僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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「眠留、俺は今、陸上選手として壁にぶち当たっている。色々試してみたがこれ以上何を試せばいいのか、俺にはそれすら分からなくなってしまった。だが昨日、俺は偶然お前の走りを見た。雨に濡れる坂道を平地のごとく駆け上がる眠留を見て、俺は確信したんだ。今の俺に必要なのは、これなんだってな。だから眠留」
 猛はここで一旦言葉を切り、顔を上げ僕と目を合わせた。そして、さっきより一段深く頭を下げた。
「勝手なのは承知しているが猫将軍眠留、その走法を、俺に教えてくれないだろうか」
「顔を上げてくれ、龍造寺猛」
 僕は、ただ嬉しかった。僕の編みだした走法を褒めてくれる人は、これまでも大勢いた。だが、その価値をこんなに認めてもらえたのは、今日が初めてだったのである。歴史好きの北斗のお陰で今の気持ちにぴったりの言葉を思いつけたことを、僕は心から感謝した。
「士は己を知る者のために死す。これは、僕が特に好きな言葉なんだ。僕は士なんて立派な人間じゃないけど、この走法をここまで理解してくれる人が現れたことが、僕は死ぬほど嬉しい。死ぬほど嬉しいって変な表現だけど、その通りなんだから仕方ない。僕はホント、嬉しいんだよ。だから猛、教えてくれなんてどうか言わないでくれ。この高速ストライド走法を二人で補い合い高め合い、そして完成させようじゃないか。どうだろう、僕と一緒にやってくれないか」
 猛は僕の申し出に呆然としてから、日焼けした顔をくしゃくしゃにした。
「テメーは格好良すぎなんだよ、眠留」
「それはお互い様だ、猛」
 今朝まで降り続いた雨が嘘のように晴れ渡った空の下、僕らは立ち上がり、高速ストライド走法の練習をさっそく始めたのだった。

「高速ストライド走法を支える柱は三本ある。一本目の柱は、腸腰筋」
「なるほど、だから眠留は歩幅を大きく取って坂道をダッシュしてたんだな。腸腰筋は鍛えるのが難しい筋肉だが、あの方法なら収縮と伸長しんちょうの双方で筋疲労を狙えるもんな」
「さすがだな猛、その通りだ」
 打てば響くヤツとの会話は楽しい。一般的に筋肉は縮む運動(収縮)によって鍛えるものだと思われがちだが、伸びる運動(伸長)のほうが筋肉への負荷は大きくなる。例えば腕の力瘤ちからこぶもダンベルを持ち上げる時より、下ろす時のほうが疲労度は大きいのだ。よって巨大な力瘤を作るならダンベルを持ち上げる時はもちろん、ダンベルを元の位置に下ろす時も丁寧に行う。その方が、筋肉は効果的に肥大するのである。
 腸腰筋についても全く同じだ。腸腰筋は脚を前に出すとき収縮し、脚を後ろへ蹴り出すとき伸長する。だから上り坂で大股走行することにより、収縮率と伸長率を平地のそれより大きくする。これが、坂道ダッシュの狙いなのだ。
「二本目の柱は大臀筋。高速ストライド走法をハムストリングスだけに頼ると、負荷が大きすぎてすぐハム肉っちゃうんだ」
「ハムストリングスの肉離れ、通称ハム肉。俺も何度も泣かされたなあ」
 猛は腕を組み目を閉じ、さもありなんと頷いた。その姿には、本格的な陸上競技者だけが持つ重みが感じられた。
 ハムストリングスは、太ももの裏の筋肉。脚を後ろへ高速で蹴り出す時に使うため、陸上選手が最も多用する筋肉の一つと言えるだろう。
「そして三本目の柱が、骨盤の軸運動。僕はそれを、でんでん太鼓運動と呼んでいる」
「でんでん太鼓。すまん眠留、俺には未知の領域みたいだ」
「初めは誰でもそうだよ。猛、でんでん太鼓はこうやって、デンデケ鳴らすだろ」
 僕は掌を擦り合わせ、でんでん太鼓を鳴らす仕草をした。それなら解ると猛も同じ仕草をする。軸をぶらさず回している様子が伺われ、僕は「それそれ」と指さした。
「でんでん太鼓は軸棒をぐらつかせず、しっかり固定して回すのがコツだ。高速ストライド走法も、それと同じ要領で骨盤を回す。回す角度はうんと少ない、10度くらいだけどね」
 僕は立ったまま骨盤をでんでん太鼓のように回した。端から見たらケツを振っているだけの失笑必至の動作なのに、猛は真剣な眼差しで僕の動きを観察し、恥ずかしがらず同じ動作をする。改めて思った。「やっぱコイツは運動音痴経験者だ。表面を見ただけで、軽んじたり馬鹿にしたりしないもんな」と。
 かつて運動音痴だった僕は、猛の気持ちを痛いほど理解できた。運動音痴の子供は、決めつけに遭うことが多い。運動音痴というだけで、軽んじたり馬鹿にしたりする大人が多数いるからだ。祖父によると昔の体育教師は特にその傾向が強かったらしく、人格否定など日常茶飯事だったと言う。おぞましい限りだが、今は関係ない事。僕はそれを忘れて、猛と過ごす今を大切にしようと思った。
「この回転運動を推進力に上乗せして走るのが、この走法最大の特徴だ。今から何度かやってみるから、見ててね」
 僕は猛の目の前を、軸運動を心持ち強調し10メートルほど走った。走行三回目で「お?」という呟きが耳朶をくすぐり、四回目で「おお」という声が鼓膜をはっきり震わせ、そして五回目の「うお~!」という雄叫びをもって僕の走りは終了した。いや、終了させられた。興奮した猛が突進してきて、僕の両肩をガシッと掴んだのである。
