僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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六章

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 猛の話を聴いていた部員全員が「あえて弱く作る」の箇所で、その顔を驚きに染めた。無表情少女の那須さんですら、眠たそうないつもの半眼を一般平均レベルまで広げて猛を凝視している。僕は共同研究者のプレゼンスキルに、感嘆せずにはいられなかった。
「幾ら頑丈に作ろうと、物は壊れる。体が蝶番をどれほど頑丈にしようと、許容以上の負荷がかかれば、やはり蝶番は壊れてしまう。さあ、想像してみてくれ。高度な技術を投入し造り上げた頑丈な蝶番がひとたび壊れたら、修復は容易だろうか? そう、頑丈だからこそ、元通りに復元するのは難しくなるのだ。だから人体は蝶番が完全に壊れちまう前に、蝶番を固定する個所に悲鳴を上げさせ、蝶番を守ろうとした。その箇所こそが俺が去年痛めちまった、十字靭帯っつうワケだな」
 正確には、十字靭帯は自然治癒しない。半月板等の軟骨も自然治癒せず、完治させるには医療技術に頼る他ない。だがそれでも、十字靭帯や半月板を痛めたからと言って、膝が欠損したり一生歩けなくなったりする訳ではない。日常生活に多少の支障はあっても、膝から下の部分を保持したまま、人は生涯を過ごす事ができる。猛は、それを言っているのだ。
 けれどもそれは、膝の大怪我に苦悩した猛だからこそ至った心境。それを知らない同級生部員達は、「さすが膝に詳しいな」「ヒュ~ヒュ~」との声を盛んに上げていた。人間のできた猛はそんな彼らに「当然だぜ」と胸をそびやかし、場の活気と明るさを保ってくれている。共同研究者への尊敬の念を更に高めた僕は、覚悟を新たに説明を再開した。
「猛ありがとう。じゃあ次は僕の番だね。分かりやすいよう、ちょっと走ってみるよ」
 僕はその場にしゃがみ、クラウチングスタートの姿勢を取った。進行方向にいた人達が、気を利かせて横へ避けてゆく。サンキューと目で伝えてから僕はスローモーションで、足幅を少々誇張しながら走った。
「スタートダッシュではこんなふうに、前脚をめいっぱい前に出して走る。だから脚を開く角度は一番大きくなるけど、スタート直後だからスピードは遅いし、膝も直角になるほど曲げているから」
 ここで一旦言葉を切り猛へ顔を向けた。猛は頷き、親指をグイッと立てる。目で感謝を伝え顔を戻し、僕はスローモーションのスタートダッシュに集中した。
「スタートした直後の眠留の膝は直角に曲がっており、この時点における膝関節の負担は少ないと言える。また速度も遅いため、脚を開いた幅がそのまま歩幅になる。スピードが乗って来るからこそ、歩幅は広くなって行くんだな」
 口下手な僕より猛の説明の方が数倍巧いと確信した僕は、当初の予定を変更し、説明の全てを猛に任せることにした。僕は再度猛に顔を向け、口の端に手を持って行きそれを横に動かし、ファスナーを閉じるジェスチャーをする。猛は苦笑するも、ニカッと爽やかに笑ってくれた。
 それを受け僕はクルッと方向転換し、今度は筋力とバネを誇張して走った。阿吽の呼吸で猛の解説が入る。
「筋力とバネで走るようになると、膝の負担は一気に高まる。スピードが乗ってきたのもさる事ながら、膝を曲げる角度が広がったのも、負担が激増する理由の一つだな」
 猛は僕に目配せして地に片膝着いた。僕は歩幅を微調整し、猛の正面に僕の膝が来るタイミングで静止する。猛は目の前の僕の膝を指さし話した。
「膝の角度が広いほど、蝶番への負担も大きくなる。すねと太ももを連結する蝶番はこの時、前方へ弾け飛びそうになっていると言っても過言ではない。それをさせぬため体は蝶番に蓋をかぶせ、脛の筋肉と太ももの筋肉で蓋を固定した。それが膝蓋骨、つまり膝のお皿だ。よって皿の上下が痛んだら、それは皿を固定する紐の悲鳴かもしれないから、医療AIの診断をすぐ受けてくれ」
 皆の注目が膝に集まる気配を察知した僕は、ふくらはぎと太腿ふとももに力を入れ、筋肉の線を浮かび上がらせた。それに合わせ、猛は僕の膝の上に両手を添え、手をポ~ンと開き、蝶番がはじけ飛ぶジェスチャーをする。膝を多用する陸上部員にとって今のジェスチャーは、心を大いに騒がせるものだったのだろう。女子部員の中には、恐怖に顔を引き攣らせている子もいるほどだった。でもね、と僕は心の中で語りかけた。むやみやたらに膝を酷使し陸上競技を断念せざるを得なくなる方が、比較にならないほど恐いことなんだよ、と。
 とはいえ空気を変える必要性も感じていたため、スローモーションを再開して2メートルほど進み、皆が落ち着きを取り戻す時間を設けた。身をすくませていた女の子たちが平静を取り戻すのを目の端に捉えた僕はクルッと180度ターンし、最後のバネ走りへ移る。そして再び、猛の前で制止した。
「全力疾走中、最も速度が出るのは70メートル付近で、続く30メートルは少しずつ減速してゆく。よってバネ走りに切り替え、最高速度を維持するのが勝敗を決する要素となるが、それは同時に、膝の負担を極大にしてしまう。なぜならその時、膝の角度は全力疾走中、最も開いているからだ」
 猛は今回、膝の角度が開いたことを指で示しただけで、蝶番がはじけ飛ぶジェスチャーをしなかった。その代わり、猛は僕のアキレス腱に指を向けた。そうなることを予想していた僕は誇張した爪先走りをして、踵を地面からめいっぱい遠ざけていた。
「同じく30メートルのバネ走りは、アキレス腱への負担も極大にする。皆も知っているように、俺は膝とアキレス腱の両方を痛めていた。去年の陸上大会、決勝のラストスパートのゴール直前、俺は膝とアキレス腱をズタボロにしてしまった。だからみんな、忘れないでくれ。ラストスパートは勝敗を左右すると同時に、競技人生を続けられるか否かを左右する、瀬戸際でもあるという事を」
 場がシン、と静まる。それは皆の心に、「ラストスパートは諸刃の剣」という事実を染み込ませるのに必要な時間だったので、僕はあえて何も言わなかった。とはいえそれを長引かせ過ぎると、後味が悪くなってしまう。よって僕は頃合を見計らい、猛に強烈なヘッドロックを噛ませて叫んだ。
「コノヤロウ、一人でいいとこ全部持って行きやがって!」
 すると間髪入れず同級生の野郎どもがどっと押し寄せてきて、猛を羽交い絞めにした。
「そうだぞコノヤロウ!」「抜け駆けするなコノヤロウ!」「テメェとにかくコノヤロウ!」「思い知りやがれコノヤロウ!」
「ギャハハ、くすぐりは止めろギャハハハハ~~!!」
 膝立ちが災いした猛は尻餅状態で、皆からくすぐられまくったのだった。
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