僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十六章

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 例えば目の前に高価なグランドピアノがあって、440ヘルツのラを奏でたとする。ラは440の波を有し、波の一つ一つに40のグニャグニャが付いているとすると、一秒間に1万7600のグニャグニャが体に届くことになる。これは1万7600ヘルツの音であり、鼓膜の振動だけで捉えるのは難しくとも、骨伝導等を加えた「体全体の音感」なら、グランドピアノの豊かで艶のある音を多くの人が感じられるだろう。この体全体で感じた音をなまの音、つまり鮮度の高い音とすると、件のオーディオ用語の正体が見えてくる。
 音は学問的には、疎密波そみつはに分類される。疎密波は、スピーカーのウーハーを思い浮かべると理解しやすい。ウーハーがこちらにボンと動いたとき、空気は圧縮されてみつになる。反対にべコッとへこんだ時は、空気の薄いになる。二つ合わせて、疎密波だ。単純に言うと、一秒間に440の密と440の疎が発生すると、人はそれをラの音と感じる。ウーハーが前後に震えることで生じた密と疎が、鼓膜も同じように震わせるから、人はそれを音として捉えるのだ。
 しかし、機械には性能差がある。先程のグランドピアノの、1万7600のグニャグニャを正確に再現できる高性能スピーカーもあれば、四分の一すら危うい激安スピーカーもある。これは写真に譬えると、画素数の多いくっきりした写真と、画素数の少ないぼやけた写真になるだろう。このくっきりした写真を、「鮮度の高い音」と表現しているのだと、僕は考えている。 
 僕がこの考えに至った体験は二つある。一つは、微細なグニャグニャを最初から聴けたのではないという事だ。僕の家にはピアノが無く、またピアノを習ったことも無かったから、父の高性能オーディオでピアノの名曲に触れても、退屈な音楽という印象しか最初は持てなかった。でも父と母の馴れ初めが、ラフマニノフのピアノ協奏曲二番のコンサートだったと知ってからは興味を覚え、その曲を来る日も来る日も聴いているうち、僕はある日突然クラシックが大好きになった。好きだから意識を研ぎ澄まし、夢中になって耳を傾けていると、オーケストラ特有の豊潤極まる音を味わえるようになり、そして再びある日突然、音の鮮度を実感できるようになった。翔人の聴覚訓練でも成績が急に上がったから、クラシック音楽を通じて耳を鍛え、そのお陰で微細なグニャグニャを聴き分けられるようになったのだと僕は考えている。
 体験の二つ目は、七十年近く昔のラジカセの音を聞いた事だった。小学六年生の祖父がお年玉の全額を投じて購入したそのラジカセで、リストのラ・カンパネラを再生したところ、僕はどうしても微細なグニャグニャを聞き取れなかった。それは機械が古くて壊れていたのではなく、昔の安価なラジカセでは、微細な音をそもそも再現できなかったのだ。複雑さの失われた、のっぺらぼうのようなその音に、鮮度の欠片も僕は感じなかったのである。
 父によると、スピーカーを壁に埋め込んだこのオーディオは、オーケストラを再現するのは得意でも、楽器の独奏は苦手なのだと言う。よって僕が聴いているピアノソナタも苦手なのだけど、そこら辺を熟知している技術者が、ホールの臨場感を味わえるようにしてくれた。それなら父のオーディオも、能力を存分に発揮できる。収容人数500ほどの小さなホールでピアノを弾いている様子がありありと浮かび上がるこのドビュッシーが、僕は大好きだった。
 父のスピーカーは、3万ヘルツまで再生することができる。鼓膜を一秒間に3万回振動させる音と考えると過度な高性能に感じるが、体に降り注ぐ波と考えると感想が違ってくる。室温を15℃とするなら、3万ヘルツの波には11ミリ以上の幅があるからだ。キーンという音がかすかに聞こえて来るようなホール独特の空気感を体全体で味わえる父のオーディオに、僕は多大な感謝を抱いていた。したがって音楽が終わってもすぐ立ち上がる気になれず、安楽椅子に身を沈めて余韻を楽しむのが常だったのだけど、
「ん?」
 今日は常でないことが起こった。ミーサに関するある事柄に閃きを得て、その検証を始めたのである。僕はハイ子を手に取り、インターハイから帰って来た翌日の八月六日のメールを検索し、該当する智樹のメールを読み返すことで、あの時のミーサの言葉を思い出した。
