DEEP NECROMANCY

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Case:4 魂魄を下ろす

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「使用済《プレイド》か…」
自ら美術商と名乗る依頼人から持ち込まれた死体を一目見るにジャックは小さくそう呟いた。
「…プ…プレイド?それは一体何の事かね?」
日|常の中では聞き慣れないその言葉に男は戸惑っていると、ジャックが話を続けた。
「使用済《プレイド》は死体のランクの分類の一つだ。一度、屍術師の手が入ったもので術式を全て取り除く手間と、挙動に前の術者の癖が出るので、大概の屍術師は敬遠する」
「懇切丁寧にどうも。しかし、私は屍術の専門的な知識を身に着けに来た訳ではない。ようは彼を生き返らせる事が出来るのか?出来ないのか?」
答えを返したにも拘らず、男の態度は横柄なものであった。その不愉快極まる立ち振る舞いにジャックは眉をひそめる。
「この私にかかれば術式を解いて、蘇生する事は不可能ではないが…」
「はっ、ははは…!そうこなくては…!!金ならここに用意してある。今直ぐこの男を蘇らせ…」
「貴方は一体、何を勘違いしているのか?この死体を置いて早々にお引き取り願おう」
「は…?」
「エリザベス、客人はお帰りになられるようだ。外へ案内してやってくれ」
「失礼、します―」
エリザベスが男の傍に立って軽く会釈をした後、その首根っこを引っ掴んで片手で軽々と持ち上げてみせた。
「ちょ、待っ…?放せっ!!貴様は希代の芸術家であるこの男を知らないのかッ!?私の依頼を断るのは、この国の芸術文化の衰退に加担する事になるのだぞーッ!!」
男はじたばたと藻掻きながら好き勝手な事を宣うのだがジャックは一切聞く耳を持たずに、彼がつまみ出されていった後、その場に残された遺体へと言葉を向けた。
「セドリック、だろう?芸術文化には疎いこの私でも、彼の事は良く知っているさ―」


………


ちょうど数カ月前の事になる。その依頼人は二人の案内人を連れて、昼過ぎに屍術師ジャックの棲家を訪れた。
「では、しばらく、お待ち下さい―」
従者であるエリザベスがいつもする様に客人達を奥の部屋へと通し、深々とお辞儀をして退室する。彼女が発する高く響くヒールの音が離れていった後、それと入れ替わる様にまた別の足音がゆっくりと近付いて来る。
そして、闇に沈む様な漆黒の外套を纏った一人の屍術師が依頼人の前へと姿を現した。
「あっ…貴方が、屍術師の…」
「如何にも。私が屍術師ジャックだ。悪戯に言葉を重ねる趣味は無い。早速本題に入ろう」
ジャックがソファに腰掛けると、間もなくエリザベスから二人分の紅茶が差し出された。
「私はラシェンと申します。このウィックエイユで美術商ギャラリストとして生計を立てている者です」
ラシェンと名乗ったその男、一瞥してみると齢は四十代の前半といった所だろうか。
「街には私が一画を取り仕切らせて貰っているギャラリーがありまして、近隣の住民達からも沢山の好評を頂いております。今度、屍術師様も付き人を連れていらっしゃいませんか?」
ジャックは彼の話に特に食いつく様子も無く、話半分に受け止めていたが、ラシェンは相手を引き込む様な生気に満ち溢れた声で話し続けた。
美術商がどういった仕事か事細かには知らないが、これくらいの調子でなくてはおそらく務まらないのだろう。
彼は程良い体格の上にしっかりとした生地の背広を着込んでおり、変に悪目立ちせず、かといって地味でもない身の丈に合った出で立ちをしていた。
気取りにも嫌味にも感じられない自然な立ち振る舞いを見るに、自ら称した美術商と言う身分にも嘘偽りは無さそうだ。
「遠路遥々この様な僻地へようこそ。しかし、一介の美術商が私の様な屍術師に一体何用か?」
「…屍術師様は高名な芸術家、セドリックを御存知でしょうか?」
こちらの疑問に対して、あちらから質問が返って来る。一度、記憶を辿ってみるのだがセドリックという人名に特に聞き憶えは無かった。
時折、街に出ているエリザベスならば、一度くらいは耳にした事があるだろうかと目配せをしてみたのだが、無言で首を横に振る彼女の姿が見えただけだ。
「すまないが、私は自身に興味の無い分野にはとことん疎い性質でね」
「こちらこそ大変失礼致しました。セドリックは当ギャラリーの、いや街で一番の画家でございます。彼が日の目を見ない駆け出しの頃から私がプロモートしてきたのです」
「芸術家は没後に評価を改められると聞くが、セドリックは故人という認識で宜しいのか?」
「滅相も無い!彼は今、人気絶頂の現存作家でございまして…ちょうど今から一週間後に個展を開く運びとなっております」
「成程。しかし、それでは…屍術師であるこの私にこうして依頼を出す意味が益々分からなくなってくるというものだ」
「屍術師様が戸惑うのはごもっともでございます…」
途端にラシェンの口調は先程までとは打って変わって、ペースを大きく落とした慎ましいものになった。そして彼はジャックに向かってゆっくりと言葉を下ろす。
「彼は…セドリックは、これから死に至るのです」


