鳴成准教授は新しいアシスタントを採用しました。実は甘やかし尽くし攻めの御曹司でした。

卯藤ローレン

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一章

13. 朝ご飯と蘇る記憶

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 月落渉が漂っていた浅い夢の波間から浮上したのは、耳に見知らぬメロディが微かに聞こえてきた時だった。
 手を伸ばしてローテーブルの上を探る。
 手にしたスマホの画面を確認すると、時刻表示は6時20分。

 ソファから起き上がって見た部屋の中は、蒼白い光にほんのりと包まれている。
 ぐぐぐ、と長い腕を広げて伸びをすると、目覚め始めた頭が重要なことを思い出した。

「……あ、先生」

 先ほどの音の正体が自分のスマホのアラームではないことは確認済みなので、その所有者はロフトで眠る人のものだろう。
 昨夜その人が寝落ちた後で脱がせたジャケットから出てきたスマホを、ベッドサイドのナイトテーブルの上に置いておいたのだ。
 ダークグレーのジップアップパーカーを羽織りながら急いで階段を上がる。
 そこには普段の様子とはかけ離れた、鳴成秋史の姿があった。

「先生、おはようございます」
「あ、月落くん……え、どうしてここに?というより、ここはどこでしょうか……」

 見知らぬ部屋で目を覚まし状況も飲み込めぬまま、下から迫り上がってくる足音が聞こえれば怖いと思うのは当然だ。
 少し怯えた様子でこちらを窺っていた鳴成が、自分の姿を認めてすぐに明らかにほっとしたのを見て、配慮が足りなかったと月落は反省した。
 下で一度、声を掛ければ良かった。

「驚かせてしまいましたね、すみません。ここは僕の家なので安心してください」

 出来る限り優しい声音でそう言うと、月落はベッドへと近づいた。
 鳴成の足元の辺りにそっと座る。
 寝乱れた色素の薄い髪が幼く見えて、それを梳いて整えたくなるが、ぐっと我慢する。

「きみの家ですか?確か私は昨日、鱧谷先生たちと忘年会をしていたはずなんですが……」

 どうやら酔うと記憶を失くすタイプらしい。
 昨日も同じ会話をしたことを思い出して、自然と月落の頬が上がる。
 それを不思議そうに眺める鳴成に、さらに微笑むのをやめられない。

「先生が酔って寝てしまったので迎えに来てほしい、と鱧谷先生から連絡を頂きまして。ご住所が分からなかったので、ここに一晩泊っていただきました」
「え、酔ったんですか?私が?」
「烏丸先生が飲んでいらした日本酒を間違って飲んでしまわれた、とかで」
「間違って飲んだ……」
「水と日本酒のグラスを取り間違えたようです。グラスの形が同じで気が付かなかったらしい、と仰ってました」
「………………あぁ」

 しばらくの思案後、絶望したように額に手を当てて鳴成が項垂れる。
 いつも美しい絵画のような人の、人間味あふれる姿が珍しくて、だからこそより一層余計に可愛い。
 月落は脳の記憶装置をフル稼働して、その様子を4Kの4Dで保存した。

「それは多大なるご迷惑をお掛けしました。申し訳ない」
「いえ、迷惑なんていうことは一切ありませんでした。酔ってしまわれてから後の記憶は、全くありませんか?」

 その問いに数秒考えこんで、鳴成はしゅんと肩を落として首を横に振った。

「重ね重ね申し訳ない。もしやきみに対してひどい暴言を浴びせたり、散々な振る舞いをしたでしょうか?それとも訳の分からない言語を喋ったりしましたか?」
「いいえ、全然。でも、そんなことを訊くってことは、そういう経験があるんですか?」

 暴言を吐く鳴成なんて、どんなに想像力を働かせても思い浮かばない。
 聞いてみたい気がすると告げれば、苦い顔をされるだろうか。
 ギャップにやられて、むしろこっちが予期せぬ深手を負う可能性の方が高そうだけれど。

「日本に帰国して間もない頃、イギリスから遊びにきた友人と初めて日本酒を飲んだんです。それで見事に酔ってしまって。日本語の堪能な友人なんですが、何を言っているのかひとつも理解できなかったと言われました。その時から、もしかして私は酔うと日本語に似た全く別の言語を喋るのでは、と疑念に思っているんです」
「昨夜はちゃんと日本語でした。でも、昨日の様子から鑑みるに、泥酔レベルまで行くともしかしたらとても幼い喋り方になるのかもしれません」
「幼い、ですか?」
「はい。昨日も一人称が、『私』から『僕』に変わってましたし。言葉の端々に、こう、子供っぽさが滲み出てるような気がしました」
「そうなんですね……幼児語を喋るおじさんというのはさすがに警察案件なので、今後気をつけるようにします」

