僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十九章

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 駐車場の到着時刻と、僕と輝夜さんがAICAを降りた時刻には、二十分の差がある。僕にとっての些事を輝夜さんがとても気にしたため、車外に出られなかったのだ。それは、
「眠留くん、強くつねり過ぎちゃって、ごめんなさい・・・」
 から窺えるように、僕の頬が赤くなっている事だった。新忍道で傷をしょっちゅうこさえている身としては、皮膚の表面がほんのり赤みを帯びているなんて一秒後には忘れている些事なのだけど、女性にとっては大事件なのだろう。輝夜さんは華奢な肩を極限まですぼめて、消え入るように謝罪し続けていた。世界一大切な人をそんな状況にしてしまった方が、赤みを帯びた肌より一兆倍気になるのが僕の本音。だがそれをそのまま口にするなど愚の骨頂なので、さてどうしたものかと思案していると、
 ――輝夜さんに世話をしてもらいなさい
 昨夜の助言が脳裏に再び響いた。翔子姉さんにお土産を買うことを心に誓い、僕は閃きを口にしてみる。
「輝夜さんは今でも、唇の体操をしてる?」
 去年五月、輝夜さんと二度目の狭山湖デートをした際、周囲に降りた重い空気を払拭すべく、輝夜さんは唇の体操を始めた。それは見事成功し、年季の入った唇体操を無表情で突如始めた輝夜さんに、僕は笑い転げたものだ。よってそれを応用する二段構えの作戦を、さきほど閃いたのである。問いかけの返答を待たずあの日の唇体操を思い出し、それを再現してみる。一瞬キョトンとしたのち、輝夜さんはクスクス笑って唇体操に参加した。その楽しげな様子に「一段目は成功したぞ」と胸中ガッツポーズして、二段目に移る。
「こんなふうに唇を動かすと、肌の血行が良くなって、頬の赤みも早く消えると思うんだ。そこで輝夜さん、頬の血行促進に役立つ、モギュモギュ食べられる物を持ってないかな。実は僕、ちょっぴり小腹が空いているんだよね」
 小腹が空いているのは嘘ではない。部活後に食べる湖校のお弁当は味と量と栄養素のすべてが百点満点の素晴らしいお弁当でも、「食後のデザートが欲しいな」と少し物足りなく思うのが、成長期の体育会系男子というもの。午前の部活を終えて帰宅するや台所に直行し、お菓子や果物をモギュモギュ食べるのが、僕の習慣になっていたのだ。
 そうそれは、かれこれ一年四カ月続いている習慣だった。よって午前中に部活のある日は、帰宅後のオヤツがいつもさりげなく用意されているし、午後に部活のある日は、部室ですぐ食べられるバナナやエナジーバーを必ず持たされていた。それをしてくれるのは祖母や美鈴でも、心根の優しい輝夜さんが僕の習慣を知らぬ訳がない。部活後にAICAで待ち合わせてショッピングモールに直行するこの日、午前を翔薙刀術の稽古に励んだ輝夜さんが、つまり午前を神社で過ごした輝夜さんが、僕のオヤツを持って来ていないなど天地がひっくり返ってもないのである。現に、
「うん、クッキーと果物を持ってきたの! さあ眠留くん、どちらから食べますか?」
 輝夜さんは顔を燦々と輝かせ、バッグからクッキーと果物を取り出した。そして嬉しくて堪らないといったていで、僕のオヤツタイムの準備を始める。

 ああ本当に、この人は
 どうしてこうも、僕の世話を
 嬉しげにしてくれるのだろう

 そう思うだけで、目から汗が溢れそうになってしまった。僕は頬をことさらモギュモギュ動かし、クッキーと果物を平らげてゆく。そんな僕に、輝夜さんはにこにこ顔で問いかけた。
「眠留くん、そのクッキー美味しい?」
 モギュモギュ動く口以外の全身を使い、「美味しい!」と訴えた。輝夜さんは極上の笑みを浮かべて先を続ける。
「眠留くんがショッピングモールに誘ってくれた日の翌朝、十月五日の翔薙刀術の稽古を三十分早く終わらせる方法を、お師匠様に尋ねたの。お師匠様はニコニコして、十五分間の稽古に相当する高密度の時間を、今日と明日過ごしなさいって言ってくださったわ。私は教えられたまま、その日と翌日の稽古の密度を上げた。するとその分、稽古後の充実感も増していたの。だから感激しちゃって、濃密な稽古を今日も張り切ってしていたら『今日も含めた三日分、四十五分早く上がりなさい』って、お師匠様は仰ってくれて。お師匠様の優しさに応えるためにも、そのクッキーを、わたし一生懸命作ったんだ」
 正直言うと輝夜さんを抱き止めたさい、クッキーを焼いたとき特有の幸せな香りを、輝夜さんの髪に僕は感じていた。よってオヤツにクッキーが含まれるのは事前に知っていたけど、だからと言って輝夜さんがクッキーに込めた想いまで解るものではない。僕は目を閉じ、拙いながらも文章を頭の中で構築してそれを伝えた。
「バターと塩の風味が絶品すぎる。バターの極上の油分とミネラルたっぷりの自然塩が、激しい運動をした体の隅々に、染み渡ってゆくようだよ」
 卵と小麦粉は神社の備蓄を使っていたが、バターと塩は白銀家の財力とコネを動員して購入した、目が飛び出るほど高価な品物に違いなかった。料理は、お金が全てではもちろんない。だが、優れた職人さんを芸術家として遇しているこの時代、職人魂の結晶である高級食材は、別次元の幸福を食べる人にもたらすのも事実だった。しかもその食材を、確かな技術と愛情をそそいで用いたなら尚更なのである。僕はこのクッキーの素晴らしさを、味覚と脳を総動員して輝夜さんに伝えた。それがよほど嬉しかったのだろう、輝夜さんは喜ぶやら照れるやらで大変なことになった。そこまでは、昨夕の僕にも想像できたと言える。けどその嬉しさを、
 ――僕の世話をすることで幸せに変換する今日の輝夜さん
 は、助言をもらう前の僕では想像不可能だった。この人と人生を共にしたいという願望が、狂おしいほど胸にせり上がって来る。僕はクッキーを二つに割り、一方を僕の口に、そしてもう一方を輝夜さんの唇に当てて、前倒しの言葉を放った。
「今これを食べてくれないと、輝夜さんの十八歳の誕生日まで大切に取っておきたかった言葉を、僕は我慢しきれないかもしれない。だからこれを食べることで、胸に溢れるこの想いを、宥めてくれないかな」
 十八歳という年齢の意味に気づいた輝夜さんの顔が、かつて見たことのない速度と彩度で朱に染まってゆく。そしてそれが臨界を超える寸前、
「僕とお揃いだね」
 僕は何も持っていない左手で自分の頬を指さした。乙女の恥じらいの写し鏡になっていた輝夜さんの瞳が、みるみる負けん気を帯びていく。それはさながら、手の届かない遥か高みに輝く月から、手の届く場所に戦女神が舞い降りるさまに似ており、ならばと僕は己を鼓舞し、女神に並び立つ半神の地位へ自らを引き上げた。それを称え、
「お揃いなら、一緒に」
 輝夜さんは僕の口元のクッキーを白魚の指でつまむ。
 僕らは目で頷き合い、互いが互いの唇にあてがったクッキーを、揃って食べたのだった。
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