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六章
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「うんいいよ。なあに、兜さん」
兜将子さんという名のその女の子は、同じ短距離走者であることと、翔子姉さんと同じ響きであることと、そして名前と性格のギャップから、最初にフルネームを覚えた女子陸上部員だった。
「ありがとう猫将軍君。夏菜、早く早く」
たわいもない事にお礼を述べてくれた兜さんは、ぴょんぴょん飛び跳ね両手をぶんぶん振り、人を急かせる仕草をした。そうこの子は、兜将子という男子顔負けの勇ましい名前とはある意味真逆の性格をした、人の好い善人なのである。もっとはっきり言えば、人が良すぎて面倒事を押し付けられてしまうタイプだった。聞くところによると兜さんは、小学校で学級委員長をしなかった事がないらしい。表面上は推薦という形を取っていても、実際は面倒事を押し付けられているだけなのに、兜さんは委員長をほんわり明るくやり続けた。それが次第に認められてゆき、最後は雲に届くほどの人望を集めた生徒会長になったそうだから、彼女は間違いなくひとかどの人物なのだろう。ただ、これまた聞くところによると、兜さんはそんな学校生活に本当はストレスを感じていて、それを発散すべく夜の公園で走り込みをしていたと言う。それが実り県大会で決勝を走るほどの短距離選手になったのだからあれで良かったのだろうと、兜さんの幼馴染は話していた。というかこれら全ては、その幼馴染の女の子が教えてくれた事なんだけどね。その子こそが、
「猫将軍君、お願いがあるの」
と、こっちへ走って来てポツリと呟いた、那須夏菜さんだ。兜さんほどではないにせよ、この子も名前と性格にギャップがある。那須夏菜という、那須高原の夏の草木を連想する名と、晩秋の森で木枯らしに吹かれているような性格のギャップが、印象に残る女の子なのだ。でも僕がこの子に抱く最も強い印象は、新忍道サークルの菊本さんに似ているという事だった。寡黙であっても心根の温かな菊本さんと、落ち葉舞う枯れ木の森に一人佇む無表情少女であっても芯の優しい那須さんは、印象が非常に似ていたのである。それもあり僕は那須さんへ、とても好感を抱いていた。それが那須さんにも伝わったのか、ヘタレ男子と無表情少女のコンビとしては、僕らは頻繁に会話する仲になっていた。兜さんのことを僕が比較的詳しく知っていたのも、僕らが良い関係を築いている証拠なんだろうね。
しかしそれでも、
「うんいいよ。できることなら何でもするよ」
そう応えた僕に、那須さんが声としても表情としても抑揚なく、
「猫将軍君のラストスパート、教えて」
と呟いたとたん、
「ええっ、那須さんにラストスパートを教えるの!」
僕は驚愕しのけ反ってしまった。体育祭の四位でしかない僕が、全国陸上小学生大会で800メートル決勝を走った那須さんを教えるなど、絶対許されないと思ったのだ。けど、
「許可は取ってる、安心して」
那須さんは抑揚のなさをあくまで貫く。僕は反射的にグラウンドを見渡し、長距離選手のリーダーでもある三年長を探した。それを予期していたのだろう、こちらに体を向けていた三年長は僕と目が合うなり、頭の上に両手で大きな丸を作った。そしてその手を下ろし、今度は口の前に両手でメガホンを作って「そいつら全員」と大声で言った。嫌な予感がして、周囲へ恐る恐る目をやる。すると短距離長距離男子女子の区別なく、大勢の一年生部員が僕の周りを取り囲んでいた。顔を盛大に引きつらせた僕へ、同学年の野郎どもが声を揃える。
「「「制裁は強烈だって言っただろコノヤロウ!」」」
「ひええ、ごめんなさい~~」