 眉間に皺を寄せてそう決意するのが可笑しいけれど、本人は至って真剣そうなので月落は必死に吹き出すのを耐える。
 幼児語を喋る鳴成ならば是が非でも見てみたいという、欲望丸出し甚だしい願いは胸の底に沈めておこう。

「さて、先生」
「はい」
「朝ご飯を準備しようと思うんですが、一緒にどうですか?」

 時刻は7時少し前。
 手早く用意すれば、長針が6を指す頃には出来上がるだろう。

「きみは料理も出来るんですね」
「一人暮らし歴が長くて必要に駆られて仕方なくなので、凝ったものは作れませんけど。先生は料理、されますか?」
「フライパンで焼いて調味料で味付けするとか、食材を重ねてオーブンに入れるくらいなら」
「今まで聞いたことなかったですが、休みの日の食事はどうされてるんですか?」
「食事だけお手伝いさんにお願いしています。簡単な自炊やその方の作り置きが主で、実家に呼ばれてご相伴にあずかることも多いです。ごくたまに外食もします」
「作り置きだと、和食中心ですか?」
「よく分かりましたね」
「じゃあ、今日の朝ご飯はアメリカのダイナー風にしましょう……先生は朝からベーコンとか食べられますか?」
「ええ、好きです」
「承知しました。出来上がるまで、顔洗って歯磨きしてください。あ、それとも、シャワー使いますか?」
「さすがにそこまでお世話にはなれません。洗面台だけお借りできれば」
「ご案内します。最近、幼馴染がよく来るせいでお泊りセットは在庫に余裕があるので、いっぱい使ってください」
「ありがとうございます」

 二人して立ち上がると、肩を並べて階段を下りた。




―――――――――――――――




 広めのキッチンカウンターをダイニングテーブルとして使用しながら、艶なしブラックのハイスツールに座って隣同士で朝食を食べる。

 ゴールドの縁取りがされた白いボーンチャイナの皿にはサラダ、チーズ入りのオムレツ、カリカリベーコン、ハッシュドポテト。
 もうひとつの一回り小さい皿の上には、トーストした分厚いパン。
 両者の間にはバターの容器とメープルシロップの瓶、水の入ったグラスとカフェオレで満たされたマグカップが2つずつ置かれている。

 鳴成が家に泊まりにくる未来が、まさかこんなに早く訪れようとは予想もしていなかった。
 そのため紅茶のストックを切らしていて、月落はコーヒーかカフェオレを提案した。
 採用されたのは後者だった。
 カフェオレも好きだという呟きが鳴成から落とされたので、今後は研究室に美味しいドリップコーヒーも置いておこうと、月落は秘かに心に決めた。

「美味しいです。カリカリのベーコンを食べるとアメリカの風に吹かれる気がします」
「イギリスのはここまで焼かないって聞いたことがあります」
「ええ、揚げ焼きっぽくするのはアメリカンスタイルですね」
「イギリスの朝食と言えば、ベイクドビーンズですか?」
「よく知ってますね。ワンプレートの見た目はアメリカのと然程変わらないですが、イングリッシュブレックファストには必ずビーンズが乗っていて、むしろそれが主役の時もあります」
「アメリカでイギリス出身の奴とダイナーに行った時に、皿の上にビーンズが乗ってないって驚愕してたのが印象的で憶えてました。先生、もし物足りないようなら、今からでも買ってきましょうか?」
「あはは、結構です」

 冗談を言って笑い合う。
 カーテンを開けた大きな窓から射し込む朝の光も、隣に想いを寄せる人がいるだけでキラキラと輝きを増したように感じられるから不思議だ。
 一日の始まりがこんなにも素敵で穏やかで優しかったのは、本当に久しぶりだ。
 記憶に深く刻まれて、きっと忘れるなんて出来やしない。

 特別で格別。
 あたたかな安らぎに満ちた空気に包まれて、この人と永遠に話をしていられたら。
 メープルシロップのかかったパンを美味しそうに咀嚼する鳴成を眺めながら、月落の心にはそんな祈りにも似た感情が芽生える。

