僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十八章

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 優しい家族に支えられたおばあさんは、五年もすると疲労をほぼ覚えなくなった。すると次第に生き物を育てる楽しさを味わえるようになり、更に五年が経ったころ、触っただけで食べごろの野菜を識別できるようになった。自分が育てた野菜を十年間食べ続けた経験がそうさせているだけなのだと、さして気に留めない十年が再び過ぎた、ある日の早朝。布団の中で目を覚ましたおばあさんは、食べごろの野菜が畑のどこにあるかを完璧に把握している自分に気づいた。それはあまりに完璧な感覚だったので慌ても急ぎもせず、普段どおり支度を整え朝もやに霞む畑に足を踏み入れ、その場所へ向かった。そこには脳裏に映った野菜が実っており、手に取ってみると、布団の中で感じた感触がまさしく掌に伝わってきた。おばあさんはそのとき初めて、これは特殊な事なのではないかと感じたと言う。
 ただその感覚は毎朝の事ではなく、体調に優れ気候の穏やかな早朝に、十日に一度ほどの割合でやって来るだけだったらしい。それでも七年が経過した今年の春には二日に一度まで頻度が増しており、そして植物が最も元気になる夏、武蔵野姫の話を孫娘から聞いたおばあさんはその翌朝、布団の中でふと思った。食べごろの野菜がどこにあるかは、武蔵野姫が教えてくれていたのではないかと。
 朝とは呼べない、空にまだ星が瞬いている時間。湖校の寮生の朝ごはんになる野菜を収穫している最中、おばあさんはそれをおじいさんに話してみた。おじいさんは深く感じ入り、太陽が南中する時間に武蔵野姫の仮宮を訪ねる提案をした。否などあろうはずなく、朝食の席で話してみると長老猫も同行を希望したので、二人と一匹で仮宮に足を踏み入れた。不思議な空き地の中心に、選び抜いた野菜を置き、南中の時を待った。そして、
 リンッ……  ンンン…… ンン……
 太陽の音が降りる。そう二人はそのとき初めて、太陽の音をはっきり耳にしたのだ。しかも大地と共に長年生きてきた二人は、地下深くを巨大な何かが東から西へ素早く移動してゆくのを、足の裏で明瞭に感じたと言う。おばあさんの語った「巨大な何か」が耳に届くや突如僕の脳裏に、南中直下のいと深き場所に常駐している「光り輝く巨大な何か」が映った。しかしそれは一瞬の十分の一にも満たない時間で消えさり、僕は多大な名残惜しさを感じつつ、おばあさんの言葉に耳を澄ませた。
 仮宮で神秘的な体験をするも、目覚めると同時に食べごろ野菜の場所が分かる感覚に目立った変化は現れなかった。それを疑問に思ったことはないが、今ふり返ると少し不可解だし、不可解にまるで感じなかった事はもっと不可解な気がするとおばあさんが首を傾げたため、僕は自分の考えを述べた。
「運動音痴克服法を研究している僕の個人的意見ですが、技術の習得速度は初期が最も早く、時間が経つにつれ遅くなっていきます。それとまったく同じなのが、手本の重要度です。手本の重要度は初期ほど高く、時間経過とともに下がります。最初の頃は素晴らしい手本を見せてもらえるだけで成長しますから、重要度も高い。しかしその技術を体得できるか否かは自分の努力次第ですから、時間経過とともに努力の重要度が増し、手本の重要度は落ちてゆく。それと同種の事がおばあさんにも起こったのだと、僕は感じました」
