僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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五章

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「どうしたんだい美鈴、なにか用があるのかな」
 顔が引きつらぬよう声が裏返らぬよう、そして下着を不自然に隠さぬよう、演技力を総動員し僕は微笑みかけた。とはいえこの聡明な妹に、大根役者の無様な演技が通じるわけ、絶対ないんだけどさ。
「ごめんねお兄ちゃん。断りもなく部屋に入っちゃって」
 しかし演技が通じずともこの優しい妹は、ありったけの努力を尽くした兄を労り、騙された振りをしてくれた。まこともったいなさ過ぎの妹へ、自然と顔がほころぶ。部屋の隅から座卓を持ってきて美鈴の前に置き、向き合うよう床に腰を下ろした。少なくともこれで、美鈴の視界からパンツを隠せたはずだ。僕は安心してあぐらをかいた。
「お兄ちゃんがお風呂からなかなか出てこないから、眠ってやしないかってHAIに何度も確認したの。その都度HAIは眠っていませんよって答えてくれたけど、私そわそわして堪らなくなっちゃって。悪いことだって解ってるのに、お兄ちゃんの部屋に来ちゃった。ごめんねお兄ちゃん」
 いやいや悪いのは長湯をした僕であり、美鈴に謝る要素など欠片もない。というか、美鈴がこの先どんな事をしようと、それを悪いだなんて僕は一生思わないだろう。これは妹への甘さではなく、美鈴の善悪判断能力を心底信じているが故の、僕の真情なのだ。
「そう判断したなら、それでいいよ。もし美鈴が判断を誤ったら、兄ちゃんがそれを教えてあげる。だから兄ちゃんの前では、安心して思うままに振る舞うんだよ」
 座卓の向こうで、美鈴は満点をちょっぴり超える笑顔を見せた。最近美鈴は美しさを一段増しただけでなく、以前よりほんの少し、僕に甘えるようになった。それはこの夏を最後に、妹としての自分が自分の中で小さくなってゆくことへの、ある種の償いなのではないかと僕は考えている。だからそれに応え、思う存分甘えさせてやるのも、兄である僕の務めなのだ。
「うんわかった。じゃあお兄ちゃんの部屋に来た目的を果たすね。まず初めに、今日はお昼寝をしているから睡眠不足は心配しないで。それでも寝るのが遅くなるとお兄ちゃんに心配かけちゃうから、つまらないけどなるべく早く終わらせるね」
 昼寝とは珍しいと思いつつ、僕は頷いた。
「お昼ごろ水晶に、可能ならお昼寝をしなさいって言われたから、午睡を二時間とったの。夕方、台所に水晶がやって来て、お兄ちゃんがもらったデジタル名刺を一緒に見なさい、お昼寝した甲斐があったねって、にっこり笑って消えて行った。お兄ちゃん、なんのことか分かる?」
 僕は膝をパシンと叩いた。その、意図した以上に小気味いい音に、僕が嬉しいなら私も嬉しいと全身で訴える妹へ、返答の核心部分をまず告げた。
「兄ちゃんは今日、翔人に会ったかもしれないんだ」
「良かったねお兄ちゃん、おめでとう!」
 真夏の太陽すら尻込みする光り輝く笑みで、美鈴はパチパチ拍手した。喜ぶ妹を待たせるのは悪いと思い核心を先に告げたのだけど、賢いこの妹は僕の気持ちを理解し、その気遣いを喜び、そしてその喜びを上乗せしたうえで、こうして拍手してくれているのだ。そんな美鈴を、物心つく前から一緒にいる僕はすんなり受け止められるが、真山は受け止められるだろうか。美鈴の聡明さと優しさが、重荷になりはしないだろうか。もしくは美鈴の美徳が、空回りしやしないだろうか。という心配の炎が一瞬、僕の胸を焼いた。だがそれこそいらぬ心配だと思いなおし、新忍道ショップでの出来事を、僕は美鈴に話していった。
