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スピンオフ
extra9 フェノーメノ、笑う〈1〉
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ときどき、自分がとても静かな森の奥で途方に暮れているような気がする。
片倉凜奈はいまだにそんな寂しいイメージに捉われることがあった。時も場所も関係なく、不意に心が折り合いをつけたはずの過去に絡めとられそうになるのだ。たとえそこが騒がしい昼休みの教室だったとしても。
であればこそ、側にいてくれる友人の存在というものがどれほどありがたいか。
「どうしたの、リンちゃん」
向かいの席に腰かけている少女が心配そうに凜奈の顔を覗きこんでいた。
「んー、ぼうっとしてただけだから大丈夫だよ」
スミちゃん、と無理やり笑顔を作りながら凜奈は答える。
少し小柄な国枝菫との付き合いはもう結構な長さとなっていた。小学六年の二学期にこちらへと越してきた凜奈にとって最初にできた友達であり、クラスもまだ離れたことがない。彼女がいない日常というのは想像しづらいものがあった。菫との他愛ないおしゃべりの時間がもしも存在しなかったら、と考えただけでぞっとしてしまう。
二人が座る窓際の席に、夏の熱がまだ残った風が吹きこんでくる。「衣替えまでにはもうちょっと涼しくなっててほしいね」などと話しながら穏やかな時間を過ごしていた、そのとき。
「失礼します! 潮見波瑠さんはいらっしゃいますでしょうか!」
教室の扉を開ける音とともに大きな声が響き渡った。当然、教室中の視線は声の主である少女へと集まる。凜奈と菫も例外ではない。
「また来たのか」
うんざりといった調子で答えたのが、名前を呼ばれた当人である潮見波瑠。
最後尾の席で机に突っ伏していた彼女はゆらりと立ち上がった。クラスの女子のなかでは最も長身なのもさることながら、ここ最近の潮見にはどことなく剣呑な雰囲気があった。何かに苛立っているような、と言ってもいいかもしれない。
そんな光景を眺めながら菫が凜奈に「最近よく見かけるよね、あの人」と小声で話しかけてきた。訪れた少女の名前は凜奈も知っている。隣のクラスである真田礼乃。育ちの良さをうかがわせる言葉遣いも相まって、校内ではなかなかの有名人だった。
二学期が始まってからというもの、真田は毎日のように凜奈のクラスへとやってくる。お目当ては常に潮見だ。
内緒話なんて概念を持ち合わせていないだろう真田はいつだってはきはきと大きな声で話す。そのため、二人の会話は周囲にも筒抜けだった。
そして彼女らの話題はいつだってサッカーなのだ。
「どうでしょう、今日こそは色よい返事をいただきに来たのですが」
「やらん」
「そんなつれないことをおっしゃらずに」
「やらんと言ったらやらん」
さすがに一週間ほども同じ会話を耳にしていたら、凜奈にだってある程度の事情はわかってしまう。
学校に女子サッカー部を新設したい真田、その勧誘を撥ねつけている潮見。どうやら潮見は校外の強豪女子サッカークラブに所属していたらしい。していた、と過去形なのは彼女が夏にそのクラブを辞めているみたいだからだ。だが同じクラスであるという以外に潮見との接点がない凜奈には、そのあたりの詳しいいきさつはわからないままだった。
もはや見慣れた光景となってしまったためか、真田と潮見の押し問答が続いていてもクラスメイトたちはそれまでの会話や遊びへと戻っていく。
だが凜奈には彼女たちのやりとりが気になって仕方がない。再び菫と談笑しつつ、片方の耳は真田と潮見へと向けられたままだ。
そんな凜奈の様子に目ざとく気づいた者があった。
「なになにぃ、片倉ちゃんもサッカーしたいのぉ?」
無遠慮な、と言っていいほどに突然、そして馴れ馴れしく話しかけてきたのは潮見とよくつるんでいる御子柴しおりというクラスメイトだった。
菫の表情がわずかに曇る。彼女は凜奈の事情を知っているため、投げかけられたサッカーという単語に反応してしまったのだろう。
そんなことにはおかまいなく、手近な椅子を引いてきて御子柴が腰かけた。