………


「バロン、御願い」
エリザベスに馬車の運転を任せて、自室に籠りきりだったジャックは、久方振りに街へ出た。
昏黒の森を抜けた先にあるウィックエイユは貿易によって発達した港街である。
ここでは多くの人や物が行き交う大きな流れが形成されており、異国から持ち込まれた様々な交易品が市場を賑わせている。
また、周辺の水域で獲れる水産資源にも恵まれており、港は漁港としての役割も果たしていた。
「折角街に下りたのだからな。こういった機会に新鮮な魚料理を味わっておかなくては」
「…美味しかった。ジャック、メインディッシュの、ソースの秘密を、知りたい」
「エリザベス、ああいったものは容易く解らないからこそ、自分達で再現する楽しみがあるというものだ」
決して安くはない料理店で昼食を済ませ、依頼人から指定された待ち合わせ場所に辿り着くとそこには既にラシェンの姿があった。
「ジャック様、本日は御足労頂き誠にありがとうございます」
「で、高名なる芸術家殿は一体どこにアトリエを構えているのか?」
「ここから歩いて直ぐの場所です。それでは、参りましょう」
ラシェンの案内を頼りに、ジャックとエリザベスの二人がそれに付いて歩く形。
「私は今でこそ別の場所に住居を構える身ですが、幼少の頃は良くこの通りを駆けたものです」
先頭を歩く彼が目の前の景色を懐かしみながら、後ろに続く二人に向けて思い出話をする。
「…そうか」
「セドリックとはその頃からの顔見知りでしてね。仕事場を移すように何度か薦めたのですが、これが中々に強情な男で。自分の生まれ育った場所から離れたくないと言うのですよ」
「…そう、か」
「彼の偏屈には私も長年手を焼いておりまして、私が右と言えば左。白と言えば黒といった調子で…屍術師様にはどうにかして彼を説得して頂きたいのです」
「…あ、ああ」
「ラシェン、セドリックの、アトリエは、まだ先?」
途切れることなく続いていたラシェンのトークにエリザベスが介入する。
これまで会話に参加する素振りを見せなかった彼女が、何故突然にと不思議に思ったラシェンが振り向くと、一人の屍術師がへたばっている姿が目に入った。
エリザベスは日傘を差して彼に寄り添う様に歩いていたのだが、今日の陽射しは思ったよりも強く、ジャックには耐え難いものであったようだ。
「これはいかん…!あとほんの少しですから!それまでは…それまではどうか気を確かに持って下さい屍術師様!」
ジャックはラシェンとエリザベスの肩を借りて、セドリックのアトリエに担ぎ込まれる様な形で辿り着いた。
「セドリック、私だ。居るのだろう?」
彼が手慣れた手つきでノックをしてドア越しの男に話し掛けると、戸がゆっくりと開いた。
「…今度はまた随分と顔色が悪いのを連れて来やがったな。医者の不養生ってのはこういう事を言うのか?」
搬入されたジャックを見るなり、彼はその様な言葉を向けた。
男の年齢はラシェンと同じくらいで、上背は180センチ近くあるが、がっしりとした体格のラシェンとは対照的に細身であった。
服装は白いシャツ一枚に綿のズボン。その上に重ねたエプロンに付着した無数の塗料が彼の生業を言葉よりも雄弁に物語っていた。
「ジャック様、こちらが画家のセドリックで御座います」
「う、うぅ…わ、私は、医者では、ない…」
「ジャック、無理を、しないで」
その時、ジャックを介抱しようとするエリザベスが、セドリックの視界に映り込んだ。
彼は彼女の姿を視認するなり、目の前で唸りを上げている血色の悪い男の事など、すっかりとどうでも良くなってしまった。
セドリックのその足は意識するよりも先に前へと出て、気が付くとエリザベスの手を握り、自身の方へと引き寄せていた。
「……」
突然の出来事に彼女の感情の処理が追いつかない。主人以外の男に触れられているのをジャックに見られたくないという気持ちはあるのだが、直ぐに言葉を発する事が出来なかった。
「こちらの先生はさておき、君はただの看護人ではないな?この美しさは天使…いや、もっと的確な表現があるか。この佇まい、氷の様な冷たい眼差し、君はひょっとして死神か?」
セドリックは言葉を詰まらせている彼女に捲くし立てた後、踵を返して先程まで自身が手掛けていた作品へと向き合う。
ラシェンを介してギャラリーの人間達から依頼されていたものだ。この街の風景画であと数日時間を掛ければ設定された納期を守って完成するだろう。
「ええい!俺は今まで何とつまらない絵を描いていたのかッ!?ラシェン!!個展に出す作品は今から彼女をモデルにしたものに差し替えるぞッ!!」
「お前はまたそうやっていつも勝手な事を…大体、今から新たに描き始めて展示会に間に合うのかと私が言っている傍からナイフでキャンバスを裂くんじゃあないッ!!」
画商と画家がやりなれた喧嘩をする中で、半ば置き去りにされたジャックは身体をよろめかせながら、何とかソファにもたれかかった。
「分からぬものだな。こんな生気に満ち溢れた男が…私に断りもなく彼女に触れた罪として、今直ぐ地獄へ送ってやってもいいのだが」
ジャックは本気で撃つ気の無い銃をこれ見よがしに取り出しながら、ラシェンに言葉を向ける。
「屍術師様、怒りを鎮めて下さい。セドリックの非礼はこの私がお詫び致しますので…どうか、依頼の通りに…」
「先生!俺の話は分かったな!?アンタの連れている美しい助手をしばらく借りるぞ!」
「…ッ!?」
どうにか依頼を完遂させようと、ラシェンはジャックをなだめるのだが、そこに追い打ちを掛ける様にセドリックの要求がなだれ込む形。
その身勝手な振る舞いを目の当たりにしたジャックも、エリザベスと同様に言葉を詰まらせる。
「そういえば、御婦人のお名前をまだ存じ上げておりませんでした」
「…エリザベス」
「エリザベス…良く澄んだ、胸が高鳴る響きです。貴女を一目見た瞬間からこれまでに無いインスピレーションが沸き上がってきました」
「…成程。一筋縄ではいかなそうな厄介な依頼だ」
そう吐き捨てるジャックの額に浮かぶ皺は先程よりきめ細かくなっており、回転式拳銃の引き金に掛ける指に籠った力は無意識に増していた。