頭を抱えてうずくまる僕を中心にして、笑いの渦がどっと広がったのだった。
逃げられないと諦め改めて周囲を見渡すと、徒競走の選手だけでなく、バネを多用する高跳びや幅跳びの選手も複数混ざっていた。僕は基本から話す許可を那須さんに求めた。
「ええっと、釈迦に説法だろうけど、靭帯の反発力を用いるバネ走りは膝とアキレス腱に負担がかかるって事から、始めていいかな?」
那須さんは無言でコクリと頷く。覚悟を決め、僕は話しだした。
「僕は脚を前後に出す角度を、大まかに三つに分けている。角度が一番大きいのは、筋力主体で走るスタートダッシュ。次に大きいのは、筋力とバネの両方で走る70メートルまで。そして角度が一番小さいのが、バネ主体で走るラストスパートだ。けど『歩幅』は正反対で、スタートが一番狭く、ラストが一番広い。その種明かしの前段階として、膝の専門家である猛に、膝の怪我について説明してもらいたいんだけど、いいかな?」
「俺かよ!」
僕を取り囲む同級生達の最前列、那須さんと兜さんのすぐ横にいた猛は、自分の顔を指さし大げさに驚いた。でもそれはただの演技であることを知っている僕は、いや僕ら二人は、阿吽の呼吸で引継ぎを完了させた。
「膝の怪我は、蝶番に譬えると理解しやすい。たとえばこんな感じにジャンプすると、着地したとき蝶番に負荷がかかる」
猛は膝を軽く曲げ、ささやかな垂直跳びをした。先月まではこんなこと絶対させられなかったが、今の猛なら問題ない。極々軽い両脚ジャンプは安全性の高いリハビリとして、医療AIから推奨されているくらいだからね。
「こんな感じの軽いジャンプならまだしも、全力ジャンプや全力疾走時は、何トンもの負荷が蝶番にかかる。だから体は蝶番を守るため、二つの策を講じた。一つは、蝶番を頑丈にするという策だ。これは理解しやすい正攻法だから説明不要だろう。しかしもう一つは正攻法とは言い難い、奇策だった。それは蝶番を固定する部分を、あえて弱く作るという策だったんだよ」
兜将子さんという名のその女の子は、同じ短距離走者であることと、翔子姉さんと同じ響きであることと、そして名前と性格のギャップから、最初にフルネームを覚えた女子陸上部員だった。
「ありがとう猫将軍君。夏菜、早く早く」
たわいもない事にお礼を述べてくれた兜さんは、ぴょんぴょん飛び跳ね両手をぶんぶん振り、人を急かせる仕草をした。そうこの子は、兜将子という男子顔負けの勇ましい名前とはある意味真逆の性格をした、人の好い善人なのである。もっとはっきり言えば、人が良すぎて面倒事を押し付けられてしまうタイプだった。聞くところによると兜さんは、小学校で学級委員長をしなかった事がないらしい。表面上は推薦という形を取っていても、実際は面倒事を押し付けられているだけなのに、兜さんは委員長をほんわり明るくやり続けた。それが次第に認められてゆき、最後は雲に届くほどの人望を集めた生徒会長になったそうだから、彼女は間違いなくひとかどの人物なのだろう。ただ、これまた聞くところによると、兜さんはそんな学校生活に本当はストレスを感じていて、それを発散すべく夜の公園で走り込みをしていたと言う。それが実り県大会で決勝を走るほどの短距離選手になったのだからあれで良かったのだろうと、兜さんの幼馴染は話していた。というかこれら全ては、その幼馴染の女の子が教えてくれた事なんだけどね。その子こそが、
「猫将軍君、お願いがあるの」
