悩める子爵と無垢な花

トウリン

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逃げ出して

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 優雅に踊るルーカスとコンスタンス、そして華やかな色彩が溢れる広間から逃れたフィオナが向かったのは、仄かな月明かりに照らされた露台だった。広間の眩さ、きらびやかさは目に痛いほどだったから、その柔らかな月の輝きに心が慰められる。

 露台には他に人の姿はなく、できるだけ中の喧騒から遠ざかろうと、フィオナは端まで足を進める。そうして手すりに両手を置いて、そこに額を押し付けた。
 初秋の空気が露わな肌に深々と染み込んできたけれど、今の彼女にはその冷やかさがちょうどいい。その方が、ちゃんと頭が働いてくれるようになるだろうから。
 フィオナは、ギュッと目を閉じる。
 そうしていると再び脳裏に浮かんでくるのは、数多の男女が舞う中でひと際皆の目を引いていたルーカスの姿だ。そして、彼と笑い合うコンスタンスの輝くような美貌。
 皆から称賛を注がれていた、二人。
 きっと、フィオナが彼と踊る様は、姉とのそれの足元にも及ばなかったことだろう。

 ルーカスの腕の中にいた時、フィオナは、確かに、この上なく幸せだった。

 けれども。

「勘違いしちゃ、ダメ」
 フィオナはうつむいたまま自分に言い聞かせた。
 ルーカスがフィオナと踊ってくれたのは、義務感や親切心からだ。彼の方は、楽しんでいたわけではない。
「別に、わたくしと踊りたかったわけじゃ、ないの」
 苦い思いで、フィオナがそう呟いたときだった。

「おやおや、あなたのように麗しい女性がこんなところに一人でいてはいけないな。悪い狼にパクリと一飲みにされてしまう」
 しじまの中、不意に響いてきた男性の声に、フィオナはビクリと顔を上げる。
 息を呑んで振り返った彼女の目をまず引いたのは、月光の中で煌めく豪奢な金髪だ。乏しい灯りの下では、目の色は良く判らない。すらりと背が高く、多分、ルーカスと並んでも遜色ないだろう。年の頃は、彼よりもいくつか下かもしれない。
 華美ではないけれども上品な、身なりの良い青年だ。

「あ、の……?」
 戸惑うフィオナに、彼はスタスタと歩み寄ってくる。そして、フィオナから三歩ほどの距離を残して立ち止まった。
 月明かりと室内から届く明るさとで見えてきた顔は、先ほどフィオナに声をかけてきた人たちの中には、いなかったと思う。
 フィオナがいるのは露台の端だから、青年にその場所に立たれてしまうと一種閉じ込められたような形になってしまう。
 微かに身を強張らせた彼女をしばし見つめ、そして、彼が笑った。
 その笑顔は屈託がなく朗らかで、フィオナの緊張を和らげてくれる。ルーカスと同じくらい端正な目鼻立ちをしているけれども、たとえるならば、ルーカスは月、この男性は太陽だ。

「やあ、私はエミール・ラクロワ……と言っても、覚えていないか」
 特に残念がるふうもなく、彼はそう言った。
「申し訳ありません」
「別に謝らなくてもいい。あなたはトラントゥール男爵家のベアトリス嬢、だろう?」
「はい。でも……でも、今は、フィオナと呼ばれています」
 束の間口ごもり、フィオナは意を決してそう告げた。
 彼女のこれまでを知らない人には奇妙に聞こえるだろうことは重々承知だ。それでも、フィオナは自ら『ベアトリス』と名乗ることはしたくなかった。
「フィオナ?」
 エミールと名乗った青年は、幾度か口の中で彼女の名前を転がした。そして、にこりと笑う。
「ああ、確かに、その名前の方が似合う。可憐な花のようだ」
 彼はフィオナの台詞に眉をひそめることもなく、すんなりと頷いた。