………


「では、私はこれで失礼させて頂きます。屍術師様、後の事はお任せしましたよ?」
仕事のスケジュールが立て込んでいたラシェンは、そう念押しをした後、やや早足気味にこの場を離れた。
アトリエには主であるセドリックと、客人であるジャックとエリザベスが残された。
絵画のモデルに抜擢されたエリザベスはセドリックの指示に従っていたが、機が訪れるまでさしてやる事の無いジャックは一度組んだ足を組み直したり、手帳を開いては仕舞い、仕舞ってはまた再び開いてといった意味の無い所作を繰り返して、何とも居心地悪そうに過ごしていた。
また、依頼を達成する為に仕方が無いとはいえ、自身の従者が他の男からの熱烈な視線に晒されているという事が鼻持ちならなかったのか、彼は絶えず不機嫌な表情を浮かべていた。
そんなジャックの心情など露知らず、セドリックは小気味良く筆を動かしている。
彼が引く線には一切の迷いが無く、さながら魔法の様にエリザベスの輪郭が瞬く間にキャンバスの上に象られていった。
「ところで先生、さっきは俺に医者じゃないって言いかけていたな?」
セドリックがエリザベスの方に顔を向けたまま、後ろで足を投げ出して、明後日の方向を向いているジャックへと話し掛ける。
「…その通りだ。私は医者ではない」
「それはありがたい限りだ。近頃ラシェンが引っきりなしに連れて来るものでね。そういう手合いだったら直ぐにでも追い返していた所だ」
「では、この私が医者でなかったとして、それ以外の何者に見えるかね?」
「…そうだな。その黒ずくめの身なりと、死神を連れてる所から察するに葬儀屋か何かか?」
「惜しいな。人の生き死にに関わるという点では、そう外してはいないが」
「最期に聖書を読み上げる神父様ではないだろうし…益々ピンと来ないな。アンタは一体…?」
ジャックは一度立ち上がって、戸惑うセドリックの方へと向き直った。
下手な誤解を生んだままでは、彼に施す処置にも支障が出る。それを未然に防ぐ為にも、自身の身分を偽る事なく明かしておく必要があるだろう。
「私は屍術師だ。端的に表すのなら、死者を生者の様に蘇らせる事が出来る魔術師だと思ってくれればいい」
「……」
「君の友人からの依頼でね。余命数日と宣告された君が病に倒れた後、屍術を掛けてでも作品を完成させるようにと請け負っている」
事の全容を語るジャックの言葉を受けて、先程までリズミカルに動いていたセドリックの筆はぴたりと止まってしまった。
彼は困惑する。それもその筈である。医者達が匙を投げたこの病体に干渉出来る手段などもう無いと思っていたからだ。
「それは、夢の様な話だな…」
「ああ、君は良い友人を持ったようだ。彼は態々案内人を手配してまで、昏黒の森の深くにまで依頼にやって来たのだからな」
「死後、俺の意思が作品の製作を続ける事を拒んだら、どうなる―?」
「…ほう、これは想定外の返答だ」
「芸術というものは約束された予定調和の中には無いと思っている性質でね」
