僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十八章

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 僕の脳は、残念な性能でしかない。にもかかわらず僕はおじいさんの話を、一聴しただけで完璧に理解した。それは一から十まで、輝夜さんのお陰と言える。輝夜さんと僕に置き換えさえすれば、おじいさんの話は僕にとって、掛け算九九の暗唱と何ら変わりは無かったのだ。
 仮に僕が増長はなはだしい高校生活を送り、それがきっかけで輝夜さんが畑仕事を始め、そのせいで五年に五度も入院したら、僕は正気を保っていられただろうか? 僕は断言できる。自分を罰し続ける以外に正気を保つ方法など、決してないのだと。
 ならば逆に、自分を罰することを止める状況があるとするなら、それは何なのか? 僕はこれについても断言できた。それは、五度の入院を人生の糧にできたと、輝夜さん自身が確信している事だ。輝夜さんが心底そう思い過去を慈しんでいるなら、僕にとってもそれは、等しくそうなのである。
 という、僕が胸の中で考えていた事を、輝夜さんは十全に感じ取ってくれた。僕らは顔を見合わせ、くっきり頷く。そして二つの心を一つにして、おじいさんとおばあさんに顔を向けた。けどそれはある意味、僕らの増長だったらしい。なぜならお二人はそんな僕らを、僕らでも敗北宣言するしかない幸せな眼差しで見つめていたからだ。まだ年季が足りないみたいですと頭を掻く僕を、
「カッカッカッ、当然じゃ!」
 おじいさんは豪快に笑い飛ばした。そしてその豪快さに乗っかる形で、おじいさんは野球への憂いを断ち切った。
「野球も将来、つらかった過去を慈しみをもって振り返る時が来るだろう。せいぜい長生きして、その時を気長に待つとするかな」
 ――個人の成長と人類全体の成長には類似点が多々あると言われる根拠は、きっとコレなんだろうな。おじいさんとするキャッチボールは文句なしに楽しいから、野球自体は嫌なスポーツではないはず。いつか湖校にも、野球部ができたらいいな――
 なんて感じに僕が思索に耽っていられたのは、おじいさんの長生き宣言に輝夜さんがはしゃぎまくったからだ。
「もちろんよおじいちゃん、うんと長生きしてね!」
「輝夜に頼まれたなら仕方ない、儂は長寿番付の東の横綱を目指そう」
「キャー、おじいちゃん素敵~~!!」
 それは心温まる光景で、僕はニコニコしっぱなしだったのだけど、あることを境に雲行きが怪しくなった。おじいさんがお年寄り特有の無遠慮さを発揮し、輝夜さんにこう尋ねたのである。
「ちゃんとデートをしているのか? ダンス以外でも、手を繋いでいるのか?」
 この問いに、デートは一度きり手を繋いだことも一度きりと輝夜さんが答えた途端、おじいさんは眉間に皺を寄せ腕を組み、目を固く閉じてしまったのだ。たとえ輝夜さんが去年五月の狭山湖デートの想い出を嬉々として話していたとしても、その内容を客観的に吟味すれば、眉間に皺を寄せるのが正解と僕にも思えた。なぜなら去年五月の想い出は、
『一年五カ月の交際でデートしたのは一年五カ月前に一度きり、しかもそれは近所の公園のデートだった』
 以外の何ものでも無かったからである。昭平アニコミ好きの僕は男の甲斐性という概念がかつてこの国にあったことを知っていて、そしてそれに基づくなら僕は問答無用の「甲斐性なし」「意気地なし」「ヘタレ者」だった。加えて僕自身が自分を、甲斐性があるとも意気地があるとも勇猛果敢ともからきし思っていなかったので、厳めしく腕を組むおじいさんとは対照的に、僕の背中は丸く小さくなって行った。
 けど僕は、自分を少しだけ信じて良いのかもしれない。二十四時間三百六十五日は無理でも、本当に大切な瞬間だけは、成すべきことを成し遂げる人間と思って良いのかもしれない。なぜならすぐ隣に、同じように背中を丸めて小さくなっている人がいると知った途端、僕はその人へ体を向け、堂々たる声で問うたからだ。
「輝夜さん、明々後日しあさっての午後は空いていますか」
 爆ぜるように顔を上げた輝夜さんの瞳に、希望が満ちている。世界一好きな人をこれほど喜ばせる一言を一年五カ月も言わなかった自分を糾弾するのは帰宅してからにして、僕は輝夜さんをデートに誘った。
「明々後日の水曜の午後、僕と二人でショッピングモールに行きませんか」
「はい、行きます! 二人でショッピングモールに行きましょう!」 
 スポットライトを浴びたと百人が百人錯覚するほどの光を、輝夜さんは全身から放ってそう答えた。その喜びように、視界が霞みそうになる。しかし、たとえそれが嬉しさの極みたる涙であったとしても、湿っぽさはこの場にそぐわない。おじいさんとおばあさんが胸に刻む輝夜さんは、事実上の初デートにどこまでも明るくはしゃぐ年頃の孫娘で、あって欲しいからね。
 という、僕が胸中秘かに繰り広げていた湿っぽさを跳ね除けようとする闘いを、同性として察知してくれたのだと思う。おじいさんはある提案をし、自分が話題の中心になることで、僕の気を輝夜さんから逸らすという援護射撃をしてくれた。その援護自体は手放しで嬉しかったのだけど、おじいさんが持って来た封筒の中身にはドン引きした。封筒のあまりの厚さに僕は首を縦に振れず、それにれたおじいさんがお年寄り特有の短気を発動させようとし、それを阻止すべくおばあさんが暴露話を始めるという、
 ――戦国時代
 さながらの様相に、食卓はなったのである。その戦国時代は、おじいさんのこの提案によって始まった。
「よし眠留、儂が小遣いをやろう。ショッピングモールのレストラン街で、輝夜と一緒に美味しいものを食べてきなさい」
 この時点におけるおじいさんは、まさしく話題の中心だった。しかも、女性陣の称賛を一身に集めると言う、男にとって最高とも呼ぶべき中心にいた。おじいちゃん太っ腹と輝夜さんが拍手し、その横で恐縮する僕におばあさんが「この人は眠留さんにお小遣いをあげる口実が欲しいの、気持ちよくもらってあげて」と微笑む。それを聞き輝夜さんが「おじいちゃん大好き!」と声をあげ、するとおばあさんも「あら私だって負けないわ」と惚気話を始めるという状況に、おじいさんはいたのだ。照れるやら喜ぶやらでおじいさんは大忙しになり、それは楽しい話題ばかりでは決してなかったこの昼食会の最後を飾るに相応しい笑顔だったので、お小遣いをありがたく頂戴する旨を僕は告げる直前だった。
 が、そうはならなかった。その後おじいさんに待ち構えていたのは「勝って兜の緒を締めよ」と「好事魔多し」の複合、もしくはストレートに「調子づいたらアカン」だったのである。賞賛の集中砲火を浴びていたおじいさんは千両役者の如く立ち上がり、箪笥に駆けてゆき中から厚手の封筒を取り出して、僕に突きつけて言った。
「眠留、十四年分のお年玉と小遣いじゃ、受け取れい!」
 国連本部にある世界最高の金融AIの調査によると、日本は未だ大量の現金が流通している、世界唯一の国らしい。ひょっとすると僕は、その理由を実感できる極めて少数の子供なのかもしれない。神社に生まれた僕は、小さい頃からしばしば見ていたのだ。孫の七五三や結婚式に出席したお年寄りが、感謝の印として、現金の入った熨斗袋のしぶくろを祖父母に差し出している光景を。
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