僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十章

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 要望に沿うよう麦茶汁粉をカフェオレボウルに半分だけそそぎ、それを輝夜さんの前に置く。そして、
「あのですね、さっき美鈴にありがとうと言ったのは」
 さきほどの釈明を、僕はおずおず始めた。輝夜さんは眉を寄せつつ笑顔を浮かべるという、漫画文化伝統の「仕方ないなあ」の表情でダメ男の言い訳に付き合っていたが、やはりそこは翔人。体重を感じなくなった箇所からは、瞳を輝かせ身を乗り出して話を聴いてくれた。
「私も同じような話を小説で読んだことがある。剣聖塚原卜伝が、腰の高さに密生した草にゴザを乗せて、その上で座禅したの。でも草は、塚原卜伝なんていないように殆ど曲がらなかったから、わたし夢中になっちゃって」
 理系翔人と言って差し支えない輝夜さんは、重力軽減武術に多大な興味を覚えた時期があるらしい。輝夜さんほどではないにせよ、格闘小説好きの父の蔵書を読みふけった時期なら僕にもある。僕らは競い合い、それ関連の話を挙げて行った。
「軽功の達人が幼少期に受けた訓練に、こんなのがあった。初めは、水に浮かべた大きな丸太の上を走る。風のように駆け抜けられるようになったら、丸太を少しずつ細くしてゆく。丸太から棒を経て小枝になり、最終的には、水に浮かべた落ち葉の上を主人公は走り抜けるようになるんだ」
「軽功は私も読んだ。初めは馬車と同じくらいの大きさの、石製のお椀のふちを走るのだけど、そのお椀がどんどん小さくなってゆくの。材料も石から木に代わり、主人公はとうとう、竹で編んだ籠でもそれができるようになる。主人公の女の子と同じで私も背が低かったから、時間を忘れて読んじゃった」
 中国武術では子供の体型を分類し、それぞれにあった武術を習得させるのだと言う。小柄で身軽な輝夜さんは伝説的な軽功の達人になっただろうなあ、などと想像を膨らませていたら、ふとある光景が脳裏をかすめた。
 ―― 北宋時代の中国、僕ら姉弟と偶然出会い友情を結んだ道教の少女は、軽功の達人で――
「もしも~し。眠留くん、戻っておいで~」
 ハッとして意識の焦点を現在に合わせる。脳裏をかすめただけでなく、僕はどうやら過去世に潜ってしまっていたようだ。頭を掻く僕に、輝夜さんは過去と現在を繋ぐ笑みになり、初めて聞く話をしてくれた。
「白銀家に連なる者は翔人であるか否かに関わらず、男は棒術を習い、女は薙刀を習う。そして私の知る限りそのどちらにも、中国武術の軽功にあたる分野はない。なのに私は、兄は知らないけど少なくとも私は、本で読んだ軽功と同じ鍛錬を子供の頃から受けてきたの」
 物心つく前から、輝夜さんは地面に置いたレンガの上を歩いていたと言う。明瞭な記憶のある三歳の時点で、不揃いに置いたレンガの上をスキップしながら移動していたそうだから、相当早くにその訓練を始めたはずだ。レンガは最初、最も大きな面を下にして安定第一で置かれていたが、幼稚園入園日に横置きに替わり、小学校入学日に縦置きとなった。薙刀も好きだったがその訓練が大好きだった輝夜さんは、横回転や縦回転をしながら次のレンガに飛び移ったり、目線より高い場所にあるレンガへ跳び上ったりすることを、遊び感覚で次々体得して行ったそうだ。輝夜さんにとても優しかった父方の祖父はそんな輝夜さんに目じりを下げ、薙刀道場へ連れて行こうとする母親を押しとどめて、それを好きなだけさせてくれた。小学四年生の春、祖父が他界してからは道場に籠りっ放しの日々が続いたが、それでもこっそり鍛錬を行い、母方の祖父母の家で暮らす今もそれを続けていると言う。レンガの鍛錬が白銀家伝統のものなのか、それとも孫娘の素質を見抜いた祖父が独自に行ったものなのかは定かでないが、「体に染み込んだこの技を祖父の形見として生涯磨いていくつもりなの」と輝夜さんは微笑んだ。それは体育祭の銀河の妖精で披露した神業的身軽さの持ち主に相応しい、風に吹かれ空へ舞い上がる、綿毛のような笑顔だった。
