とか言ってる間に、鳴成先生燃え尽きて廃人みたいになってない?あらら、顔押さえて項垂れちゃったわ」
「月落さん、鳴成先生の顔覗き込んでるけど、あんな漫画みたいな仕草する男子ほんとにいるんだぁ」
下を向いた鳴成の二の腕を持って支えながら心配そうにする月落と、身振り手振りで必死に何かを言い募る烏丸。
そして、二人に挟まれながら絶望する鳴成。
野次馬が三者の間で勝手な妄想の翼を広げていると、周囲を見回した月落が目の前の赤い耳元に何事かを囁く。
その持ち主は勢いよく顔を上げ、首を横に振った。
さらに発火する赤。
それを見た月落は、格好を崩して笑う。
「超絶爽やかだけど……何か、なんかちょっと、色男極まれり、みたいな笑顔じゃない?場数踏んでそうな感じ」
「分かるぅ!経験値で言うならSSSレベル」
「それね」
「あー、とか言ってる間に行っちゃうかぁ」
大量の汗をタオルハンカチで拭いている烏丸に、鳴成と月落はお辞儀をしながらその場を離れていく。
三つ揃えをきっちりと着こなす男性の手首を、綺麗めカジュアルに身を包んだ男性がそっと掴みながら連れて行くという、昼下がりに圧倒的に相応しくない光景を残して。
「結局何の話だったんだろうね」
「誠吾モンに訊いてみるぅ?」
「や、無理そうじゃない?尋常じゃない汗の量からして、うちらの質問に答える余裕なさそう」
「ハンカチ絞れそうだねぇ。脱水にならないようにお水差し入れしてあげよっか」
「誠吾モン日本酒好きだからそっちの方が良くない?」
「それはさすがに倫理問題」
第一校舎を抜け出て外国語学部教職員の研究棟に帰ってきた准教授は、電子ロックを開錠してドアを通るや否や、窓際に置かれているスモークチェアに突進し頭を抱えて座ったまま動かなくなってしまった。
烏丸から聞かされた話が相当ショックだったのだろうと想像できて、月落は同じ男として心情を察した。
そっと近づいて高さを合わせるように屈んだが、いつもなら優しく見つめ返してくれるヘーゼルの瞳は閉じられたままで。
「先生?」
「……………………」
返答もない。
「せんせい」
「……………………」
「返事してくださらないなら、またお姫様抱っこしますよ?」
「それは絶対に嫌です」
透明な肌の上、朱色の絵の具を刷毛で塗ったように染まる目尻。
口元は微妙に歪んでいる。
初めて見る、鳴成の拗ねたような仕草に無性にときめいてるなんて、この状況では口が裂けても言えない。
「嫌ですか?」
「あのね、私はもう40のおじさんですよ?」
「ええ、年齢はそうですね。おじさんでは全くないですが」
「それがまさか、お、お姫様……よ、横抱きにされたなんて、突然の出来事に目撃を余儀なくされた皆さんに申し訳ないでしょう?」
「あ、気にされてるところはそこなんですね」
「ええ……おじさんが酔い潰れて年下の青年に運ばれたこと自体がまず悲劇なのに、それを否応なく見せられたなんて状況は、ホラー小説にも今どき出てきませんから」
「おじさんでは全くないです、先生」
恥ずかしさももちろんあるだろうが、項垂れていた理由がまさか周囲を気遣ってのことだったと分かって、そのベクトルの予想外の向きに愛しさがこみ上げる。
ひとつ知るごとに、ひとつ好きだと思う。
ひとつ知るごとに、もっと知りたいと思う。
もっとそばにいて、もっと些細なことでも。
鳴成秋史という人間を構成する要素のひとつひとつを、実感して確かめたい。
上から下、隅から隅、底の底まで。
「そして、きみにもご迷惑をお掛けしました。肩を貸してもらったと思い込んでいたので詳しく聞かなかったんですが、重かったでしょう。私は細身の体型ではないので、持ち上げて身体を痛めたのでは?」
「僕の感想すべてをありのままお伝えすると、きっと先生は恐怖で逃げ去ってしまうだろうという確信があるので発言は控えますが、役得という言葉の意味を人生で一番感じた日でした」