「ま、潮見は意地っ張りだからねぇ。真田ちゃんがやろうとしていることにあたしは基本賛成なんだけどさぁ」
「それって女子サッカー部のこと?」
いくらか強張った口調で菫が訊ねる。
「そだよぉ」
「でも、中学校で女子サッカー部を作って人が集まるかな」
今度は凜奈が口を開いた。クラブならともかく、公立の中学校で女子サッカー部があるところなんて全国にどれほどもない。日本サッカー協会のホームページでなら女子のサッカーチームを簡単に検索することができるのだ。
「難しい、とは思うなぁ。けど真田ちゃんはかなり本気みたいだねぇ。クラブでやってた潮見やあたしに何度も声をかけてくるあたり」
言い終える一瞬、御子柴が潮見たちのほうへ鋭い視線を送った。
「えっと、御子柴さんも」
「しおりんでいいよぉ」
「……御子柴さんも、サッカーやってたんだ」
どのポジションだったの、と凜奈が聞けばとても可愛らしく御子柴が答える。
「あは、潰し役」
なるほど、この子なら相手の嫌がるいい仕事をしそうだ。なかなかに油断がならないタイプだと凜奈はみた。
「ちなみに潮見は見た目通りのストライカーでねぇ、もう力押し大好き」
あきれたように御子柴が潮見に言及するとすぐさま釘を刺す鋭い声が飛んでくる。
「余計なことしゃべってんじゃねえよ御子柴」
そして続けざまに真田へと捲くしたてた。
「ったく、誘うんならあいつを誘え。いかにも暇そうな顔してるだろうが」
だが御子柴はどこ吹く風だ。
「あたしぃ? あんたがやるんだったらあたしもやるって真田ちゃんには言ってるしぃ」
「やるわけねえだろバカ。サッカーなんて二度とやるかよ」
またも声を荒げる潮見だったが、凜奈には彼女の気持ちがわからないでもない。潮見を縛る鬱屈した思いが何であれ、ここまで頑なな態度をとらざるをえないのであればそれ相応の時間が必要だ。
しかし御子柴の見解は異なっていた。
「ま、あんなこと言ってても潮見はそのうちまたボールを蹴りだすからぁ。何かきっかけさえあれば、ね」
今度は潮見の耳まで届かないようなささやき声だった。
「どれだけゴール前を固められても『崩せない』って思ったこと、あたしはないしなぁ。開かない扉なんて世界のどこにも存在しないよぉ」
でしょ、と意味ありげな笑みを浮かべて。
片倉凜奈はいまだにそんな寂しいイメージに捉われることがあった。時も場所も関係なく、不意に心が折り合いをつけたはずの過去に絡めとられそうになるのだ。たとえそこが騒がしい昼休みの教室だったとしても。
であればこそ、側にいてくれる友人の存在というものがどれほどありがたいか。
「どうしたの、リンちゃん」
向かいの席に腰かけている少女が心配そうに凜奈の顔を覗きこんでいた。
「んー、ぼうっとしてただけだから大丈夫だよ」
スミちゃん、と無理やり笑顔を作りながら凜奈は答える。
少し小柄な国枝菫との付き合いはもう結構な長さとなっていた。小学六年の二学期にこちらへと越してきた凜奈にとって最初にできた友達であり、クラスもまだ離れたことがない。彼女がいない日常というのは想像しづらいものがあった。菫との他愛ないおしゃべりの時間がもしも存在しなかったら、と考えただけでぞっとしてしまう。
二人が座る窓際の席に、夏の熱がまだ残った風が吹きこんでくる。「衣替えまでにはもうちょっと涼しくなっててほしいね」などと話しながら穏やかな時間を過ごしていた、そのとき。
「失礼します! 潮見波瑠さんはいらっしゃいますでしょうか!」
教室の扉を開ける音とともに大きな声が響き渡った。当然、教室中の視線は声の主である少女へと集まる。凜奈と菫も例外ではない。
「また来たのか」
うんざりといった調子で答えたのが、名前を呼ばれた当人である潮見波瑠。
最後尾の席で机に突っ伏していた彼女はゆらりと立ち上がった。クラスの女子のなかでは最も長身なのもさることながら、ここ最近の潮見にはどことなく剣呑な雰囲気があった。何かに苛立っているような、と言ってもいいかもしれない。
そんな光景を眺めながら菫が凜奈に「最近よく見かけるよね、あの人」と小声で話しかけてきた。訪れた少女の名前は凜奈も知っている。隣のクラスである真田礼乃。育ちの良さをうかがわせる言葉遣いも相まって、校内ではなかなかの有名人だった。