 その笑顔に胸を揺さぶられ、「過去と現在の共通点」も「輝夜さんにしては強引に話題を変えたものだな」との想いも忘れてしまった僕は、猫将軍家の武術と軽功の類似性について明かした。
「美鈴は分からないけど僕はまだ、重力軽減系の翔刀術を習っていない。ただ身軽さの訓練なら、運動音痴が治った小学四年生から受けている。そして『身軽さの師匠は空』というのは、僕と美鈴と祖父に共通している事なんだ」
 空の訓練の基本は、受け身だった。運動音痴いかんに係わらず、通常の受け身なら翔刀術の基礎として七歳の頃から習ってきたが、空の施すそれは二つの点が大きく違っていた。一つは、木刀を持ってする事。そしてもう一つが、高速移動しながら行うことだ。「眠留が学んできたのは対人戦用の受け身。私は眠留に、人の数十倍の間合いを持つ魔物との戦いで役立つ受け身を教えましょう」 魔物との戦闘は未経験でも魔物の間合いが人の数十倍もあるのは想像できたから、僕はそれを一心に学んだ。早歩き中の前転受け身から始まったそれは、二年半後には全力疾走中の受け身になっていた。疾走エネルギーを殺さず逆に活かし、高速受け身で跳ね起きて、全力疾走へ戻ってゆく。これを前転だけでなく側転、後転、前宙、側中、後宙をしつつ行い、かつそれらを組み合わせ連続技にすることを空は命じた。土を固めた地面はもちろん道場の床で連続受け身をしても耳障りな音がしなくなった小学六年生の終わり、僕はやっと受け身の基礎の合格点をもらえた。空の指導はそれ以降受けていないが、僕が合格したのは基礎でしかないから、機を見て訓練は再開されるだろう。そしてその中に、虚構として読み飛ばした重力軽減技術が、あるのかもしれない。「翔体にいるのか肉体にいるのか判断付かない経験が、僕にそう思わせるようになったんだ」 そう締めくくり、僕は自分の話を終えた。
「眠留くんがクリスマス会で披露したのは、精霊猫の空が教えてくれた刀術だったのね。お師匠様は私と昴に、あの刀術に似た訓練をまだしていないけど、う~ん・・・」
 輝夜さんは当初、全身から光を爛々と放ち僕の話を聴いていたが、途中から眉をしかめ口をへの字にして、何かをしきりと悩み始めた。僕は慌てて、水晶に口止めされているなら無理しないでねと伝えた。のだけど、
「お師匠様に命じられたら悩んだりしないよ」
 輝夜さんはすぐさまそう切り返した。しかもそれを、何を言っているのかしらこの人は、という呆れ顔で口にしたものだから、僕はテーブルに額が触れるほど項垂れてしまう。輝夜さんはクスクス笑い、僕の頭を優しく撫でて誤解をといてくれた。
「私が悩んでいたのは、ここに昴がいないことなの。重力軽減については喉から手が出るほど眠留くんと話し合いたいけど、それは昴も同じはず。おじさんのパーティーに急遽同行することになった昴を思うと、こんなに重要な話を昴不在で進めて良いのかなって、考えずにはいられなかったんだ」
 そうなのだ、昴は急遽、おじさんが出席するパーティーに同行しなければならなくなったのである。輝夜さんと同じく昴も部活を午前で止め、午後をプレゼン審査に充てる予定を立てていた。しかし帰宅間際に小離れから離れられなくなった輝夜さんに触発され、「私も中離れでノルマをこなしていいかな」と昴は僕に請うてきた。それを叶えるべく僕は予備のコタツを中離れに運び、昴は美鈴と一緒に夕食会と麦茶汁粉の算段を付けていたのだが、「パーティーを主催される先生が昴に会いたがっている、すぐ帰宅しなさい」とおじさんから電話がかかってきた。プレゼン審査のため部活を午前で終えたことが、仇になってしまったのだ。おじさんの恩師であるその先生とは家族ぐるみの付き合いをしていて断り切れなかった昴は、僕らに謝罪し帰って行った。一番気落ちしているのは自分のはずなのに、楽しみを壊しちゃってゴメンネと何度も頭を下げる昴の姿を思い出すと、「こんなに重要な話を昴不在で進めて良いのかな」という輝夜さんの気持ちに、僕は最大級の賛同を示さずにはいられなかった。よって、
「輝夜さん、続きは三人の時にしよう」
 僕は宣言した。すると、
「眠留くん偉い、カッコイイ!」
 一瞬の迷いもなく即断した僕へ、輝夜さんは最大級の賛辞を贈ってくれたのだった。
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