僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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五章

見取り稽古、1

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 翌八月十四日、午前五時半。僕は境内を箒掛けしていた。
 昨夜眠りに付いたのは、そろそろ十時になろうかという時間だった。それでも今朝、予定どおり三時五十分に起き、自主練をまっとうできたのは、一から十まで美鈴のお蔭。昨夜寝る前、美鈴は僕の額に両手を置き、心を睡眠に適した状態へ導いてくれた。熟睡の達人と呼ぶに相応しい美鈴のその助けが無ければ、紫柳子さんが狼嵐家の翔人であると知った興奮のせいで、僕は日付が変わる時刻になっても寝付けなかったかもしれない。仮にすぐ寝付けたとしても、六時間に届かない睡眠では、これほど爽快な朝は迎えられなかったはず。僕が今こうして快適に過ごせているのは、ひとえに美鈴のお蔭なのである。まこと僕にはもったいなさ過ぎの妹へ、僕は心の中で手を合わせた。
 ありがとう、美鈴。

 本殿の周りを済ませ、拝殿に取りかかる。それも終え、続く参道を半ばまで掃き清めたところで、いつものように後ろから銀鈴の声が掛かった。
「お早う眠留くん。毎朝の箒掛け、お疲れ様です」
「お早う輝夜さん。今日も稽古に、励んで下さい」
 輝夜さんと毎朝こうして挨拶を交わすようになり、そろそろ四週間。夏休み初日の第一日目も、それから三週間と四日を経た今日も、喜びの鮮度にいささかも目減りがないのだから、輝夜さんもまこと僕にはもったいなさ過ぎの女性なのである。
「今朝の眠留くん、いつもより明るい空気を纏ってるね。昨日のお休みが、とっても楽しかったのかな?」 
 輝夜さんは手を後ろに結びにっこり笑い、ちょっぴり前かがみになって問いかけた。可憐なその仕草に、
 ――命を懸けて守るべき人
 との想いが胸に募ってゆく。しかし同時に、制服のスカートをひらりと舞わせたその仕草は、伸びやかで張りのある脚をいつも以上に露わにし、ちょっぴり前かがみのその姿勢は、ブラウスの第一ボタンに胸元へ続く蠱惑的な空間を形成していた。騎士道精神に身を捧げながらも、脚や胸元へ目線が行ってしまいそうになる自分を、僕はあらん限りの気力でねじ伏せねばならなかった。
 という百分の一秒の激戦を征し、僕は輝夜さんとの会話を先へ進めた。
「うん、聞いて聞いて輝夜さん、昨日はね!」
 朝の稽古に支障が出ぬよう、昨日の出来事を極々手短てみじかに説明してゆく。その一つ一つを、輝夜さんは我が事のように聴いてくれた。けどそんな輝夜さんへ、僕はとっておきの話ができなかった。会話に充分な時間を割けない今はそれを口にすべきでないと、苦渋の決断を下したのである。それゆえ、最後にこう尋ねた。
「輝夜さん、僕は輝夜さんともっともっと話したい。できれば今日、十分ほど時間をもらえないかな」
 とっておきの出来事がまだ残っていると馬鹿正直に伝えたら、輝夜さんはそれを気に掛け、稽古に集中できなくなるかもしれない。よって、もっともっと話したいという言葉を使い真意をぼかしたのだけど、それは完全な間違いだった。なぜなら、もっともっと話したいという言葉こそが馬鹿正直の極みだったため、僕はそれを無意識に、歴代最高の熱意でもって伝えてしまったからだ。
「はい、承知しました。お師匠様の稽古を終える午前十一時以降でしたら、いつでも構いません。眠留くんの都合の良い時間を、後で教えて下さい」
 輝夜さんは顔も耳も首筋も真っ赤にしてそう言ったのち、瞳を潤ませ「待っています」と小さく小さく呟き、走り去って行った。
 一分後、頭を抱えて参道にうずくまる僕の頭頂に、きつい叱責が突き刺さった。
「眠留アンタ、これから大事な稽古に臨む輝夜をあんなに舞い上がらせるなんて、なに考えてるの!」
 僕は頭を抱えたまま顔を上げ、仁王立ちする幼馴染に懇願した。
「違うんだ昴。助けて・・・」

 薙刀衣を寸分の隙もなく身に付け、参道の上で跪座になり、昴は合点のいった声で言った。
「なるほど、そういう事だったのね」
 ちなみに僕はジャージの半ズボンにTシャツという締まりのない姿で参道に正座し、背中を丸めて項垂れていた。誰がどう見ても、しっかり者の姉ができの悪い弟を叱っている図にしか見えないだろう。いや実際それで大差ないどころか、それでほぼ100%正解なんだけどね。
「私もお師匠様に教えてもらったわ。旧三翔家は他の翔人との出会いを祝うけど、新二翔家にその習慣はない。両家の当主が決めた事ならいざ知らず、眠留と輝夜のような偶然の出会いを、新二翔家は好まない。よって時間のない今は、言葉を濁そうと眠留は判断した。安心して眠留。私、きちんと理解できたから」
 僕は弾けるように顔を上げた。すると、艶やかな黒髪を襟足で軽く結った昴が、花がほころぶように笑っていた。昴は料理やスポーツをする際、髪をポニーテールにする。それはそれで昴の利発さが際立ち僕は大好きなのだけど、首筋の髪の生えぎわで柔らかく結ったこの髪形も昴の優しさを十二分に引き立ててくれるので、僕は飛び上がらんばかりに好きなのである。尻尾を振って転げまくる豆柴にならぬよう、僕はまたもや、渾身の努力で自分を制御せねばならなかった。そんな僕に、昴が優しく頷いた。
「眠留、大丈夫よ。お師匠様の計画が役立ちそうだから、お師匠様に頼めば、すべて解決すると思うわ」
「えっ、そうなの!」
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