 それはまるで、大切に育てている花の蕾が、開く時を心待ちにするかのように。
 両腕で囲って、大事に大事にしたい。

「そういえば先生って、休みの日でも6時20分に起きるんですね?確か、授業のある日もそうですよね?」
「ええ。大学で働くようになってからは、休日も出勤日と同じ時間に起きるようにしたんです。その方が生活リズムを整えやすくなったので。どちらかというと朝型人間だったんですが、年齢を重ねるごとに早起きが全く苦ではなくなりましたし」
「さっき見て思いましたけど、先生は朝起きた瞬間から講義ができそうなくらいしっかりしてましたし、朝型なのは頷けます」
「そうですね、そんなに崩れる方ではないと思います。ただ、家族から言わせると、気を抜くと少しぽやぽやするようですが」
「ぽやぽや……?」
「きみはショートスリーパーだと言っていましたが、夜にも朝にも強いんですか?」
「睡眠時間が5時間の生活が続いても、壊れずにやって行けるかなと思います。最近はもう少し多めに寝るようにしてますけど」
「もしかして、行動時間が長いせいで食事の消化が早いのかな?」

 自分の皿の軽く3倍の量は盛っていた月落の皿の上。
 その面影がすっかり消え去ろうとしているのに感心しながら、鳴成はそっと零す。

「朝から大食い男子ですね。きみらしくて、とても良いです」
「ありがとうございます。お褒めのお言葉を額縁に入れて、部屋に飾りますね」
「やめなさい」

 楽しく会話しながら綺麗に食べ終えた。
 ご馳走になったのだからせめて皿洗いはさせてほしいという鳴成の申し出を、食洗機という強い味方の存在を盾に月落はきっぱりと断った。
 美味しく食べてもらえたのだから、それだけで料理を作った見返りとしては十分だ。
 もう少し一緒にいたい気持ちは大いにあるが、時間を徒に長引かせるのは相手のためにならない。
 他人の家はいまいち寛げず疲れるものだし、なにより鳴成にはこの家について良いイメージだけを抱いてほしい。

「先生、そろそろお帰りになりますか?」
「はい、長居はご迷惑でしょうから」
「その点に関しては全く。このまま2週間でも3週間でもいていただいても構わないくらいです」
「それはあまりにも長すぎて色々と準備が必要そうなので、また今度」
「今度……また来てくださいますか?」
「はい、きみが誘ってくれるなら」

 昨日の会話の再放送。
 酔っていてもいなくても同じ、寸分違わぬ受け答え。
 それは、鳴成の言葉は本心だけで構成されていることの証明となる。

 誠実で、明瞭で、透明だ。

「ご自宅までお送りします。食料の買い出しもあるので、ついでと思って気軽に乗ってください」
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
「先生のコートを持ってくるので、靴を履いててください」

 クローゼットとして使用している部屋から鳴成のコートを取ると、車のキーと財布、スマホだけを掴んで玄関へと急ぐ。
 受け取ったコートを着ずに腕に掛けただけの鳴成を見て、車の暖房は強めに設定しようと月落は思った。

 住んでいる場所の話をしながらマンションの駐車場にたどり着くと、サントリーニブラックにカスタマイズしたSUVの助手席のドアを開けて鳴成を誘い入れる。
 運転席に座る。
 この前と同様に、助手席のシートベルトを締めるため月落が身を乗り出すと、両者の顔が至近距離で近づいた。

 見つめ合う、ヘーゼルと黒の瞳。

 その瞬間、鳴成の脳内には何処からともなく、昨夜の深淵に置き忘れた記憶が断片的に蘇ってきた。

 『黒とオレンジが溶け合った室内』
 『触りたい』
 『火の灯ったような眼差し』
 『キスができそう』
 『内側も外側も深く繋がりたいって言ったら、先生は応えてくれますか?』

 最後のものだけ月落の声ではっきりと再生されたことに驚いて、鳴成は息を飲んだ。

 それは、起きてすぐに忘れた夢の切れ端かもしれないし、自分の妄想かもしれない。
 真実かどうかも分からないけれど。
 その告白に潜む切実さと、真反対の淫靡さに、鳴成の背筋を電流が這い上がる。

 何度もリピート再生しては輪郭を濃くするさまざまな記憶に、鳴成の睫毛は震えて呼吸が微かに乱れる。
 ナビを操作している月落に気づかれていないようにと、窓の外へと顔を向けた。
 小さく深呼吸しながら、自分の意識を逸らしてくれる何かを見つけようとするけれど上手くいかない。

 まるで、忘れるなよと言うように。
 所在なく眺める景色の上、記憶のピースが勝手に嵌め込まれて、昨夜の画が完成されていくだけだった。



 海底に亀裂が入って熱水が噴出するように、凪いでいた心の海に抑えきれない何かが湧き出して止まらない。
 きっと、逃げられない。
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