「ありがとうございます」
 フィオナの顔には、自然と笑みが広がった。
 ケイティがつけてくれた大事なその名を褒めてくれたこと、そしてその名を受け入れてくれたことが、嬉しい。
 トラントゥール家の面々も抵抗なくフィオナを『フィオナ』と呼ぶけれど、それは彼女の改名を認めてくれたからというよりも、ただ単に、彼女の名などどうでもいいからというように感じられた。無関心ゆえの受容だ。
 けれど、今目の前に立つこの男性は、違う。
 彼はフィオナという人格を認め、『フィオナ』という名を彼女に似合うと言ってくれた。

 顔を輝かせたフィオナを、エミールはしげしげと見つめ、そして、また微笑む。
「あなたとは前に一度だけ踊ったことがあるんだ。トラントゥール家で開かれた姉上の誕生会でね。あなたはまだ社交界に出る年齢ではなかったから、その時だけ、だけどね」
 そう言って、彼は窺う眼差しをフィオナに注いてきたけれど、やはり記憶には残っていない。
「ごめんなさい……」
 肩を縮めて謝ると、エミールはかぶりを振った。
「いやいや、もう四年も前のことだし、病で昔のことは忘れてしまったと聞いている。身体は、もういいのかい?」
 彼の声からは、他の人の同じセリフからは伝わってこなかった真摯な気遣いが感じられた。そんな人に偽りを上塗りすることは難しい。

 母が振り撒いている四年間のフィオナの不在の理由――熱病による療養は、嘘だ。けれども本当のことなど言えず、さりとて偽りに平然と頷くこともできず、フィオナは口をつぐんだ。エミールはそんな彼女の様子を気にしたふうもなく続ける。
「あの頃もとても可愛らしかったけれど、今は麗しいという言葉の方が似合うな。でも、少しばかり輝きが翳っている。その理由を訊いてもいいかい?」
 軽い口調での、問いかけだった。でも、そこにからかいや興味半分、という響きはない。
 今日出会った他の男性たちのギラギラしたものと違って、エミールが身にまとう雰囲気はどこかルーカスを思い出させるものだったから、フィオナの警戒がゆるりと解ける。本当の理由は口にできないけれども、彼の前で少しばかりの弱音を吐くのは許されるような気がした。

「少し、ヒトに酔ってしまって……」
 ためらいがちに、フィオナは言った。
 これは、あながち嘘ではない。
 こんなに溢れんばかりの人の中に入ったのは、記憶に残る限り、フィオナには初めてのことだったから。
 入れ代わり立ち代わり誰かしらが声をかけてきて、動けば必ず誰かに触れてしまう――夕方のウィリスサイドの市場でさえ、こんなに人がひしめき合うことはなかった。

 フィオナの返事にほんの一瞬間を置いて、エミールがにこりと笑う。
「そうか。じゃあ、庭に出てみようか?」
「え?」
 唐突な申し出に、フィオナは目をしばたたかせた。
「ほら、灯りがともされているところがあるだろう?」
 エミールが数歩近づき、フィオナの横に並ぶ。そうして、彼女と目線を同じにして庭を指さした。確かに、その先にぼんやりと光を放つ場所がある。
「あそこは四阿《あずまや》になっているから、ゆっくりと休める。トラントゥールの方々はまだまだ帰りそうもないし、あそこに避難していたらどうかな? 私も一緒に行ってあげるから」
 間近で覗き込んでくるエミールの瞳は、鮮やかな緑色だった。ケイティとよく似た、明るく透き通った、緑色。
 彼の言う通り、あの場所までは屋内の喧騒は届かないだろうし、これほど宴もたけなわなのだから、あんなところにまで足を運ぶ者もいないだろう。
(でも……)
 フィオナは逡巡する。
 ルーカスは、彼から離れるな、彼の眼が届く場所にいろと、言っていた。すでに、その言いつけを破ってしまっているのに。

 フィオナは微笑みとともに彼女の返事を待つ青年を、見つめた。
 彼は悪いヒトではない――と思う。

 けれど。
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