僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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五章

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 去年の夏の出来事だったから、その突発的豪雨を僕は覚えていた。半日足らずで台風直撃並の雨を広範囲に降らせたその積乱雲の集合体は、地域の交通網を至る所で遮断し、甚大な被害を山岳地帯にもたらしたことを記憶している。被害範囲が広く要救助者も多く、かつAI普及の最も遅れた地域の一つだったため、ロボット捜索もままならない場所が複数存在するとニュースは報じていた。そして担任が遭難したのは、捜索が最後になった場所の、まさに中心だったのである。
「最初の晩、担任は足の痛みに苦しんだ。大嵐になってからはそれに寒さと、寒さによる発熱と、そして死の恐怖が加わった。だがそんなのは序の口だった。正午近くに嵐が止み、気温が急上昇してから地獄が始まった。虫除けスプレーを使い切り、服に染みた虫よけ剤も大雨で洗い流されていたため、担任は無数の蚊に刺された。服の中に侵入した蚊が体中を刺しまくり、痒いなんてものではなかった。肌の露出している箇所は特に悲惨で、目は腫れのせいで瞼を開けるのが困難な状態だった。だが不穏な気配を感じ、瞼をこじ開け足の傷に目をやると、はえが傷に卵をびっしり産み付けていた。数えきれないうじに生きたまま全身をゆっくり食べられていく光景を幻視し、担任は発狂しそうになった。しかし発狂すると、卵を払い落せなくなる。その恐怖が勝って、担任は意識を保ち続けたそうだ」
 蚊に刺され過ぎたせいで脆くなった肌にも、蠅は卵を産み付けるようになっていった。熱心に卵を産む蠅の横で、脆くなった肌から染み出る体液を別の蠅が執拗に貪り、その隣で、腹を血で真っ赤にしたやぶ蚊が吸血針を突きたてている。担任はそんな自分を日のある内は直に見て、日が落ちてからは想像の目で見つづけた。そして遭難三日目の朝、グチャグチャになった皮膚と、その皮膚を食い破り体内に侵入しようとする巨大な蜈蚣むかでを担任は目にした。しかも、体の至る所でだ。正気を失った担任は全身全霊で叫んだ。なぜ私だけがこんな目に遭う。悪いことなど一つもしていない私が、どうしてこんなめに遭わなければならない。私は、何も悪くないんだ! するとその刹那、担任は心に轟く大音声を聴いた。その声はこう言ったそうだ。『選択はなされた』と。
「二階堂、その大音声には『最後の』に類似する言葉は添えられていなかったんだな」
 北斗が二階堂へ確認の問いかけをした。僕は信じられないモノを見る目を北斗へ向けた。北斗お前は、担任が陥っているこの状況を理論的に分析し、その先を予測することができるのか!
「俺は病院で担任から直接その話を聞いたから間違いない。選択はなされた。この一言だったそうだ」
 断言する二階堂へ北斗は無言で頷いた。そして、話は再開された。
「その声を聴いた直後、担任は感覚をすべて遮断された真っ白い世界に放り込まれたと言う。担任は初めそこを、死後の世界と思った。だが正気を取り戻し、冷静に考えられるようになっていると気づいてからは、ここは死後の世界ではないと考えるようになった。するとほどなく、穏やかな時間がやって来て、担任はいつの間にか深い眠りに入って行ったそうだ」
 その日のお昼、AIドローンが脳卒中で倒れている担任を発見した。すぐさまロボットヘリコプターが駆け付け、担任は救助され病院へ運ばれた。虫に食われた皮膚こそ最新の再生医療で復元できたが、脳卒中による全身麻痺は治癒不可能だったらしい。しかしそれでも、脳と量子コンピューターの直接通信だけは確保する事ができた。二日後、意識不明の状態から目覚め、自らの現状をAIから告げられた担任は、自分が子供たちに施してきた洗脳のすべてを、自供したと言う。
「AIの監視をすり抜ける旅行をしていた担任は所在不明者であり、災害による行方不明者と認知されていなかった関係で、俺が担任の遭難を知ったのは担任が救助された日の夜だった。その日は、俺がラグビー指導者を蹴り飛ばした日でもあった。俺はひっきりなしにやって来る電話とメールをすべて無視していた。ラグビー指導者を入院させ、傷害事件の容疑者になっていた俺は、担任が遭難中に味わった地獄を司法AIから聞かされていたんだよ。自分で言うのもなんだが、傷害事件の情状酌量を司法AIは進めていたんだろうな」
 それでも翌日になると、最も親しい友人らと連絡を取り合うようになり、そしてその翌々日には、月浜さんが家にやって来たと言う。月浜さんはもともと世話好きな人柄だったらしく、ここのところお世話になりっぱなしだった二階堂は、直接話したいというその子の希望を断り切れなかったのだ。「だってよう、月浜さんが兄貴達に会う絶好の機会を、俺の一存で奪う訳にはいかんだろ」と真顔でのたまう二階堂を、僕は本気モードのプロレス技で締め上げたかったが、3Dなので諦めるしかなかった。むむむ、次に会ったときは覚悟しろよ、この鈍感野郎め!
「ラグビークラブのマネージャーをしていた月浜さんは、蹴り飛ばしの件で警察の事情聴取を受けたそうだ。つうか本人は決して認めなかったが、あいつとの間に示談が成立したのは、月浜さんがあいつを説得してくれたからなんだ。それもあるし、その他諸々も数えきれないほどあったから、月浜さんの『面会できるようになったら担任に会いに行こう』という提案を拒否する事ができなかった。俺は首を縦に振った。そしてその日の夜、家に電話がかかってきた。俺は親父から知らされた。担任が、俺に会いたがっていると」
 月浜さんと約束した手前、断るわけにはいかなかったが、それでも二階堂は返答を保留してもらい寝ないで一晩中のたうち回った。しかし翌朝、自分と同じく一睡もしなかったことが明らかな月浜さんの来訪を受け、二階堂は覚悟を決めた。そしてそのまま、両家の親が用意してくれたAICAに乗り、担任が入院している病院へ向かったそうだ。
「ふと気づくと、俺達は病院のエントランスに立っていた。前の晩に一睡もしていなかったから車中で寝ていたのだろうと皆は言うが、俺達はずっと起きていた。訳が分からず混乱しかけた俺の前に警察官が現れ、俺達を3D面会室へ案内した。人工皮膚の大量移植による感染症を防ぐため、直接の面会はできなかったんだよ。その方がありがたいと率直に告げると、AIが会話を仲立ちしてくれた。俺達はAIから担任の謝罪の言葉と、自供に至る経緯を聴いた。不思議なのだが、たった一度耳にしただけなのに、俺達は経緯のすべてを一言一句たがわず記憶していた。面会後、月浜さんと確認したから間違いない。それは、こういうものだった」
 二階堂は一旦言葉を切り、深呼吸を繰り返した。僕と北斗も、同じように深呼吸を繰り返した。そして二人一緒に、二階堂へ準備完了のハンドサインを出す。出会ってから最も真剣な表情で、二階堂は了解のハンドサインを出した。そして、それを言った。