「……役得?むしろ嫌な役回りで損しかしていないと思うんですが」
「そんなもの一切ありませんでした。重みがあまりにも好みで、手放した時の喪失感が凄まじくて腕が泣きました」
「え?」
吐露した本心の極一部は、早口のせいで鳴成の耳を右から左に通り抜けた。
「何でもありません。なので先生——」
そこで言葉を区切った月落は、話しながら段々と視線を合わせてくれるようになった鳴成へと顔を近づけた。
「これから先生を運ぶ役目は、僕だけにください。困った時に思い浮かべる一番最初の候補に、僕を置いてください」
真摯な眼差し。
真摯な気持ち。
真摯な願い。
ひたすらに真っ直ぐな想いが、心の表面で溶けて染みこんでいくような。
「きみだけ……?」
「先生を助けるのは僕だけ、守るのも僕だけです。必ずそばにいますから」
場面が違えばプロポーズにもなるであろう言葉を、臆面もなく発する。
決して軽くない響き、けれど、負担になるほどに神妙でもない絶妙な力の抜き加減。
それを受けて鳴成は、心に生まれた感情を吟味する間もなく反射で答えた。
「ええ、きみを頼りにします」
深い深い海底で生まれた水泡が浮かび上がって、ぷかりと水面に波紋を起こす。
それは真珠のように小さくて海の持ち主はまだ気づかないけれど、いずれ確かな衝動になる。
「ありがとうございます」
「月落くん、お礼を言うのは私だと思うんですが」
「僕の方が喜びが大きいので間違えてませんよ?」
「どういう理屈なの、それ」
「マイルールです。あ、そうだ。許斐さんにお見舞い第二弾を頂いたので、今から淹れますね」
月落は持っていた紙袋を鳴成に見せると、そのままセントラルキッチンへと出かけて行った。
「ウィッタード……アールグレイかな」
紅茶の色を思い出すとともに、今日はどんな菓子が皿に乗って登場するのかと想像する鳴成だった。
-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-
「上司が子供っぽいことをするせいで、若干居心地が悪い」
「きみがいなきゃ、つまらないから」
逢宮大学外国語学部准教授である鳴成秋史と彼のTAである月落渉は、正面の大きな窓が特徴的な建物の中にいた。
文系キャンパスの正門を通ると正面に見える10階建てのその建物は、『メイン館』という別名でも呼ばれている逢宮大学の第一校舎である。
この長方形の箱はキャンパス内で最も大きく、逢宮大学のシンボルだ。
大学設立当初から設置されている、文、経済、商、法学部が主に授業で使用している。
外国語学部の鳴成たちにはあまり縁のない場所であるが、この日は大学事務系職員を含めた打ち合わせのために第一校舎内の会議室に集まっていた。
各申請や連絡が時代と共に簡素化しオンラインでのやりとり優先となった現在、以前までは学部校舎ごとに散らばっていた事務系職員は一箇所に集約されている。
そのため、職員を含めての打ち合わせの際には第一校舎で行うことが、大学教職員内での暗黙の了解となっている。
「それでは、後期定期テストの内容をお配りします」
そう言いながら部屋に集まった面々にプリントを配る50代の女性は、外国語学部英語学科の学科長である。
鳴成と月落以外で円形のテーブルを囲むのは、1年生の必修英語を担当している教員、そして事務系の職員である許斐ヨリ子の八名である。
冬休み明けの来年1月後半に行われる、定期テストについての擦り合わせのために召集されていた。
「部数を人数分きっちりしか持ってこなかったの。ごめんなさいね、鳴成准教授のところは一緒に見てもらえる?」
「ええ、TAを伴う旨を事前にご連絡しなかったこちら側に落ち度はあります。どうぞ、お気になさらず」
さらりとそう言って、配られたプリントをほぼスルーで自分のTAへと手渡した鳴成は、脚を組みながら黒のオフィスチェアにゆったりと座っている。
受け取りながら月落は、少しだけばつの悪い顔で鳴成を睨んだ。
