僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十六章

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「ふむ・・・」
 祖父は瞑目した。その、真似しようにも決して真似できない静謐さに、
 ――祖父は今、八百万の神々の声を聴く手本を示してくれているんだ――
 との閃きが脳裏を駆けてゆく。そして数瞬後、それが正しかったことを知った。
「廉価版、という声を降ろされた気がします。ヒントになりますか」
 繰り返しになるが、八百万の神々の声を聴く手本を見せてもらえたのだから、それは凄まじく貴重な学びだったと思う。しかし個人的には、その手本に比肩する貴重な学びを、千家さんの表情から教わったようにも僕は感じた。廉価版というヒントを受け取った千家さんは、生涯忘れ得ぬ表情を浮かべて言った。
「はい、なります。そのヒントを胸に、私は私の役目をまっとうしていきます」
 ――この時代に生まれた意味を悟った瞬間、人はどのような表情をするのか? その解答の一つを千家さんは今、すぐ隣で見せてくれたんだ――
 脳裏を駆けたその閃きを胸にかき抱く。
 そしてこの瞬間この場所にいられた幸せを、僕は噛みしめたのだった。 

 それから祖母と貴子さんと翔子姉さんが自分好みの葉の色を選ぶ、賑やかな時間がかなり長時間続いたらしい。なぜ「らしい」かと言うと、僕はその場にいなかったから。祖母達が、自制心の効いた賑やかな状態から姦しい状態へほどなく移行するのは火を見るより明らかだったので、部活を口実に応接室から逃亡したのである。すがる眼差しで「儂を一人にしないでくれ!」と訴える祖父に精一杯の同情の眼差しで応え、契約書にサインし千家さんに断りを入れて、僕はその場を後にした。 
 調理時間が短く消化も早い麺類で昼食を済ませ、三十分の食休みを経て玄関を出た。祖父母に替わり社務所に詰めている龍叔父さんが、ゲンナリした顔で僕を見送ってくれた。髪飾りを選ぶ女性陣の姦しさを、相殺音壁でも消せないなんて事あるのかな。それとも、僕の逃亡から一時間半経っても社務所にたった一人でいる事を、ゲンナリしているのかなあ。
 その、約四時間後。偉大な二人の先輩が参加していない新忍道部に早く慣れなければ、という思いをまるっきり減らせぬまま、今日も部活を終えてしまった。それもあり、新忍道部員は時間が少しでもあれば、新モンスターのベヒモスについて議論を交わすのが恒例になっていた。ベヒモスは、「狒々と黒猿を上回る戦闘力を誇る、サタン攻略の足掛かりとなるモンスターを新たに加えて欲しい」というユーザーの声に応える形で、つい先日実装されたモンスターだ。黒水牛と獅子を掛け合わせたような、二足戦闘と四足突進を使い分けるベヒモスとまだ戦っていない湖校新忍道部は、きたるべき初戦闘の準備に一丸となって取り組んでいた。
 輝夜さんと昴が部活に励む二年生道場は新忍道部の練習場より神社に近く、また二人は夏休みのみ可能なAICA通学をしているので、同じ時間に部活を終えても大抵先に帰宅している。よって母屋からもれ出る二人の声を耳にするのは頬をほころばせる日常の一コマなのだけど、今日は本能的に口元を引き攣らせてしまった。僕は顔をゴシゴシこすり硬直した口元をほぐしてから、母屋の玄関を開けた。
 その十五分後、僕は昨日に続き、一人で夕ご飯の準備をしていた。二十三色の3D髪飾りに大興奮の三人娘から逃れるには、「夕食は僕が作るからみんなは楽しんでて」と言うほか無かったのである。まあでも、楽しげな三人娘の声を背中に聞きつつ台所に立つのは、間違いなく幸せな時間だった。家庭料理教室で習得した調理技術にも助けられ、僕は今日も鼻歌を歌いながら夕ご飯を作っていった。