 
 新米教師のころは、子供達を洗脳している自分に気づかなかった。
 ある時、それに気づき私は思った。こんな事はしてはならない、止めよう。
 だが私は、止めないことを選択した。
 洗脳技術が未熟だったころは、度々それが発覚しそうになった。
 その都度思った。発覚する前に、もうこんなことは止めよう。
 だが私は、止めないことを選択した。
 洗脳技術が向上するにつれ、子供達の学校生活は凄惨になっていった。
 胸に激しい痛みを感じた私は思った。今度こそ止めよう。
 だが私は、止めないことを選択した。
 洗脳が日常化するにつれ、胸の痛みは消えて行った。
 それどころか快楽を覚えるようになった私はふと、止めようかなと思った。
 だが私は、止めないことを選択した。
 それから数十年は、止めようと思うことすら無かった。
 しかしある生徒を見るなり、胸に痛みが差した。
 私は恐怖した。
 この子のせいで人生がだいなしになると思った。
 私は洗脳技術のすいを集め、子供たちを完全支配下に置いた。
 それでも不安は消えなかった。その子を受け持った二年間、私は思い続けた。
 今すぐ洗脳を止め、全てを公表し、皆に謝罪しよう。罪を背負って生きよう。
 だが私は、そうしないことを選択した。
 私が選択したのは正担任から外れ、副担任になることだった。
 そうすることで、私は子供の洗脳を止めた。
 しかし三年後、洗脳が発覚した。
 私は自供しようという想いを捨て、自供しない選択をした。
 五百人を超える元生徒達の声は誤魔化せないと思ったが、私は誤魔化した。
 移動先で嘘を貫けないと思ったが、私は貫いた。
 そして、山道で足を滑らせた瞬間、洗脳の報いが始まったことを知った。
 だが私はそれを否定した。
 脚を痛め歩けなくなったことを知り、やはり始まったと思った。
 大嵐に見舞われ、
 高熱にうなされ、
 虫除け剤が切れ、
 虫に襲われ、
 虫に食い荒らされ、
 私はその都度、やはり始まったと思った。
 何十年も無視してきた良心は、私に訴えていた。
 報いが始まったことを訴えていた。
 だから私は良心を否定した。
 私は悪くないと、全身全霊で叫んだ。
 それが選択となり、私は無の世界へ追いやられた。
 だが、それで終わりではなかった。生きていることを知り私は理解した。
 あれは最後の選択ではない。私はまだ、やり直すことができる。
 私は四十数年ぶりに、正反対の選択をした。
 それがあなた達への謝罪と、洗脳の自供なの。
 二階堂君、私が悪かったです。
 心からお詫びいたします。
 申し訳ございませんでした。


「その他にも様々なことを話された俺達は、帰りのAICAの中で互いの記憶を照らし合わせ、担任の言葉を記録していった。今話した部分以外は早くもあやふやになりかけていたから、二人で必死になって思い出したよ。記録を終え安心した俺らは、気絶したように眠った。AICAを降りる前、AIに確認すると、俺達が寝たのは帰りだけだったとAIも言っていたな。今でも時々思うんだ。記憶が欠落している行きのアレは、なんだったのかなってさ」
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