『だから言ったでしょう?』と口だけを動かして抗議する年下の青年に、眉毛だけを動かしてどこ吹く風の年上の男。
教員が集まる正式な場だ。
そこにただのTAである自分が突然参加するのは甚だ場違いだ、と辞退を申し出る月落に、ならば私も行きませんと耳を疑うような我儘で押し切った鳴成の意図が全く分からない。
普段はそんなことを言う人ではないのに、不思議だ。
意味を探ろうにも、それから口を閉ざしてしまった相手に対してはどんなアクションも暖簾に腕押しだった。
ともあれ、『行かない』という選択肢は月落にもないので、円を外れた鳴成の後方に寄り添うように座っている。
気まぐれで遊ばれたのだろうと半ば諦めて、月落はプリントに意識を集中させた。
「と言っても、内容は昨年大きく変更したので、そこからはあまり変えていません。選択問題が6割、記述問題が4割、事前に皆さんからヒアリングで指摘を貰っていた箇所については、追加および修正を行っています」
90分の試験時間で解くには中々のボリュームだという印象を月落は抱くが、逢宮の外国語学部に通う生徒の実力の高さはこの3か月で実感している。
さらに、鳴成の授業を受けているのであれば空欄で提出することなどないだろうという謎の確信で、月落は納得した。
ざっと読み進めていると、記述問題の最後に『今現在の気持ちを英語でどうぞ』という一文を見つけて、月落は小さな声でそっと呟いた。
「Feeling like a little uncomfortable because of my boss doing childish things.」
聞こえた鳴成だけが、下を向きながら口元を隠すようにしてくすくすと笑う。
「……I thought it would be boring without you.」
その想いははっきりした音にならずに、男の胸の中に染みこんで消えた。
「他に気になる点がないようであれば、後期の定期テストはこちらで最終決定とします。許斐さん、後でデータを送るので事務室での保管をお願いします」
名前を呼ばれた許斐ヨリ子は赤のうる艶リップで弧を描くと、優美な仕草でお辞儀をした。
「お任せくださいませ」
―――――――――――――――
3限の授業終了のチャイムと共に教室を出た文学部2年生の石橋みやびと柳原舞羽は、第一校舎の中央階段を使って1階へと降りる。
お腹が空いたからドーナツでも買おうか、と話しながらエントランスを通り過ぎようとしていると、そこに一際目立つ存在を見つけて思わず立ち止まった。
「え……ねぇ、舞羽。あれって外国語学部の鳴成先生じゃない?」
「どれ?……ほんとだぁ」
第一校舎は建物それ自体からは歴史を感じさせる趣があるが、内部はオールリノベーション済みだ。
白を基調とした明るい壁に、カラフルなテーブルや椅子などが各所に配置されている。
鳴成は窓際の黄色いソファのアーム部分に軽く腰掛け、凄い速さでスマホを操作していた。
学生でごった返すエントランスで気づかれないわけがないのだが、授業の間の移動時間が10分しかないせいで、立ち止まれずに鳴成を横目に見ながら走り去っていく学生も多い。
「相変わらずの容姿端麗だわ。てか、メインにいるの珍しくない?外国語学部ってここで講義しないよね?」
「だねぇ。この中で見るの初めてかも。私スーツフェチだから、あの格好大好きすぎる。なんで文学部にはああいう素敵な先生は一人もいなんだろうね?」
「文はおじさんばっかだからね、諦めよ。でもほら、うちらには誠吾モンがいるじゃん」
「キャラでしょそれは!誠吾モン、優しくて好きだけど!あれはキャラ枠!私が求めるのはそうじゃないのにぃ!」
次の時間に授業のない二人は完全に立ち止まり、稀有な存在の美人を離れた場所から鑑賞することに決めたらしい。
同じ部類の人間がちらほらと、つかず離れずの位置で観察している。
鳴成の周りだけ小さく閑散とした空間が出来上がっている状態だったが、そこに突如として突進する影がひとつ。
