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千人露天風呂

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 コカゲとアカツキに手を引かれて、私は部屋から出た。
 引き戸を抜けると、長く広い廊下が続いている。廊下には扉が何枚もあって、天井には丸いランプが整然と並んでいる。
 柔らかい光に照らされた廊下を、まっすぐに進んでいく。

「れんかさまは、三度の飯よりお風呂好きなのです。れんかさま、というよりは、龍神族の方々はみんなお風好きなのですね。お風呂でも、水浴びでも、海水浴でも、なんでも良いのですけれど、なんせ水につかっているのが好きなのですよ」

 廊下を進みながら、コカゲが言った。
 コカゲとアカツキが歩くたびに、長い尻尾がひらひらと揺れている。

「アカツキたち猫人はお風呂が嫌いなのですけれど、お風呂に入らないと龍神族の方々が怒るので、できるだけ入るようにしています。三日に一回ぐらい」

「お風呂……」

 お風呂にも入らない薄汚れたお姉様――そう、朱鷺子さんに良く言われていた。
 お風呂掃除の時に一緒に水浴びをすませてはいたけれど、ゆっくりお湯に浸かった記憶は、もうずっとない。

 コカゲもアカツキも愛らしく、身なりも髪もきちんと整えられている。
 けれど私は、きっとみすぼらしいだろうと思う。
 大きな御屋敷で客人扱いしてもらうのには、とても相応しくないぐらいに、薄汚れている。

(ここから、逃げ出したい。どこか、遠くに。いっそ、死んでしまえたら良かったのに……)

 優しくされて、嬉しい。これは本当だ。
 けれど、落ち着かない。どうにも息苦しい。分不相応だと、感じる。
 私はこの場所に相応しくない。

 いつかさめる夢だと思えば、もっと気を楽にして受け入れることができたのかもしれない。
 けれど夢でないとしたら、私は――これから、どうしたら良いのだろう。
 ここにいてはいけないような気がする。

「みつさま、お風呂はひとりで入ることができますか? コカゲが、お手伝いしましょうか?」

 どうしようもない所在のなさを感じていたけれど、コカゲたちの手をふりほどくことなどできなかった。
 私は気づくと、赤い暖簾のかけられた、どことなく湿った空気が満ちてくる引き戸の前へと立っていた。

「この先がお風呂です。れんかさまこだわりのお風呂。アカツキが千人は一度に入ることができるような、千人露天風呂です。千人? 二千人ぐらいは入れそうです、アカツキは小さいですからね」

「れんかさまが千人は入れるのですから、アカツキなら五千人は入れるのでは?」

「そうかもしれない、コカゲは頭が良いな」

「そうでしょう、そうでしょう」

 アカツキとコカゲが、両手を広げて「れんかさまはこんなに大きいですからね」と教えてくれる。
 確かに、蓮華さんはおおきいけれど、二人の言う蓮華さんは、私の想像している蓮華さんよりももっと大きいようだった。
 二人が小柄だから、そう感じるのかもしれない。

「みつさま、お風呂はとっても大きいのですよ。アカツキたちが手伝いましょう。みつさまが、お風呂で迷子になってしまうかもしれません」

「ありがとうございます。でも、ひとりで、大丈夫です」

「みつさま、遠慮をしていませんか?」

 コカゲが私の手を引いて、心配そうに見上げてくる。

「あの、ごめんなさい。そういうわけではないのです、ただ、お風呂を手伝って貰うのは、恥ずかしい気がするので」

「わかりました。そうしたら、コカゲたちは、お召し物の準備をして待っています。湯衣は中にありますので、好きなようにつかってくださいね」

「みつさま。ゆっくり入ってくださいね。アカツキはお湯につかるなんて一分が限度なのですが、れんかさまなどは暇さえあれば一時間でも二時間でも、お風呂にいるのですよ。それも一日三回も、四回も。信じられません!」

「それはれんかさまだけではなく、龍神族の方々は皆そうなのです。この千人露天風呂はれんかさまの専用なのですが、みつさまはこちらを使って良いとれんかさまから聞いたので、安心してゆっくりしてくださいね。他のお風呂は、龍宮にお仕えする龍神族の方々がいるかもしれませんが、ここは貸し切りです」

「……蓮華さんとは、もしかして、とても偉い方なのですか?」

 人の名前を呼ぶことが苦手なのだろうか、コカゲもアカツキも、蓮華さんや私の名前をよぶときは、言葉がとても拙くなる。
 二人は『蓮華様』と呼んでいる。私のことも、『蜜様』と。
 これはきっと、私がお客さんだからだろうと思うけれど、蓮華さんは――。

「れんかさまは、龍宮の主なのですよ。幽世の、三大勢力のひとつ。龍神族の王なのです」

 コカゲが、どこか誇らしげに言った。

「そんなことは、気にしなくて良いのですよ、みつさま。お風呂の方が大事です」

 アカツキが私の背中をぐいぐい押した。
 コカゲが目の前の引き戸をあけてくれる。引き戸の先は、板張りの床になっている。
 大きな鏡のある、広い脱衣所だ。

 六谷家の庭が、脱衣所にすっぽりと入ってしまうのではないかというぐらに、広い。
 庭の井戸を、思い出す。
 今頃誰が、水をくんでいるのだろう。誰がお風呂をわかしているのだろう。
 新しいひとを雇うのだろうか。もう、私の居場所はあの家にはない。
 私は嫌われて、見捨てられた。

 ずっと入り口で立っているままというわけにはいかないので、私は脱衣所の奥まで進んだ。
 アカツキとコカゲの姿が見えなくなり、一人になると、六谷家での記憶が蘇ってくる。

「私は、何をしているんだろう……」

 小さな声でのつぶやきは、存外大きく広い脱衣所に響いた。
 立派な籐の長椅子が、いくつかおかれている。
 棚には籠があり、白いふわりとしたタオルが綺麗にたたまれて、たくさん積まれている。
 タオルの横には、お風呂で着るのだろう、薄く白い着物が、こちらも綺麗にたたまれて積んである。
 私は、今着ているつるりとした肌触りの着物を脱いだ。
 その下にはなにも着ていない。

 大きな鏡に、自分の姿がうつっている。
 縛られたあとも、怪我のあとも、肌にはなにものこっていない。
 癖のない髪は、ぱさついている。長すぎると邪魔だけれど、結わくことができないのも困るので、中途半端な長さで自分で切った髪は、毛先が不揃いで不格好だった。
 肉付きは悪く貧相な体と、艶の無い髪。顔立ちは――誰に似ているのだろう。
 お母様にはあまり似ていない。
 お父様にも、似ていないように思う。

 黒い睫毛に縁取られた、深い闇色の瞳が、鏡の向こう側から私を見つめている。
 私は鏡から視線をそらすと、薄い着物を纏った。

 薄い着物は私にはかなり大きかったけれど、なにも着ないよりは安心感があったので、腰ひもを結ぶと脱衣所の向こう側にある曇り硝子のはめられた引き戸へと足を進めた。


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