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大浴場での邂逅
しおりを挟むがらりと硝子戸を開くと、その先には異様な光景が広がっていた。
平たい石をいくつも並べた洗い場には籐の椅子。私がすっぽり入れそうなぐらいの大きさの水瓶に、四角い石を切り出したような注ぎ口からお湯が零れ続けている。
手桶があり、木製の椅子がある。
洗い場はそれほど大きくない。
その先にあるのが、お風呂なのだろう。
洗い場から一段低い位置にあるお風呂は、ごろごろした岩に囲まれている。
果てが見えないぐらいに広い。
見渡した先には、湯気がけぶっている。
見上げた空はどこかぼんやりと霞んでいる。薄い雲がかかっているようで、太陽がどこにあるのかはわからないけれど、寒くもないし曇っているわけでもない。
ここは湖なのだろうかと錯覚してしまうほどに、広いお風呂だった。
洗い場からは、屋敷が見える。
横にも広く、縦にも長い。何回建ての家なのだろう。屋敷の屋根もまた、霞がかって見えないぐらいに、小高い位置にある。
私は、ふと、溜息をついた。
私の今までいた世界と、何もかもが違う景色だ。
私はしばらく、硝子戸の前で立ちすくんでいた。
一歩足を踏み出すのも、ためらってしまう。
私はここにいてはいけない。私なんかが――申し訳ない。
だって私は、鬼の子、なのに。
指先が、小さく震える。どこまでも続く露天風呂は、薄絹一枚まとっているだけでも肌寒さを感じないぐらいにあたたかいのに、皮膚がひりついた。
「……っ」
お母様の、怒鳴り声が聞こえた気がした。
私は身を竦ませる。
やはり私は夢を見ているのかもしれない。目を伏せて、あげると、いつもの六谷家にいて、私はお母様に――。
「……は」
けれど、体の痛みも、あつさも、いつまでもおとずれなかった。
私は伏せていた顔をあげる。そこにはやはり、大きすぎるほど大きな、湖のような露天風呂が広がっている。
唇を噛んで、一歩踏み出す。
夢は続いている。夢ではないのだと、受け入れることを、心のどこかで拒否している。
洗い場の水瓶の前にやってきて、手桶で中のお湯をくんだ。
お湯はとてもあたたかい。
あたたかくて、お湯に触れると指先がじんと、痺れる。
「……お湯」
小さな声で呟いた。
お湯に触れるのは、いつぶりだろう。
手桶にくんだお湯を肩からかけると、息が詰まる。
どういうわけか、涙があふれて、お湯と一緒に石の上へとぽたぽたと落ちた。
私は頭から、何度もお湯をかぶった。
涙はお湯と混じって、頬を伝っているのがどちらなのかは分からなくなった。分からなくなってしまったから、すこし安心した。
お湯のあたたかさも、忘れていた。
もう何年もずっと、お風呂掃除の時に一緒に体を洗っていたから。
「ありがとうございます」
私は水瓶にむかって、手を合わせた。
お湯を使えることに、申し訳なさを感じる。私が返せるものは、お礼を言うことぐらいしかない。
私にはもったいないものだと、罪悪感が足元からせり上がり、蛇のように全身に絡みついてくる。
体はあたたまったのに、心の奥が底冷えするように冷たい。
水を頭からかぶったり、あびせられたり、嘲笑されるほうが、私には似合っている。
こわい。
わからない。
なにがこわいのか分からないけれど、ただ、怖い。苦しい。
体が勝手に震える。
私は石の洗い場に膝をつくと、自分の体を抱きしめた。
「……こちらにおいで」
優しい声音に顔を上げると、湖のような大きなお風呂の水面から、大きな顔がのぞいていた。
それは、見たこともない動物だった。
翡翠色の瞳は、縦に一本筋がとおっているような、瞳孔が中央にある。
青みを帯びた銀色の美しい鱗のある体は長いのだろう。遠い水面の下に、影がさしている。
顔は長く、牙がある。二股に別れた角が二本と、長い髭。顔も鱗に覆われている。
蛇に似ているけれど、違う。
声は、低く落ち着いた男性のものだ。
「こわがらなくて良い。龍神の湯は、傷を癒す。君の背中の傷も。癒える」
「……蓮華さん?」
姿かたちは違うけれど、声が同じだ。
私を助けて、ここまで連れてきてくれた方と、その――龍は、同じ声をしている。
龍はぱちぱちと数度瞬きをした。
「男の姿では、君がこわがるかと思った。……いや、待ち伏せをしていた、というわけではない。中にいたら、偶然、君が来た。隠れているというのは、どうにも座りが悪い。だから、こちらの姿に」
「蓮華さんは……いえ、蓮華様は、龍神様なのですね」
私は、龍神様の花嫁になるのだと、池に落とされた。
だから多分、蓮華さんのところに来たのだろう。
蓮華さんは神様だ。――蓮華様。そう、呼んだ方が良い。名前を呼ぶことさえ、烏滸がましいのかもしれないけれど。
「……蓮華で良い。そう、畏まらずともかまわない」
「そういうわけにはいきません」
「……君の、好きなように呼ぶと良い。体が冷える。蜜葉、こちらにおいで」
龍は言った。
私は、こくりと頷いた。
蓮華様の言葉に、あがらえない何かを感じた。けれど、不思議とこわくはなかった。
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