 食べごろ野菜が畑のどこにあるかを、武蔵野姫は十日に一度、手本としておばあさんに示していた。おばあさんは手本を真似ることで技術を少しずつ身に付けてゆき、二日に一度の頻度まで自分を高めていた。日々積み重ねていったその努力は、仮宮での神秘体験すら霞ませるほど膨大だったため、仮宮以降も目立った変化は現れなかった。そういう事なのではないかと、僕は推測を述べたのである。そしてそれは、隣に座る輝夜さんの直球ど真ん中だったらしい。
「私もそう思う! 良かったねおばあちゃん、ありがとう眠留くん!」
 輝夜さんは幾度もそう言い、全身から太陽のような光を放った。以前はその眩しさに気後れした事もあったが、今の僕は違う。輝夜さんが嬉しいなら、等しく僕も嬉しいのだ。僕らは座ったまま手を取り合い、ダンスをするように両手を右へ左へリズミカルに振った。楽しくて嬉しくて仕方なく、このまま縁側に移動してダンスをしよう、うんそうしましょう、的な合意を目と目で交わした直後、
「あらあら、二人は本当に仲がいいのね」
「まったくだ。眠留がいれば、なにも心配いらない」
 おじいさんとおばあさんにバッチリ見られていた事にやっと気づいた。神速で手を離しテーブルに正対するも、顔をどうしても上げられず俯いていた僕らに、おばあさんが誰かにとても似た口調で話しかけた。
「眠留さん、恥ずかしがらなくていいのよ。それに輝夜、あなたの旦那様は頭脳明晰な方でもあるのね。私は安心しました」
「おばあちゃん、だっ、だっ、旦那様だなんてあのその」
 恥ずかしさが限界を超え、正座していられなくなった輝夜さんが、僕の方へ体をふらっと傾ける。その光景を一瞬前に心で見ていた僕は、慌てず焦らず輝夜さんを支えた。さっきと同じ「あらあら」「まったくだ」を再び聞かされ僕も限界を超えそうになるも、
 ――お前ごときに娘はやら~~ん!!
 と鬼の形相で叫ぶ中年男性が脳裏になぜか浮かんだ。百分の一秒とかからず、その男性が輝夜さんの父親の光彦さんなのだと僕は直感する。直感するや、今度は千分の一秒のロスもなく男としての対抗心がメラメラ沸き起ってきて、羞恥を蹴飛ばし顔を上げ背筋を伸ばした。その僕に投げかけたおばあさんの、慈愛溢れる笑みが教えてくれた。武蔵野姫は農作物だけでなく、地母神の母性と威厳の手本も、おばあさんに示してきたのだと。
「眠留さんの言うとおり、私は気づかぬ内に努力を重ねてきたのでしょう。そしてそれを、心の奥深くで感じていたのでしょう。食材の声を聴けるようになったとき、突然の出来事にしては驚かなかったのは、そういう理由なのですね」
 おばあさんは喜びがにじみ出るような笑みを浮かべ、胸に両手を添えた。その様子をおじいさんは、喜びを垂れ流しまくって見つめていたのだけど、不意にキョトンとした。そしてその表情のまま三秒ほど過ごしたのち、外界から自分を切り離し熟考へ入ってゆく。僕と輝夜さんは頷き合い、二人で居住まいを正しおじいさんの言葉を待った。ツクツクボウシが想いの丈を歌い上げるに充分な時間が経ったころ、おじいさんは口を開いた。
「妻は軽い口調で、病院の世話に幾度かなったと言ったが、実際は五年で五度入院した。特に五度目は症状が重く、入院も長引き、儂は気が気ではなかった。妻が健康になってからも、畑仕事をする妻の姿に胸が痛まぬ日は無かった。儂はそれを、自分への罰として一生背負っていく覚悟をしていた。しかし、さきほど妻が『優しい家族に支えられた記憶しかない』と言ったとき、儂はそれに同意していた。今年の夏までは、畑仕事をする妻に胸が痛んでいたのに、知らぬ間にそれは消え、しかも儂はそれに気づかなかった。気づかなかった事にも、痛みが消えていた事にも、儂は罪を感じなかった。入院などのつらいことも多々あったが今ふり返ると、家族の優しさと有難さが身に染みた五年間だったと、しみじみ思うのだよ」
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