僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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 北斗と一緒に教室へ足を踏み入れるなり、白銀さんの清らかな香りと昴の涼しげな香りに、ふんわり包んでもらえた。僕は夢見心地で、この素晴らしい社会を造り上げた善玉菌へ想いを馳せて行った。

 事の発端は約四十年前、日本の某繊維メーカーが画期的な新繊維、無臭繊維を開発したことに始まる。その新繊維に、剣道協会が飛びついた。無臭繊維を用いた臭わない防具と最新消臭機を学校に提供することで、剣道人口の拡大を図ったのだ。その試みは、二十年の時を経て花開く事となる。剣道ではなく、薙刀という形を取って。
 インターハイ薙刀個人三連覇、インカレも大学入学そうそう二連覇を成し遂げた天才薙刀使いが、ある善玉菌を学会に発表した。それは、女性を花の香りにする善玉菌だった。健康的な食事と規則正しい生活と、汗を沢山かく運動をしている女性にその善玉菌はとりわけ効果を発揮し、女性達は運動と生活改善を心がけるようになって行った。なかでも薙刀は、絶大な人気を博した。くだんの天才薙刀使いが、折り目正しく見目麗しい、日本女性の鑑たる女性だったからだ。薙刀道の躾面も大いに注目され、そのお陰で言葉遣い正しく所作美しい大和撫子達が、この国の少女層を席巻して行った。この現象は日本に新たな価値観をもたらし、そしてそれが、日本にかつてない社会を形作っていった。ナデシコ株と命名されたその善玉菌は、大げさではなく、この国を変えてしまったのである。
 男性も大いに変わった。汗の成分が異なるため男性は花の香りにならず無臭になるだけだったが、精神面における女性への敗北感を拭いきれなくなった男性達は、男性特有の言動の汚さを忌避することで女性とバランスを取るよう努め始めたのだ。少年にそれは最も顕著で、子供時代特有の正義感も手伝い、少年達はこぞって心の強さを追い求めるようになって行った。自己中や決めつけをしない潔い少年を少女たちも賞賛したため、心の強さは現代の少年にとって最も価値ある事となっている。
 ナデシコ株による女性の体香の変化には、まだ幾つか謎が残されている。その最たるものは「花そのものの香りではなく、花をイメージさせる香りがすること」であろう。例えば昴は一年前まで、チューリップそのものの香りではなく、チューリップをイメージさせる香りに包まれていた。香り成分の存在は科学的に立証されていても、その成分が人のイメージに作用する仕組みはまったく解明されていないのだ。また、心の高貴な女性は清らかな香りを纏うとされているが、湖校生にそれを疑う者は皆無だった。なぜなら朝露の白薔薇という、最高の生き証人がいるからである。
 以上が、花の香りの基本。翔人の訓練を経て僕の嗅覚が鋭敏になったのは確かだけど、香りは現代社会において至極普通のことと言える。特に湖校は一学年40人、全校で240人の部員数を誇る東日本随一の薙刀強豪校なため、湖畔の花園と謳われているほどだ。それが湖校に「騎士」と呼ばれる生徒達を生んだ経緯は、複雑だからまた今度にしよう。ただ、白銀さんについては整理しておかねばならないと思う。回想するのもつらい箇所が、一か所あるんだけどね。
 入学日のHR前、白銀さんと楽しく過ごしていると、北斗と昴が僕らの場所にやって来た。何か言いたくて仕方なさそうにしている二人が何を言いたいか嫌ほどわかった僕は、二人を牽制すべく、白銀さんに二人を礼儀正しく紹介した。二人も、礼儀正しく彼女に挨拶してくれた。そんな三人の様子に、「少なくともこれで、初日から僕の暴露話が始まることは避けられただろう。良かった良かった」と、僕は一安心した。だがそのとたん、白銀さんの一言でそれは消え去ることとなった。彼女はとびきりの笑顔で言った。「私が一人寂しく席に座っていたら、猫将軍くんが話しかけてくれたの」と。
 それからの出来事は思い出すのもつらい。彼女の言葉を聞くや北斗は僕をヘッドロックし、その固定された頭を昴が両手でぐしゃぐしゃにしながら、二人は二連マシンガンの如く、僕のヘタレ人生の暴露話を始めたのである。そしてその挙げ句、二人は揃って泣き始めた。二人は僕の座右の銘を知っているから、喜んでくれたのだと思う。胸が締めつけられるほど嬉しかった。とはいえ顔から火が出るほど恥ずかしいのも事実だったので、泣きじゃくる二人に茫然自失の彼女へ、僕は必死のフォローを入れた。
「ええっと白銀さんは、遠くから湖校にやって来たのかな。寮生活をしているとか」
 湖校には遠方から入学する生徒が非常に多く、席に一人でいた彼女もそうなのかなと僕は考えていたのだ。けど彼女は、予想外の返事をした。
「少し遠い場所から来たけど、寮生じゃないの。わたし湖校で、どうしても薙刀をしたかったから」
 その言葉で僕はようやく、自分の間違いに気づいたのだった。
 僕はそれまで、教室を満たすこの清浄な空気は、途方もなく高価な最新式の空気清浄機が作り出したのだと考えていた。だがそれは間違いだった。薙刀をしているという彼女の言葉で、目の前に座るこの少女こそが、この清浄そのものの空気を作っていたのだと、僕はようやく気づくことができたのである。
 ただこれは、特別に嗅覚の敏感な人だけが感じる事なのかもしれない。現に昴は「えっそうなの、私も薙刀部だよ、きゃ~」と驚きながら大はしゃぎしていたし、北斗も「薙刀部だったんだ」と意外そうに呟いていたからだ。入学してから今朝までの足かけ五日を振り返っても、彼女の清浄な香りについての話を、僕は一度も耳にしていない。そのせいで僕は最近、頭を抱えてばかりいる。彼女の類い希さに気づいているのはこの学校で僕だけなのかもしれない、なんて考えると居ても立ってもいられず、ウワーっと頭を抱えてしまうようになったのだ。やばい、今も考えちゃったから、ウワワ――!!
「あんた、またしょーもないこと考えているんでしょう」
 教室の入り口で数十秒間ボケ~っとしたのち頭を抱えてしゃがみ込んだ僕の頭上から、昴の心底呆れた声が降り注いだのだった。
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