「兄ちゃんは、そこで出会った紫柳子さんを、翔人だと推測している。そして紫柳子さんのデジタル名刺を見れば、その正否がはっきりするのだと思う。まあ水晶が出てきた時点で、ほぼ確定なんだけどね」
「うん、私もそう思う。で、お兄ちゃん。紫柳子さんはどんな人だったの?」
 それが知りたくて知りたくて堪りませんとまたもや全身で訴える美鈴の姿に、僕は心の中で、幼馴染にそっと手を合わせた。男と女は興味を覚える箇所がまるで違うと昴に教えてもらっていなかったら、美鈴の今の気持ちを察してあげられなかったかもしれないと思ったからだ。紫柳子さんの背格好や顔立ちは既に伝えていても、年頃の女の子である美鈴にとって、それは満足のゆく情報ではなかったのである。とはいえ無粋の極みである僕に、女の子が興味を抱く箇所などわかるワケがない。仕方ないので、僕は一番印象に残っている話をした。
「兄ちゃんが一番印象に残っているのは、子犬の話でね・・・」
 しかし予想に反し、それは美鈴が求めるどまん中の情報だったようだ。子供時代を共に過ごした子犬のエピソードに美鈴は満開の笑みを浮かべ、その命が失われたことに心からの哀悼を示し、そして新開発AIの現身うつしみである子犬を皆で可愛がってあげて欲しいという紫柳子さんの言葉に、涙をとめどなく溢れさせていた。話を聴き終え、美鈴は床の上に座り直し居住まいを正す。そして完璧な所作で、僕に頭を下げた。
「お兄ちゃんありがとう。紫柳子さんのお人柄を、私は知ることができました。さすがだね、お兄ちゃん!」
 年頃娘云々うんぬんは、どうやら僕の勘違いだったらしい。でも、容姿以外の情報を伝えなければならないとすぐさま気持ちを切り替えられたのはやはり昴のお蔭だし、なにより美鈴がさも嬉しげにニコニコ笑うので、僕も極上のニコニコ状態になってしまった。まあ美鈴になら、それで全然いいんだけどさ。
「じゃあ準備完了ってことで、名刺を見ようか」
「うん、そうしようお兄ちゃん!」
 充電中のハイ子を手に取り座卓の上で操作する。すると待ちきれないとばかりに、美鈴が身を乗り出してきた。そのとき僕は初めて、紫柳子さんと美鈴の決定的な類似点に気づいた。それは二人に共通する、どこまでも広がる清浄な空のような香りだった。それは富士の高嶺に深々しんしんと降る雪の音を裾野から捉えるような、極限まで薄められたものであるため、人類でこれを知るのは僕だけなのではないかと半ば信じていた香りだった。しかしそれは間違いだったことを、今僕は間接的に知った。美鈴が身を乗り出してきた際、紫柳子さんのAICAの車内を、まるでそこに居るかの如く思い出したからだ。
 ――潜在意識でのみ感じていた微細な残り香を、美鈴の香りが呼び水となって、表層意識に浮かび上がらせた――
 そのことに僕は今、ようやく気づいたのである。
「どうしたのお兄ちゃん。なんだかお兄ちゃん、名刺の件はもう全部わかっちゃいましたって、顔をしているよ?」
 幼馴染ほどではないにせよ、僕はこの妹にも、心を隠すことができないらしい。まあでもこの二人になら、それで全然いいんだけどさ。
「美鈴と紫柳子さんはよく似ているって思ったら、あの人が翔人でないわけ無いって、兄ちゃんはやっと気づいたんだよ。子犬の話で思い付いたことも、あるしね」
 にっこり笑って美鈴は応えた。
「お兄ちゃんと紫柳子さんも、とっても似ているよ。それに私も今の子犬の話で、ある翔家の名前を思い付いちゃった」
 僕もにっこり頷き、ハイ子を持った右手を座卓中央に置く。すると美鈴はもう一段身を乗り出し、頭をピッタリくっ付けてきた。でも不思議と気恥ずかしさを感じず、落ち着いてメール覧を空中に映し出す。じゃあ表示するよ、うん、というやり取りを経て、僕はメールを開くアイコンに触れた。そこには、

 新忍道本部執行役員 
 3DG専門店シリウス代表

  狼嵐 紫柳子

 そう、映し出されていた。
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