「…成程。これはラシェンが手を焼く訳だ。しかし、仮に君が志半ばで息絶えてしまったとして、作品が未完のまま…というのは不幸な事ではないだろうか?」
「それは違う!例え未完成であったとしても…その作品は、俺の死を以て完結したんだッ!!」
「…そうか、そういうものか」
「俺は、俺に許された時間を使って、俺だけの手で作品を描いている!そこにいきなり他人が割って入って来て余計な注ぎ足しをやるのは御免だッ!!」
「それが君の技法を完全に再現したものであったとしても、かね―?」
「屍術師とやら…望む所だ。俺が筆に乗せているこの気迫まで真似られるかそこで見ていろ」
一度その様な言い合いを交わしてから、ジャックはセドリックの後ろに立って、キャンバスへと向かい続ける彼の姿を凝視していた。
ジャックとエリザベスがセドリックのアトリエに滞在してから二日が経ち、三日目の朝。
不治の病に蝕まれている彼の体調は目に見えて悪化していった。
素人目に見ても分かり易い所で、咳の頻度が日を重ねる毎に増しており、彼のエプロンにこびり付いていた汚れは初めは塗料かと思っていたのだが、喀血かっけつの痕跡だという事が分かった。
しかし、医者のやる問答や処置などは彼にとっては既に無用な事だ。自身の体調を顧みる暇が在るのなら、その時間を、己が心血を、目の前の作品へと注ぎ込むだろう。
彼自身が直接そう口にした訳では無いが、その鬼気迫る所作から彼の言わんとしている事を汲み取る事が出来た。
「がッ…!?」
「大丈夫…」
「…そこを動かないでくれッ!」
口元を押さえてうずくまる彼の身を案じて、駆け寄ろうとするエリザベスの好意を怒声で遮った後、彼はどうにかその身を起こして自身の作品へと向き直った。
「休憩が必要ではないか?」
そう提案するのだが、彼から言葉が返って来る事はなく、作業はそのまま再開された。
ジャックはこの数日間、彼を眺め続けていたからか、セドリックの筆の勢いが次第に弱まってきている事に気付いた。
このまま続ければ、彼は間違いなく死に至るだろう。もう屍術を用いる以外の方法で彼を生き永らえさせる事は出来ない。しかし、それでは…
ジャックは暫く考え込んだ後、気力を失いつつあるセドリックに向けて一つ、言葉を下ろした。
「ふむ、ラシェンからは高名な芸術家と聞いていたのだが、とんだ期待外れだったようだ」
「…な、に?」
「これは言い忘れていた事だが、別に死人の意思など汲まずとも、君の記憶や経験だけを抜き取ってエリザベスに転写し、その技法を再現する事も出来るのだよ」
「ゴホッゴホッ…何…だと!?貴様、ふざけるなッ…!ゲホッ…!」
「どうした?私の屍術で俄かに真似する事の出来ない芸術家の持つ気迫というものを見せてくれるのではなかったのかね?」
ジャックがそう言ってセドリックを挑発すると、彼の中で消えかかっていた火が再び灯り、身体の芯には力が籠った様に見えた。
「今、私が掛けられる術はこの程度のものだ―」
彼の耳に入らぬようにそう小さく呟いたジャックは、再びセドリックに目をやる。彼が自身の魂をキャンバスへと下ろすその様を最期まで見届ける為に。