二学期が始まってからというもの、真田は毎日のように凜奈のクラスへとやってくる。お目当ては常に潮見だ。
内緒話なんて概念を持ち合わせていないだろう真田はいつだってはきはきと大きな声で話す。そのため、二人の会話は周囲にも筒抜けだった。
そして彼女らの話題はいつだってサッカーなのだ。
「どうでしょう、今日こそは色よい返事をいただきに来たのですが」
「やらん」
「そんなつれないことをおっしゃらずに」
「やらんと言ったらやらん」
さすがに一週間ほども同じ会話を耳にしていたら、凜奈にだってある程度の事情はわかってしまう。
学校に女子サッカー部を新設したい真田、その勧誘を撥ねつけている潮見。どうやら潮見は校外の強豪女子サッカークラブに所属していたらしい。していた、と過去形なのは彼女が夏にそのクラブを辞めているみたいだからだ。だが同じクラスであるという以外に潮見との接点がない凜奈には、そのあたりの詳しいいきさつはわからないままだった。
もはや見慣れた光景となってしまったためか、真田と潮見の押し問答が続いていてもクラスメイトたちはそれまでの会話や遊びへと戻っていく。
だが凜奈には彼女たちのやりとりが気になって仕方がない。再び菫と談笑しつつ、片方の耳は真田と潮見へと向けられたままだ。
そんな凜奈の様子に目ざとく気づいた者があった。
「なになにぃ、片倉ちゃんもサッカーしたいのぉ?」
無遠慮な、と言っていいほどに突然、そして馴れ馴れしく話しかけてきたのは潮見とよくつるんでいる御子柴しおりというクラスメイトだった。
菫の表情がわずかに曇る。彼女は凜奈の事情を知っているため、投げかけられたサッカーという単語に反応してしまったのだろう。
そんなことにはおかまいなく、手近な椅子を引いてきて御子柴が腰かけた。
「ま、潮見は意地っ張りだからねぇ。真田ちゃんがやろうとしていることにあたしは基本賛成なんだけどさぁ」
「それって女子サッカー部のこと?」
いくらか強張った口調で菫が訊ねる。
「そだよぉ」
「でも、中学校で女子サッカー部を作って人が集まるかな」
今度は凜奈が口を開いた。クラブならともかく、公立の中学校で女子サッカー部があるところなんて全国にどれほどもない。日本サッカー協会のホームページでなら女子のサッカーチームを簡単に検索することができるのだ。
「難しい、とは思うなぁ。けど真田ちゃんはかなり本気みたいだねぇ。クラブでやってた潮見やあたしに何度も声をかけてくるあたり」
言い終える一瞬、御子柴が潮見たちのほうへ鋭い視線を送った。
「えっと、御子柴さんも」
「しおりんでいいよぉ」
「……御子柴さんも、サッカーやってたんだ」
どのポジションだったの、と凜奈が聞けばとても可愛らしく御子柴が答える。
「あは、潰し役」
なるほど、この子なら相手の嫌がるいい仕事をしそうだ。なかなかに油断がならないタイプだと凜奈はみた。
「ちなみに潮見は見た目通りのストライカーでねぇ、もう力押し大好き」
あきれたように御子柴が潮見に言及するとすぐさま釘を刺す鋭い声が飛んでくる。
「余計なことしゃべってんじゃねえよ御子柴」
そして続けざまに真田へと捲くしたてた。
「ったく、誘うんならあいつを誘え。いかにも暇そうな顔してるだろうが」
だが御子柴はどこ吹く風だ。
「あたしぃ? あんたがやるんだったらあたしもやるって真田ちゃんには言ってるしぃ」
「やるわけねえだろバカ。サッカーなんて二度とやるかよ」
またも声を荒げる潮見だったが、凜奈には彼女の気持ちがわからないでもない。潮見を縛る鬱屈した思いが何であれ、ここまで頑なな態度をとらざるをえないのであればそれ相応の時間が必要だ。
しかし御子柴の見解は異なっていた。
「ま、あんなこと言ってても潮見はそのうちまたボールを蹴りだすからぁ。何かきっかけさえあれば、ね」
今度は潮見の耳まで届かないようなささやき声だった。
「どれだけゴール前を固められても『崩せない』って思ったこと、あたしはないしなぁ。開かない扉なんて世界のどこにも存在しないよぉ」
でしょ、と意味ありげな笑みを浮かべて。
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