「待って、噂をすれば影なんだけど……誠吾モン来たわ」
「ほんとだぁ!しかも鳴成さん目がけて走って行ってない?」
「行ってる。え、まさか知り合い?」
「まさかぁ。接点なんてなくない?」
距離のある柳原・石橋ペアにも聞こえる大きな声で鳴成の名前を呼ぶのは、誠吾モン、もとい文学部准教授の烏丸誠吾。
黄色いソファへとゴールすると、走ったせいで乱れた呼吸を整える。
大きく上下する紫のアーガイルベスト。
額の汗は、ズボンのポケットから取り出したタオルハンカチで拭う。
鳴成は立ち上がり、スマホをスーツの胸ポケットへと仕舞った。
その顔には微笑みが浮かんでいる。
「え、え、え、知り合いだったー!!」
「みやびちゃん、声おっきい。叫んでるのは私たちだけじゃないけどさぁ」
そのまま親し気に話し始めた准教授同士の会話内容が非常に気になるところだが、あの空間に入って行ける猛者は残念ながらいないようで。
「なにあの光景……なんか、鳴成先生が謝ってる感じじゃない?」
「確かに。でも、鳴成さんが何かやらかすとは思えないよねぇ?謝るなら圧倒的に誠吾モンの方な気がするなぁ、キャラ的に」
「舞羽、誠吾モンに対して時々毒舌だよね」
「ていうかさ、鳴成さん、口元押さえて絶句しちゃったね?どうしたんだろうねぇ」
「しちゃってる。しかも耳が真っ赤じゃない?こっからでもめっちゃ分かるくらい真っ赤、燃えそう」
「可哀想なくらい真っ赤。でもちょっと可愛い」
「美人でしかも可愛いってのはズルいんだけど!あんなきっちりスーツ着て可愛いが似合うのは、もはやズルの極み!」
「しかも、なぜか誠吾モンがとんでもなく焦りだしたねぇ。どんどん謎な二人組と化していくね」
「新種の地獄絵図かなって感じだね。鳴成先生の顔面偏差値で、どうにか画が保ててるけど」
外野がやいのやいのと好き勝手感想を述べるなか、当事者のひとりは押し黙り、もうひとりはオロオロと慌てている。
『ごめんごめん、聞かなかったことにしてほしい』と必死に言い募る烏丸の声が聞こえるが、状況がいまいち分からない周りの人間は、頭の上にはてなマークを浮かべるしか出来ない。
午後の穏やかな校舎内で一種の緊迫ムード漂う現場。
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白地にWのロゴが印刷された大きな紙袋を持って。
「うーわー!イケメンも登場したんだけど」
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「月落さん。綺麗系にはどうも惹かれないって言ってたサークルの先輩を、一瞬で沼に落とした男」
「分かる。私は鳴成派だけど、あの見た目が嫌いな人はいないよねぇ」
「私は月落派」
「あ、ここにも堕ちてる人がいたぁ。みやび、身長高い人好きだもんねぇ」
「うん、正直めちゃくちゃ理想。あのがっつりした肩幅とか一生見てられる。でもお近づきになりたいとは決して思わない」
「それね。理想的すぎて逆に恐れ多いよねぇ。観賞用として崇め奉るだけでお腹いっぱい」
「うちの大学、私立で1位タイの偏差値だけど、あの二人がいるってだけで教職員の顔面偏差値も1位に爆上がりした気がする」
「キャラ部門でトップ独走の誠吾モンもいるしねぇ」
「色々突き抜けてる理工のハハ先生もいるし」
「多種多様で好きだわぁ、逢宮。むしろ学生のキャラ薄すぎ問題まであるよねぇ」
「とか言ってる間に、鳴成先生燃え尽きて廃人みたいになってない?あらら、顔押さえて項垂れちゃったわ」
「月落さん、鳴成先生の顔覗き込んでるけど、あんな漫画みたいな仕草する男子ほんとにいるんだぁ」
下を向いた鳴成の二の腕を持って支えながら心配そうにする月落と、身振り手振りで必死に何かを言い募る烏丸。
そして、二人に挟まれながら絶望する鳴成。