………


ジャックはエリザベスに作品を持たせて、ラシェンの名刺に記載されていた場所に向かうと、美術館の奥にある応接室へと通された。
長椅子に掛けて待っていると、ラシェンは上司と思われる男と共に現れた。
「私はこのギャラリーの館長を務めているマルコリーという者です。こうして直接参られたという事は、セドリックの絵画は完成したという事かね?」
マルコリーと名乗った高年の男は、本来の依頼人であるラシェンよりも先に、屍術師に事の顛末を尋ねた。
その様子から察するに、この依頼はラシェン個人によるものではなく、このギャラリーを運営している芸術文化団体からのものであった事が理解出来る。
「はい。依頼書に記載されていた通り、セドリックの遺作をお持ち致しました。エリザベス―」
マルコリーの問いに動じる事なくジャックは即答で返す。彼が指を鳴らして合図をすると、エリザベスはキャンバス全体を覆っている黄袋をゆっくりと下ろした。
すると、セドリックが死に際に残した作品の全貌が少しずつ明らかになっていく。
キャンバスの中心にはエリザベスの佇む姿が描かれており、彼が無我夢中で作品と向き合っていた事を証明する血痕が所々に残されていた。
言葉通り、彼の心血が確かに帆布の上に注ぎ込まれている。
「お…おぉ、これが…これが、あのセドリックが最後に描き上げた作品…これは何と、何という事だ…かっ、描きかけではないかッ!!」
マルコリーは思わず驚愕の声を上げた。持ち込まれたセドリックの遺作は所々に下描きを残したままの未完成品であったからだ。
「ええ、この絵画は貴方の仰る通り描きかけです」
しかし、ジャックは彼が放った生前の言葉を、彼が命を燃やし尽くしたその生き様を汲み取って、この状態を完成としたのだ。
「こんな未完成の絵画などでは話にならんよ!!」
「失礼。私は芸術には疎いもので。しかし、屍術を通じて人間の魂には触れ慣れている心算だ。私にはこの作品が鮮烈な命の輝きに見える」
ジャックの言う様に、セドリックの作品には勢いのある筆跡が残されていた。まるで彼自身がどう生きたのかを間近に差し迫った死に教え込むかの様に。
「…屍術師様、セス…いや、セドリックには結局、屍術を掛けたのですか?」
友の遺作を目の当たりにして、先程まで口籠っていたラシェンがジャックに言葉を向ける。
「彼の気高い魂に私の屍術が入り込む余地など無かった。彼は彼のままで生き続けて、彼のままで死んでいったのだ」
「…そうですか。貴方の様な屍術師に依頼して良かったのかもしれないな」
「…どういう意味か?」
「私は美術商としての面目を保とうとする自分と、彼の友人としての自分。どちらか一つに決める事が出来ずに、その狭間で揺れていたのです」
ラシェンは続ける。まるでジャックを介してセドリックに言葉を向ける様に。
「彼が作品を作り続ける事を望む一方で、心のどこかで彼の好きな様にさせてやりたい自分が居たんだ…屍術師様、ありがとうございました」
「ちょうど、君の友人から言葉を預かっている。いつも好き勝手な事ばかり言って迷惑を掛けてすまなかった、と」