と、こっちへ走って来てポツリと呟いた、那須夏菜さんだ。兜さんほどではないにせよ、この子も名前と性格にギャップがある。那須夏菜という、那須高原の夏の草木を連想する名と、晩秋の森で木枯らしに吹かれているような性格のギャップが、印象に残る女の子なのだ。でも僕がこの子に抱く最も強い印象は、新忍道サークルの菊本さんに似ているという事だった。寡黙であっても心根の温かな菊本さんと、落ち葉舞う枯れ木の森に一人佇む無表情少女であっても芯の優しい那須さんは、印象が非常に似ていたのである。それもあり僕は那須さんへ、とても好感を抱いていた。それが那須さんにも伝わったのか、ヘタレ男子と無表情少女のコンビとしては、僕らは頻繁に会話する仲になっていた。兜さんのことを僕が比較的詳しく知っていたのも、僕らが良い関係を築いている証拠なんだろうね。
しかしそれでも、
「うんいいよ。できることなら何でもするよ」
そう応えた僕に、那須さんが声としても表情としても抑揚なく、
「猫将軍君のラストスパート、教えて」
と呟いたとたん、
「ええっ、那須さんにラストスパートを教えるの!」
僕は驚愕しのけ反ってしまった。体育祭の四位でしかない僕が、全国陸上小学生大会で800メートル決勝を走った那須さんを教えるなど、絶対許されないと思ったのだ。けど、
「許可は取ってる、安心して」
那須さんは抑揚のなさをあくまで貫く。僕は反射的にグラウンドを見渡し、長距離選手のリーダーでもある三年長を探した。それを予期していたのだろう、こちらに体を向けていた三年長は僕と目が合うなり、頭の上に両手で大きな丸を作った。そしてその手を下ろし、今度は口の前に両手でメガホンを作って「そいつら全員」と大声で言った。嫌な予感がして、周囲へ恐る恐る目をやる。すると短距離長距離男子女子の区別なく、大勢の一年生部員が僕の周りを取り囲んでいた。顔を盛大に引きつらせた僕へ、同学年の野郎どもが声を揃える。
「「「制裁は強烈だって言っただろコノヤロウ!」」」
「ひええ、ごめんなさい~~」
頭を抱えてうずくまる僕を中心にして、笑いの渦がどっと広がったのだった。
逃げられないと諦め改めて周囲を見渡すと、徒競走の選手だけでなく、バネを多用する高跳びや幅跳びの選手も複数混ざっていた。僕は基本から話す許可を那須さんに求めた。
「ええっと、釈迦に説法だろうけど、靭帯の反発力を用いるバネ走りは膝とアキレス腱に負担がかかるって事から、始めていいかな?」
那須さんは無言でコクリと頷く。覚悟を決め、僕は話しだした。
「僕は脚を前後に出す角度を、大まかに三つに分けている。角度が一番大きいのは、筋力主体で走るスタートダッシュ。次に大きいのは、筋力とバネの両方で走る70メートルまで。そして角度が一番小さいのが、バネ主体で走るラストスパートだ。けど『歩幅』は正反対で、スタートが一番狭く、ラストが一番広い。その種明かしの前段階として、膝の専門家である猛に、膝の怪我について説明してもらいたいんだけど、いいかな?」
「俺かよ!」
僕を取り囲む同級生達の最前列、那須さんと兜さんのすぐ横にいた猛は、自分の顔を指さし大げさに驚いた。でもそれはただの演技であることを知っている僕は、いや僕ら二人は、阿吽の呼吸で引継ぎを完了させた。
「膝の怪我は、蝶番に譬えると理解しやすい。たとえばこんな感じにジャンプすると、着地したとき蝶番に負荷がかかる」
猛は膝を軽く曲げ、ささやかな垂直跳びをした。先月まではこんなこと絶対させられなかったが、今の猛なら問題ない。極々軽い両脚ジャンプは安全性の高いリハビリとして、医療AIから推奨されているくらいだからね。
「こんな感じの軽いジャンプならまだしも、全力ジャンプや全力疾走時は、何トンもの負荷が蝶番にかかる。だから体は蝶番を守るため、二つの策を講じた。一つは、蝶番を頑丈にするという策だ。これは理解しやすい正攻法だから説明不要だろう。しかしもう一つは正攻法とは言い難い、奇策だった。それは蝶番を固定する部分を、あえて弱く作るという策だったんだよ」
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