野次馬が三者の間で勝手な妄想の翼を広げていると、周囲を見回した月落が目の前の赤い耳元に何事かを囁く。
その持ち主は勢いよく顔を上げ、首を横に振った。
さらに発火する赤。
それを見た月落は、格好を崩して笑う。
「超絶爽やかだけど……何か、なんかちょっと、色男極まれり、みたいな笑顔じゃない?場数踏んでそうな感じ」
「分かるぅ!経験値で言うならSSSレベル」
「それね」
「あー、とか言ってる間に行っちゃうかぁ」
大量の汗をタオルハンカチで拭いている烏丸に、鳴成と月落はお辞儀をしながらその場を離れていく。
三つ揃えをきっちりと着こなす男性の手首を、綺麗めカジュアルに身を包んだ男性がそっと掴みながら連れて行くという、昼下がりに圧倒的に相応しくない光景を残して。
「結局何の話だったんだろうね」
「誠吾モンに訊いてみるぅ?」
「や、無理そうじゃない?尋常じゃない汗の量からして、うちらの質問に答える余裕なさそう」
「ハンカチ絞れそうだねぇ。脱水にならないようにお水差し入れしてあげよっか」
「誠吾モン日本酒好きだからそっちの方が良くない?」
「それはさすがに倫理問題」
第一校舎を抜け出て外国語学部教職員の研究棟に帰ってきた准教授は、電子ロックを開錠してドアを通るや否や、窓際に置かれているスモークチェアに突進し頭を抱えて座ったまま動かなくなってしまった。
烏丸から聞かされた話が相当ショックだったのだろうと想像できて、月落は同じ男として心情を察した。
そっと近づいて高さを合わせるように屈んだが、いつもなら優しく見つめ返してくれるヘーゼルの瞳は閉じられたままで。
「先生?」
「……………………」
返答もない。
「せんせい」
「……………………」
「返事してくださらないなら、またお姫様抱っこしますよ?」
「それは絶対に嫌です」
透明な肌の上、朱色の絵の具を刷毛で塗ったように染まる目尻。
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「嫌ですか?」
「あのね、私はもう40のおじさんですよ?」
「ええ、年齢はそうですね。おじさんでは全くないですが」
「それがまさか、お、お姫様……よ、横抱きにされたなんて、突然の出来事に目撃を余儀なくされた皆さんに申し訳ないでしょう?」
「あ、気にされてるところはそこなんですね」
「ええ……おじさんが酔い潰れて年下の青年に運ばれたこと自体がまず悲劇なのに、それを否応なく見せられたなんて状況は、ホラー小説にも今どき出てきませんから」
「おじさんでは全くないです、先生」
恥ずかしさももちろんあるだろうが、項垂れていた理由がまさか周囲を気遣ってのことだったと分かって、そのベクトルの予想外の向きに愛しさがこみ上げる。
ひとつ知るごとに、ひとつ好きだと思う。
ひとつ知るごとに、もっと知りたいと思う。
もっとそばにいて、もっと些細なことでも。
鳴成秋史という人間を構成する要素のひとつひとつを、実感して確かめたい。
上から下、隅から隅、底の底まで。
「そして、きみにもご迷惑をお掛けしました。肩を貸してもらったと思い込んでいたので詳しく聞かなかったんですが、重かったでしょう。私は細身の体型ではないので、持ち上げて身体を痛めたのでは?」
「僕の感想すべてをありのままお伝えすると、きっと先生は恐怖で逃げ去ってしまうだろうという確信があるので発言は控えますが、役得という言葉の意味を人生で一番感じた日でした」
「……役得?むしろ嫌な役回りで損しかしていないと思うんですが」
「そんなもの一切ありませんでした。重みがあまりにも好みで、手放した時の喪失感が凄まじくて腕が泣きました」
「え?」
吐露した本心の極一部は、早口のせいで鳴成の耳を右から左に通り抜けた。
「何でもありません。なので先生——」
そこで言葉を区切った月落は、話しながら段々と視線を合わせてくれるようになった鳴成へと顔を近づけた。
