僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十八章

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 久保田は木彫りを趣味に留め、市井に埋もれた素人として過ごす意向を示した。
 それについて、僕はしみじみ思ったことがある。
 それは、久保田の生き方は翔人と同じなのかもしれない、という事だった。
 僕ら翔人は、魔想討伐を生活手段にしない。翔刀術も翔弓術も翔薙刀術も、翔人に伝えるだけだから収入にならない。翔人はこんなふうに、自分の存在を秘して暮らしているのだ。
 そんな僕らと、市井に埋もれた素人は似ているのではないか。名声や権威を度外視し、芸術や武術の研鑽に日々励んでいる人達は、翔人と同じ生き方をしているのではないか。僕はそう、しみじみ思ったのである。
 みたいなことを考えながら僕はティッシュペーパーを差し出し、そして差し出された久保田はわななく口のせいでサンキューすら言えないという、さっきの状態を入れ替えた時間を、僕と久保田は過ごしたのだった。

 ティッシュペーパー大量消費時間の二回目を終え、食後のデザートと飲み物をしばし楽しんでから、祖父と久保田は制作依頼と報酬の正式な話し合いに移った。本人の弁のとおり久保田は素人にすぎず、またこの件に金銭は絡まなかったが、せめて契約上は本物の技術者として遇さねば儂の気がすまないと、祖父が力説したのである。そして久保田は、祖父の気持ちが解らぬ人間ではない。よって話はとんとん拍子に進み、三方良しの契約がなった。
「木彫り好きには喉から手が出るほど欲しい、広葉樹の原木を十本頂けるなら、こちらからお願いしたいくらいです。お祖父さんが提示された条件を、受諾します」
 三方良しの本来の意味は「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」なので厳密には間違っているのだろうが、美鈴が嬉しさいっぱいになっているなら、それは僕にとって「世間良し」となんら変わらない。牛若丸のモデルとしてはちょっぴり恥ずかしいのが本音でも、美鈴がこうもニコニコしているなら、それが一番なのだ。
 その後は暇乞いの時間になった。次の再会を誓いつつ皆で久保田を玄関まで送り、そして僕も久保田と一緒に玄関の敷居をまたいだ。夕食前の石段で成されなかった話を、終わらせておきたかったのである。口火を切ったのは久保田だった。
「熊本で過ごした最後の日にかいが教えてくれた、僕が遅気もたれになった仕組みは、『心身の静まった状況でしか向こうの自分に会えなくなっていたから』だと思う。時間制限のない環境に慣れ過ぎてしまい、時間制限のある試合に、適合できなくなっていたんだね。それを見抜いた志垣先輩は僕に流鏑馬を体験させ、弓道とは正反対の環境でも向こうの自分と会えるようにしてくれたんだって、僕は考えているよ」
 九月末日午後七時半の、夜のとばりの降りた境内に久保田の声が響く。二年生になった直後の僕ならその声を、穏やかさと自信が融合したとても安定した声と評しただろう。だが文化祭を通じて親交を深めた今の僕はそこに、境内という環境だけでは説明しえない音の響きを、つまり心の揺らめきを、はっきり認識することができた。二人並んで歩を進める先の、大石段。その大石段の下に腰かけ、来ない可能性が高いと知りつつも待たずにはいられなかった人のことを、久保田は今思い出している。それを僕は、明確に感じたのだ。
 しかし明確に感じつつも、それを口にするか否かを僕は決めかねていた。そしてそんな僕を、共に過ごすうち察知できるようになるのが、湖校という場所なのだろう。
「今度は猫将軍が決めかねているようだね」
 そう前置きし、ため息を隠すような深呼吸を一つしてから、久保田は問うた。