「眠留、やっぱお前パネーよ! でんでん太鼓の回転エネルギーを走りの推進力に上乗せする。お前どうやってこれに気づいたんだ?」
「ああ、それはさあ」
 僕は事のあらましを話した。最初は、脚を出すテンポを速めることで速度を上げようとした事。でも、テンポアップはすぐ頭打ちになった事。ならば歩幅を大きく取ろうと試みたが、それだけでは高身長の脚長選手に全く歯が立たなかった事。とここまで話した時、僕はある事に気づき口をつぐんだ。猛の目元に、小さな水滴が生まれていたのだ。
「解るぜ眠留。俺らが一生懸命工夫して歩幅を大きくしても、何の工夫もしてない高身長の脚長選手が、俺らの横をいとも容易く追い抜いて行くんだよな。あの時の気持ちったらないぜ」
 右腕で目を覆い、猛は嗚咽を必死で堪える。その様子に刺突の基礎訓練での苦悩を思い出した僕は、瞬殺でもらい泣きしてしまった。
 僕らは地面に座りグラウンドに背を向け、ただひたすら泣いたのだった。

 九州の血のなせる技か、僕より早く嗚咽から回復した猛は、去年の夏に脚を怪我したことを明かしてくれた。
「なまじバネがあったから、脚のバネに頼り過ぎちまってさ。一昔前なら陸上競技を諦めなければならないレベルで、膝とアキレス腱を壊しちまったんだ」 
 そう呟き、猛は膝とアキレス腱を優しくさすった。ごめんな、と語りかけているようだった。
 その後、僕らはこれからについて話し合った。そしてほどなく、医者の許可が出るまで猛は膝とアキレス腱を使わず、高速ストライド走法用の筋トレに専念することが決定した。対象筋肉は腸腰筋と大臀筋と、何より腹斜筋。腹斜筋は腰を捻るための筋肉なのでこの走法に不可欠だが、これは陸上走者にとって、腸腰筋以上に鍛錬が困難な筋肉だったのである。猛は自らの腹斜筋を手で押さえ、唸った。
「俺は今まで、腰を捻らず走ることを追求してきた。本当は走ると自然に腰を捻るものなのだが、それをあえて固定し、腰を強固な土台にする。その方が体を安定させることができるからだ。つまり、俺ら陸上走者は・・・」
「腰にでんでん太鼓運動を『させないため』に、腹斜筋を使っているんだよな」
 立ちはだかる道の険しさに気づいているのだろう。僕の言葉に、猛は厳粛な面持ちで首を縦に振った。
 体は非常に面白い構造をしていて、腰を捻るための筋肉を、腰を捻らないためにも使う。腰を自然に捻る運動をするさい、捻らずがっちり固定するには、腹斜筋を用いるのが一番だからだ。これを陸上走者は、体に叩き込んでいる。それをくつがえし真逆の動作をさせるのだから、並の努力で済むはずがない。猛は射貫くような眼差しを空に向け、虚空へ語りかけるが如く話した。
「それに、ただ捻れば良いわけではない。土台を捻ることで脚を前に出しやすくする事と、もう一方の脚を後ろへ蹴りやすくする事を、同時に行うのだ。いやそれどころじゃない。土台の代わりとなる強固な軸を腰を捻ることで形成し、それにより腰を固定する必要性を無くし、浮いた筋肉を推進力に上乗せする。しかもそれを、高速でやり続けるんだ。こりゃ、一年や二年でどうにかなる代物じゃ無いな」
 見ただけでそこまで理解した猛の観察眼に僕は目をむき、そして確信した。この学校でなら、猛はそれを絶対ものにすると。
「猛、湖校でならそれができるよな。最後のインターハイまで五年と二ヶ月以上残っている、この湖校なら!」
「その通りだ。普通の中学なら中三の夏の大会に間に合わせようと焦るだろうが、中高一貫の湖校なら、最後のインターハイに照準を合わせて練習できる。なあ眠留、そうは見えないだろうが、俺は急がば回れっつう言葉が好きなんだ。脚の療養もあることだし、焦らず気長にやってみるよ」
 豊富な知識と経験、そして何より猛の人柄を信頼していたが、僕は一抹の不安を口にした。
「猛、釈迦に説法だろうが、腰を捻る走りには弊害もある。腰を固定する走りより、内蔵が疲れやすいんだ。だからどうか、無理はしないでくれよ」
「ああ、無理はしない。中距離選手が高速ストライド走法で走っても、内蔵に負担をかけない方法を見つけるのが俺の役目。だから俺は、これが引き金となって体を壊すようなことは絶対しない。時間をかけ、無理せずゆっくりやるよ。眠留、安心してくれ」
 猛には、人を安心させる雰囲気がある。コイツはマジで戦国大名の龍造寺氏の血を受け継ぐ、器のでかい男なのだろう。なんてとりとめない想いを猛は続くやり取りで、僕にあっさり確信させた。
「眠留、俺はこの走法を安全に使いこなす最初の中距離選手になる。期待しててくれ」
「ったく、お前は格好良すぎなんだよ、猛」
「それはお互い様だ、眠留」
 猛はニカっと笑い、僕に拳を突き出す。僕も拳を握り猛に突き出す。合わされた二つの拳から、コンッと軽妙な骨の音が響いた。
 ――掌の音もいいけど、骨の音も心地よいものだな。
 新しい友の隣で、僕はそう思ったのだった。
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