「これから先生を運ぶ役目は、僕だけにください。困った時に思い浮かべる一番最初の候補に、僕を置いてください」
真摯な眼差し。
真摯な気持ち。
真摯な願い。
ひたすらに真っ直ぐな想いが、心の表面で溶けて染みこんでいくような。
「きみだけ……?」
「先生を助けるのは僕だけ、守るのも僕だけです。必ずそばにいますから」
場面が違えばプロポーズにもなるであろう言葉を、臆面もなく発する。
決して軽くない響き、けれど、負担になるほどに神妙でもない絶妙な力の抜き加減。
それを受けて鳴成は、心に生まれた感情を吟味する間もなく反射で答えた。
「ええ、きみを頼りにします」
深い深い海底で生まれた水泡が浮かび上がって、ぷかりと水面に波紋を起こす。
それは真珠のように小さくて海の持ち主はまだ気づかないけれど、いずれ確かな衝動になる。
「ありがとうございます」
「月落くん、お礼を言うのは私だと思うんですが」
「僕の方が喜びが大きいので間違えてませんよ?」
「どういう理屈なの、それ」
「マイルールです。あ、そうだ。許斐さんにお見舞い第二弾を頂いたので、今から淹れますね」
月落は持っていた紙袋を鳴成に見せると、そのままセントラルキッチンへと出かけて行った。
「ウィッタード……アールグレイかな」
紅茶の色を思い出すとともに、今日はどんな菓子が皿に乗って登場するのかと想像する鳴成だった。
-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-.-
「上司が子供っぽいことをするせいで、若干居心地が悪い」
「きみがいなきゃ、つまらないから」
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幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
【完結】君を上手に振る方法
社菘
BL
「んー、じゃあ俺と付き合う?」
「………はいっ?」
ひょんなことから、入学して早々距離感バグな見知らぬ先輩にそう言われた。
スクールカーストの上位というより、もはや王座にいるような学園のアイドルは『告白を断る理由が面倒だから、付き合っている人がほしい』のだそう。
お互いに利害が一致していたので、付き合ってみたのだが――
「……だめだ。僕、先輩のことを本気で……」
偽物の恋人から始まった不思議な関係。
デートはしたことないのに、キスだけが上手くなる。
この関係って、一体なに?
「……宇佐美くん。俺のこと、上手に振ってね」
年下うさぎ顔純粋男子(高1)×精神的優位美人男子(高3)の甘酸っぱくじれったい、少しだけ切ない恋の話。
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あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
十二年付き合った彼氏を人気清純派アイドルに盗られて絶望してたら、幼馴染のポンコツ御曹司に溺愛されたので、奴らを見返してやりたいと思います
塔原 槇
BL
会社員、兎山俊太郎(とやま しゅんたろう)はある日、「やっぱり女の子が好きだわ」と言われ別れを切り出される。彼氏の売れないバンドマン、熊井雄介(くまい ゆうすけ)は人気上昇中の清純派アイドル、桃澤久留美(ももざわ くるみ)と付き合うのだと言う。ショックの中で俊太郎が出社すると、幼馴染の有栖川麗音(ありすがわ れおん)が中途採用で入社してきて……?
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話を倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
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