 翌、三十一日。
 夏休み最後の日の、午後十二時十分。
 場所は、部室横の観覧席。
「撫子部の皆さんへ感謝し、いただきます!」
「「「「いただきます!!」」」」
 お弁当を拵えてくれた撫子部の方々へ、新忍道部全員で手を合わせる。そして、
「唐揚げ、ウメ――!」
「炊き込みご飯のおにぎり、パネ――!」
 大騒ぎしながら僕らはお弁当を食べた。マナー的にはアウトであり、また体育会系腹ペコ男子の食欲に撫子部の姫君達は呆然としていたが、
「なんか、いいね」
「うん、いい」
「自然と顔がほころぶ」
「男の子って、こうも喜ぶのね」
 六年の先輩方は姫君からお姉さんの顔になり、僕らをニコニコ見つめていた。杠葉さんは特にそうで、空になったコップに麦茶を注いでくれたり、喉を詰まらせた京馬や一年生達の背中をさすってくれたりしていた。そんな杠葉さんへ僕らは自然と、お袋さん的なイメージを抱くようになっていった。年齢的には失礼でも、美味しいご飯を食べさせてくれる心の温かな女性へ、年下男子は最大級の敬意と親しみを捧げるものなのである。その様子に真田さんは目じりを下げまくり、そしてそんな真田さんを、
「真田君は幸せ者ね」
「でも琴乃を泣かせたら、百倍泣かすからね」
 お姉さま方は半ば褒め半ば脅した。真田さんは僕の真似をしてあたふたし、観覧席に笑いの渦をもたらしていた。
 昼食を共にした撫子部員は、六年生全員にあたる八人と四年生二人の計十人だった。新忍道部へのお礼は引退する六年生が担うと杠葉さんに聞いていたので四年生がいたことに少し驚いたが、お二人の立ち居振る舞いを見るにつれ閃くものがあった。よって美鈴の兄としてお二人を訪ね謝意を述べ、会話を重ねたところ、閃きは確信に変わった。すると丁度その時、
「ほら、同級生の女の子にお礼を言え。竹中、菊池」
 荒々しくも面倒見のすこぶる良い狼王に連れられ、竹中さんと菊池さんがやって来た。最初こそ荒海さんと僕の加わった六人で話していたが、同級生の四人は気が合ったらしくすぐ打ち解けたので、お邪魔虫は退散する運びとなった。「でかした眠留」「荒海さんこそナイスプレーです」なんて、僕らはコソコソと互いの健闘を称えていた。すると、
「俺も混ぜやがれ!」
 杠葉さんとラブラブなあまりキャラが崩壊中の真田さんが突如乱入した。加藤さんと京馬のお調子者コンビもすかさずそれに加わり、五人による即席お笑いショーが開幕した。それが巻き起こした大爆笑をもって、夏休み最後のお昼ご飯は終了したのだった。

 その、約一時間後。
 帰宅した僕は大離れに足を運び、クラシック音楽を楽しんでいた。仲間達と盛り上がるのもいいが、一人の時間を堪能するのも負けないくらい良いもの。お気に入りの曲をお気に入りの順に流すようステレオを操作し、安楽椅子に背を預けて、溢れる音に心をゆだねていた。
 最近、ドビュッシーのピアノソナタに惹かれ、集中的に聴いている。惹かれた理由は、
 ――音の鮮度
 が非常に高いから。音の鮮度という言葉がオーディオ界にはあり、そしてこのピアニストの奏でるドビュッシーには、鮮度の高い瑞々しい音が溢れていたのだ。
 音はしばしば海の波に似た波線で表され、その波が一秒間に440形成されると、それは440ヘルツの音に、つまり「ラ」の音になる。だが同じ「ラ」でも、ピアノとバイオリンとトランペットの音は違う。音程は等しくとも、まったく異なる音として耳に届くのだ。その仕組みを波で説明すると、こうなるだろう。
『一秒間に440の波が形成されるのは同じでも、一つ一つの波の形が異なるため、まったく異なる音になる』
 富士山は遠くから眺めると、滑らかで美しい形をしている。だが実際は滑らかさとはほど遠い、岩や起伏が無数にある、凸凹の斜面をしている。その凸凹がもっと顕著な、巨大な岩や深い谷を持つ奇怪な山も世界にはあり、そして楽器の形作る波は、その奇怪な山によく似ている。大きな出っ張りや深い窪みが幾つもあり、その出っ張りや窪みにも小さな凸凹が刻まれ、その凸凹にも微細なグニャグニャがみっしり付いているような、複雑な形状をしているのだ。この出っ張りや窪みの形が異なると、音程は同じでも異なる音になる。ピアノとバイオリンとトランペットがまるで違う音として聞こえるのは、こういう仕組みなのだ。そして個人的意見だが、音の鮮度というオーディオ用語の正体は、「みっしり付いた微細なグニャグニャ」にあると僕は考えている。
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