「木製台座の高品質化に、後輩がどう関わるのか。これへの秋吉さんの考察に、詰めの甘さを感じた僕は、甘さの理由を猫将軍に求めた。文化祭の本質を共有していないのだからそうなって当然として話を進め、そしてそうする事で、秋吉さんが不十分な考察を述べたことを皆の記憶から消去しようとした。ねえ猫将軍、秋吉さんはそれを、怒っているのかな? だからあんなふうに、慌てて教室を去って行ったのかな?」
 今日の放課後はクラスメイト全員が教室に残り、文化祭の準備に勤しんでいた。智樹が実行委員長として準備終了を宣言したのが、最終下校時刻に間に合うギリギリの五時四十五分。よってみんな急いで帰り支度を始めて、当然そこには秋吉さんも含まれていたのだけど、秋吉さんの急ぐ様子は他とは一線を画していた。皆が一様に「間に合わせよう」と慌てている中で、秋吉さんだけは「とにかく早くこの場を去りたい」系の慌て方をしていたのだ。秋吉さんのその不自然さに実行委員全員が気づき、昇降口への道すがら何気なさを装い集まって、九人で情報交換をしたのだけど、確たる情報は得られなかった。だが悲しいことにそこで時間は尽き、僕らは気持ちを切り替え挨拶して、それぞれの帰路に着いたのである。
 が、気持ちを切り替えられなかった者もいた。今日のような最終下校時刻ギリギリの日に、秋吉さんと所沢駅までいつも一緒に帰っていた久保田は、間違いなくその筆頭と言えるだろう。その心中を察した僕は久保田を誘い、もう本当にギリギリという時間まで昇降口にいたが、待ち人は最後まで現れなかった。柔和で穏やかな性格をしていても、芯に一本筋の通った久保田は表情を改め、神社へ向かって歩きながら、胸の奥深くに仕舞っていた大切な宝物の話をしてくれた。それは一種の交換条件なことを僕は知っていたけど、そんな必要ないのに宝物を律義に差し出す久保田が友人として誇らしく、また演技抜きに興味深い話でもあったので、秋吉さんの件を一時的に忘れるほど楽しい時間を僕らは過ごした。それを久保田は感謝しているからこそ、今この瞬間、勇気をもってこう問うたのだ。
 ――秋吉さんはそれを、怒っているのかな? だからあんなふうに、慌てて教室を去って行ったのかな――
「久保田、やっぱりこっちから帰ろうか」
 この状況で長い長い大石段を降りるのは危険と判断した僕は、駐車場へ向かう道を指さした。怪訝な顔をされたので、ちょっと遠回りになるけどこっちには階段がないから安心なんだよと説明すると、久保田は黙って首を縦に振った。そして僕らは横並びになり、初秋の夜虫の鳴く道へ歩を進めた。
「久保田も知っているように、僕は自分を恥じる気持ちがとても強い。物心ついた時は既にそうなっていたから、その自分とかれこれ十一年以上付き合っている。その日々の中で比較的早く気づいたのが、他者の羞恥心に僕は敏感であるという事。自分がしょっちゅう陥っている状態と、似た状態になっている人を、素早く察知できるように僕はいつの間にかなっていたんだね」
 それに気づいたのは、小学校に入学して早々だった。幼稚園と異なり、小学校は個人として担任教師と挨拶せねばならない場面が多く、モジモジだった僕はそのつど羞恥まみれになっていた。我ながら情けないがあの頃の僕は、クラスメイトの中で自分だけがそうなのだと頑なに信じていた。けどある時、唐突に気づいたのである。僕と同じ表情で同じ気持ちに苦しんでいるクラスメイトは他にもいて、そして僕はそれを、敏感に察知できるのだと。
「僕はその子たちと友達になった。それが嬉しくて、増長しちゃってさ。あの子は羞恥に苦しんでいるんだって一方的に決めつけていた時期が僕にはあって、そのせいで二年の三学期に、クラスメイトを凄く怒らせてしまった。僕は知らぬ間に、なんでもかんでも羞恥に見える色眼鏡を、かけていたんだね」
 鎮守の森の暗がりが右側に広がる道を抜け、照明の灯る駐車場に出る。と同時に僕の左側から、安堵の息を吐く音が聞こえてきた。
「あれ? ひょっとして久保田は、夜の森が怖かったりする?」
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