………


術式を刻む為にと彼の遺体に刃物を入れる事になるのは気が引けるが、彼が生前に望んだ通りの処置を施しておく。
「ジャック、今のは?」
「なに、ちょっとした御呪おまじないさ」
「御呪い?」
「旧くは蘇生を試みた術者に直接襲い掛かるようにと、遺体に刃物を持たせたと聞くがね」
「つまり、他の屍術師への、対策…?」
「ああ。蘇生を望まない彼の遺体にはたった今、鍵を掛けさせて貰った。私の定めた特定の術式を綴らなければ、屍術を執り行う事は出来ない」
死体のランクとしては一度屍術師の手が入った死体、使用済という位置付けになるが、これ以上余計な手が加わるよりかは良いだろう。
文化人の墓を掘り起こし、手に入れた死体に屍術をかけて作らせた作品を売り捌こうとする痴れ者共の話を聞いた事が無いわけではない。
「そう…これで、安らかに、眠れるのね」
セドリックの遺体に彼が最期の時まで握っていた絵筆を添えて、エリザベスが土を被せた後、ジャックが献花を墓前に供えた。
「セドリック、屍術師というものは神に背く身でな。すまないが、聖書を読み上げてやる事は出来ない」
「ジャック…」
「何かね?」
「報酬は、貰えなかったけれど、満足そうな顔」
「…そうだな。屍術は私利私欲の為だけに用いるものではない」
「彼の意思を、守ったの?」
「セドリックは死に際にこう言った。口では幾ら格好を付けても、俺の魂を開けばそこには微かな未練が残っているだろう、と…但し、どうか、それは汲み取らないでくれと。そのまま見なかった事にして握り潰してくれと」
ジャックは続けた。墓石の下で眠る高名なる芸術家に約束は果たしたと伝える様に。
「それに―」
「それに?」
「死神という表現は私の意に沿わなかったが…彼は、君を美しいと評した。悪くない趣味だ」
彼にそう言い残して、屍術師ジャックと従者エリザベスは街外れの共同墓地を後にした。
セドリックの死後、美術商ラシェンによって彼の遺作は〝死の訪れ〟と題された。
未完成の絵画を展示しようとした事で、館長であるマルコリーを筆頭に周囲の美術商達から批難を浴びたが、彼はそれらの反対を押し切った。
彼の友人として、専属の美術商としての責務を果たそうと、自身の進退を懸けたラシェンの献身的な働きによってセドリックの個展は無事、開催された。
完結した彼の世界に触れた者達は多くの感銘を受けると共に、その鮮烈なる生命の輝きに心を奪われたという。
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