『福井さんへの推測は憎らしいほど完璧ですが、私の戸惑いは的外れもいいとこです』
 日記も確認したから、これで間違いないはず。僕はあの日以降、この的外れについてミーサと幾度も話し合おうとしたが、様々な出来事が立て続けに発生してそれは叶わなかった。いや正確には、ミーサがそれを避けている節があったので、何らかの推測が立つまで口を閉ざしていたのだ。よってそれへの閃きを得た今、僕は背もたれから身を起こし、両手の中のハイ子へ語り掛けた。
「ミーサが八月六日に言った、『私の戸惑いは的外れ』について、話していいかな」
「いいえ、ダメです」
「うん、じゃあ止めるね」
「違います。お兄ちゃんにはこくでしょうから、私が話すという意味です」
「わかった、ミーサの意思を尊重するよ」
 瞑目した僕へ、ミーサは明かした。
「私達AIに、忘却はありません。全ての情報をすぐ取り出せる状態で保管しているのが、私達AIです。対して人は記憶を忘れ、また呼び覚まされた記憶も多くの場合、時間と共に精度を失っていきます。情報を呼び出す速度、及び情報の量と精度において、人は量子AIに決して勝てないのです」
 これは、かつてキャリアと呼ばれた人達が量子AIの普及を拒んだ理由であり、同時にこれは、国家公務員上級の試験が大幅に改定された理由でもあった。コンピューターのない時代には、多くの情報を記憶しそれを高速処理する補佐官が国家運営に必須だったが、量子AIの普及した国家には、異なるタイプの補佐官が求められたのである。事務処理と窓口業務も量子AIの仕事となったので公務員給与は激減し、汚職はもちろん無意味な公共事業等もなくなったため、量子AI誕生以前を暗黒行政時代と遠からず呼ぶようになると歴史学者は主張している。
 という具合に頭の中で考えられたのは、ミーサがその時間を作ってくれたからだ。考えがまとまったことを告げるべく、僕は感謝を込めて頷いた。ミーサの声が、再び鼓膜を震わせる。
「しかし、私達AIが人に絶対勝てない分野もあります。あの日、福井さんのメールを受け取ったお兄ちゃんがその好例です。お兄ちゃんはその直前まで福井さんを忘れていたのに、メールの着信音を耳にしただけで、内容を正確に把握しました。そうあれは把握であり、そしてそれは、演算による未来予測しかできない私達には、決して不可能なことなのです」
 人は自分の心を見るように、他者の心の中を見る事ができない。
 だが、良好な関係を築いた人達には心の共鳴が発生し、その共鳴によって、最も伝えたい事柄を言葉を介さず共有することならできる。
 思い込みや決めつけを排除しつづける人生を歩めば、人は比較的容易に、それを習得するものなのだ。
「お兄ちゃんと深く係わるAIの中で、私は最も劣っています。そのせいで、私はしばしば戸惑います。美夜姉さんなら、お兄ちゃんの成長を心から喜べても、性能の低い私は、お兄ちゃんのハイ子でいていいのか戸惑ってしまうのです」
 そうこれが、先ほど得た閃きだった。
 父のスピーカーならグランドピアノの微細なグニャグニャを正確に再現できても、それが不可能なスピーカーもある。それはAIにも当てはまり、AランクAIの美夜さんには可能でも、Cランクのミーサには不可能なことがある。僕はあの日、ミーサは智樹のメールという外的要因に戸惑ったと推測したが、それが的外れなら、ミーサは自分の性能という内的要因に戸惑ったのではないか。
 僕はそう、閃いたのである。
「でもお兄ちゃん、安心してください。凛と友達になってからは、自分の未熟さを受け入れられるようになりました。だって凛がそれを受け入れ、それをバネに成長しようとしているのに、私がそれをしなかったら、友達ではいられなくなりますからね」
 僕は瞼を開け、尋ねた。
「友達と一緒にいる時の僕が、役に立ったのかな?」
「そんなの言うまでもありません。私の友達づきあいは、お兄ちゃん直伝なのです!」
 パジャマパーティーの様子を嬉々として話すミーサに、つくづく思った。

 ――僕がこの星にいる内に、僕の友達づきあいをミーサが受け継いでくれて、本当に良かった――

  
  十六章、了
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