僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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五章

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 二階堂はカラカラ笑っていたが、その笑いは文字通り空笑いだった。それでも僕と北斗は何も言うことができなかった。自分の笑いを空笑いにする事こそが、二階堂の望みだったからである。
「レスリングを止めたとき、お袋が陰で泣いていたと兄貴達から聞き、俺は考えた。それは幼稚園入園以来、初めて自分から進んでした、現状を変えるための行動だった。春休み中考え続けた俺は、あるアイデアを思い付いた。俺はクラス替えをした五年の自己紹介で震えながら言った。『僕のことは二階堂と呼んでください』 すると皆、あっけらかんとそれを受け入れてくれた。だが俺は、そんなみんなにすぐ応えられなかった。それでも春の小運動会で、クラス中のやつらが二階堂、二階堂と・・・」
 二階堂が声を詰まらせた。僕は急いでハンカチを取り出し、目の上に置いた。おじさんとおばさんが借りてくれたレンタルAICAのシートに、染みを作るわけにはいかなからだ。僕より素早く目にハンカチを置いた北斗は、置くだけにとどまらず、手の平で両目をギュッと押さえつけていた。
「皆から二階堂と呼んでもらえて、俺は嬉しかった。だから俺は、クラスのみんなにお礼をしたいと思った。だが、どうすれば良いか分からなかった。クラスメイトとどう接して、どう会話すれば良いか、俺にはまるで分からなかったんだよ。誰かと関わったりクラスで注目を浴びたりすると、俺は京馬と呼ばれてしまう。だからそう呼ばれないよう、なるべく人と関わらず注目も浴びない事ばかりを、俺は小学校入学以来、気にかけてきたからな」
 その告白を聴いた僕の心の中で、ある人への気持ちが変化した。そのある人とは、二階堂の最初の担任だった。
 僕はそれまでその担任に、怒りしか感じていなかった。卑劣な悪人に抱く怒りしか感じていなかった。けど、それが変化した。それは、恐ろしさだった。自分の行いが幼い二階堂の人間形成をどれほど害したかを、担任は理解しているのだろうか? 自分の行いが二階堂の貴重な学校生活をどれほど歪めたかを、担任は理解しているのだろうか? そして理解していないなら、定年間近のその担任は、どれほど多くの生徒に同じことをしてきたのだろうか? それに気づいた僕は、担任が創造した悪の巨大さを、恐れずにはいられなかったのである。
「クラスメイトとどう接し、どう会話すれば良いか分からなかった俺は、笑うことにした。皆が笑っていたら、俺も笑う。その一つだけをした。いや、お前らにはありのままを話そう。あのころの俺は力を振り絞っても、できたのはその一つだけだった。人と関わらず目立たずいるだけで精一杯だった俺は、新しいことを始める余力を、ほとんど持っていなかったんだよ。それでもとにかくお礼がしたかったから、クラスメイトが楽しく笑っていたら自分も笑って、周囲の人達の楽しさを損なわないよう努めた。俺にできたのは、その一つだけだったんだな」
 僕は心の中で、ただ謝っていた。二階堂すまん、二階堂すまん、そのとき僕がそばにいてやれなくて、二階堂すまん。
「すると暫くして、俺は思いもよらなかった事に気づいた。俺は、恵まれていたんだよ。家に帰れば笑うことができた俺は、家という避難場所を持っていた。だが世界には、避難場所を持たない人もいる。洗脳され、心の中の避難場所すら取り上げられた人達も、この世界にはいる。それなのに、恵まれている俺が殻に閉じこもっていてはいけない。このままじゃいけないんだって、俺はやっと思えるようになったんだな」
 二階堂のその言葉に僕は心の中で謝るのを止め、安堵の息を吐いた。けど北斗は、僕とは真逆の対応をした。北斗は鋭く息を吸ったのち緊迫感のある声で、
「それはお前の」 
 と呟き、口を閉ざしたのだ。するとすかさず、
「ったく。お前はわかってんだろ。俺はもう大丈夫だから、最後まで言っていいんだぜ」
 二階堂が北斗を促した。北斗は口元に厳粛な気配を漂わせ、目に乗せたハンカチを外す。そして二階堂へ体を向け、言った。
「それはお前の、洗脳がけたんだ。心の中の避難場所すら取り上げられていたのは、お前自身だ。自我の確立していない子供は、教師から洗脳されやすい。教育の二本柱の一つである集団生活を悪用し、子供の洗脳技術を磨いてきた教師が、数年前までかなりいたことが今は判明している。おまえはその洗脳教師の、犠牲者だったんだよ」
「やれやれ、正義感と使命感の自己陶酔状態と言葉を濁したのに、やっぱ北斗は全部お見通しだったか」
 お手上げのジェスチャーをしつつも嬉しげな二階堂へ、僕は内心ぼやいた。「あのう、僕はそんなの、これっぽっちも思わなかったんですけど・・・」
 だが、心の中でひっそりぼやくだけのヤツなど放って置けとばかりに、北斗と二階堂は二人だけで会話を先へ進めて行った。盛り上がる二人の様子に、AICAから体がすり抜け夜の暗がりに一人取り残される光景を幻視した僕は、洗脳という言葉を聞いたとき心の片隅がざわめいたことを思い出し、必死で言葉を紡いだ。
「あ、あのね二階堂。さっき北斗が怒ったとき、二階堂は『安心してくれ』って言ったよね。あのときは聞き流しちゃったけど今思い返すと、あれは『クラスメイト達も洗脳から外れたから安心してくれ』って意味だったのかな?」
「ああ、あいつらも無事、元の自分を取り戻したよ。だからほら、そんな顔しないで、猫将軍も安心してくれ」
 そう言って、二階堂は僕の肩を軽やかに叩いた。でもそれは、二階堂の誤解だ。僕は首を横へ振り、胸中を明かした。
「二階堂が安心だと言うなら、その人達は大丈夫だって僕は信じられる。でも、僕が今こんな顔をしているのは、別の理由なんだ。僕は、恐ろしいんだよ。あの担任は二階堂だけでなく、クラス中の生徒達の人生を故意に歪ませた。その悪の巨大さを思うと、僕は恐ろしくてたまらないんだよ」
 ミシッ
 右端で寝転ぶ北斗から、歯茎の軋む音が聞こえてきた。本物の正義感と使命感を持つ稀有な人なのに、それを外へ誇示せず、内なる重荷ともせず、己の宿命として受け入れ育ててきた北斗にとって、あの担任の所業は、最も許し難い悪の一つなのだろう。小学校入学そうそう洗脳を施され、誤った学校生活が普通になってしまったクラスメイト達は、進級後の三年生や四年生を、一体どう過ごしたのだろうか。誰とも話さず目立たずいるだけで疲労困憊する級友を、新しいクラスでも作ったのだろうか。意識しないと笑うことすらできない級友を、三年生や四年生になっても率先して作り続けたのだろうか。もしそうなら、あの担任教師は・・・
「猫将軍が恐ろしく感じるのは、心配の裏返しなのかな。北斗、どう思う?」
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