ハロウィントリップ!〜異世界で獣人騎士に溺愛された話〜

のらねことすていぬ

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失踪

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 部屋の中が明るいから、今はきっと朝だろう。窓がほんの少しだけ開かれていて爽やかな風が入ってきている。でもきっとその窓も、彼が外に出る時には閉じられて高い位置にある鍵を掛けられてしまう。外から僅かに深緑の匂いがする。綺麗に手入れされた、アズラークの家の庭の木々から香っているのだろうか。
 目を閉じたまままま外の気配を感じていると、俺の体はふわりと誰かに抱き起された。

「ぅあ、」
「サタ、起きてくれ。食事だ」

 さっき寝たばかりなのに。昨日だって、寝たのかそれとも気絶したのか分からない。くたくたで覚醒しない体を揺すり起こされて俺は寝ぼけた声を出した。だけどそんな俺を寝かせてくれる気はないのかアズラークは俺を膝に抱えると、ベッドの上でシャツを羽織らせる。

「ただでさえ細いんだ。俺が外に出る前に少しでも食べてくれ」
「ぅ、……ん、」

 渋々ながらに瞼をこじ開ける。面倒だし腹なんて減ってないと思ったけれど、俺の背後でどこかほっとしたような息が吐かれて、それにしょうがなく口を開いた。いつの間に用意したのか食事がサイドテーブルに置かれていた。
 アズラークはそれを、ようやく瞳を開いた俺の口に押し付けてくる。少しぬるいけれど、とろりとして滋味深いスープと、それから獣人に比べて顎の力のない俺でも噛み切りやすい柔らかなパン。アズラークは、彼の手には小さく見えるスプーンを何度も彼は俺の口へと差し出してくる。それらを従順に、まるで小鳥の雛のように、口元に運ばれた食事を嚥下していると、ぽつりと静かな声が落とされた。

「……今日は帰りが遅くなる」

 珍しい。帰りが遅くなることじゃなくて、俺にそれを言ったことだ。アズラークは俺をここに閉じ込めてから、彼がいつ帰るのかなんて俺に言ったことはなかった。いつだってふらりと帰ってきて俺を苛んだ。俺が起きていようが寝ていようが関係なく。

 どうしたんだろうか。何を言いたいんだろうかと、スープを飲み込んだ俺は首を捻ってアズラークと視線を合わせようとする。すると食事の催促だとでも思ったのか、アズラークは新しいパンを俺の口に押し込んだ。そう言う意味じゃないと思いながら咀嚼しているとアズラークは口を動かす俺を静かに見つめて。

「前に話した犯罪組織に人質が取られて……俺がどうしても行かないといけなくなった。すぐ片付けて戻る」

 そう言うと彼は深い深いため息をついて、手にしていたスプーンをテーブルへと戻した。膝に乗せた俺の、少し膨れた腹をゆったりとした手つきで撫でる。

「本当は他の獣人をこの部屋に入れるのは嫌なんだが、お前を飢えさせるわけにはいかないからな。食事はハロルドが持って来る」

 ああ、そうか。いつもアズラークがいないと俺に食事は与えられない。なにしろメイドが掃除に入るのも禁止しているくらいだ。とっくに時間の感覚なんてなくなっていたし、寝てばっかりの俺は別に腹なんて減らないんだけど。でもそれで何日も飲まず食わずで放っておかれるのも嫌なので、俺は口の中のパンを飲み込むと頷いた。

「だが変なことは考えるなよ。夜半過ぎには戻る」

 俺の腹を撫でていた手がそろりと胸元まで上がってくる。そのまま妖しげな手つきで素肌を滑る。手つきには乱暴なところなんて何もないのに、瞳だけはすっと細められていて危うげな色をしていて、ぞくぞくと背中を寒いものが這う。でも俺は体を這っていたアズラークの手を掴んで、掠れてしわがれた声を出した。

「ん、気を付けて、ね、」

 アズラークは騎士だ。強くて頑丈で、俺なんかの何十倍も何百倍も強い獣人だ。だけど怪我をするかもしれないし、傷ついたら痛い。前に獣性の強い獣人は、歩き出せば赤ちゃんであっても誰も心配しないなんて彼は笑っていた。でもどんなに強くても、アズラークが危険な目にあうなら心配だ。

 犯罪組織って前に言っていたところだろうか。俺がレオンと一緒に住んでいたころは犯罪者の巣みたいなのもそこかしこに一杯あった。スラムの生活に慣れたレオンが気を付けていてくれて俺は危ない目にはあったことないけど、そんなところに、しかも人質を助けにいくなんて危険極まりない。

 それが彼の仕事だと分かっていてもどうか無事にとその乾いた手をさする。どうか、この大きな手に一筋の怪我もしませんようにと、そう願うようにそっと撫でた。

「サタ」

 すると俺の体を這っていたアズラークの手がぴたりと止まって、どこか息を呑むような音が聞こえた。


「サタ……、お前は」


 俺は、なんだろうか。俺みたいな弱い男に心配されるのは不愉快だとか?ぱっと手を放して彼の顔をみようと首を捻る。だけど、不意に後ろから太い腕に抱きしめられて身動きが取れなくなった。
 俺を絞め殺す勢いでぎゅうと抱きしめて、首筋のすぐ後ろで唸るような声が聞こえた。低く低く、まるで懊悩が漏れ出るような唸り声。ぎりぎりと歯ぎしりのような音すら聞こえて。

「お前は、もし俺が……」

 その合間から呼吸音に混じって、苦しむような響き。もし、アズラークが。なんだ。なにを彼は言おうとしているんだ。強く抱きしめられた腕の中で、もぞりと動く。

「アズラーク……?」
「いや、何でもない」

 彼の不審さに首を傾げる俺に、アズラークは首を横に振ると腕の力を抜いた。圧迫感が薄れてほっと息を吐くけどそんな俺をアズラークはじっと見つめたままだ。言葉の続きはなんだったのかと思うけれど、彼は言葉を口の中で何かを呟いて、そして飲み込んでしまった。

 部屋の中に沈黙が落ちる。そのまましばらくの間逡巡したアズラークに、少し居心地の悪さを感じ始めたころ、彼はそっと俺の髪を撫でると呟いた。

「俺が帰ってきたら、そうしたら……少し話をしよう」
「……話?」
「ああ。お前の望む通りにはできないかもしれない。だが……」

 そう言って言葉を区切ったアズラークは、俺の項に唇を這わせる。また噛みつかれるのかと身を固くした俺の予想に反して、彼はそこに小さく甘く吸い付いた。

「アズラーク……?」

 困惑する俺を残して、アズラークはベッドから降りて。ただ茫洋と彼を見上げる俺の頭を撫でると、そのまま部屋から立ち去ってしまった。

 分からない。アズラークの苦々しい表情。苦しそうな瞳。それはまるで、痛みを抱えているようだ。

 彼が何を考えているのか分からない。だけど……彼が帰ってきたら、なにか少し変わるのかもしれない。彼の行動の端から感じる苛立ちや怒りや、不可解な行動が、少し分かるかもしれない。そう思うとふっと肩が軽くなるような気がして、俺はまだ疲れの残る体を、どさりとベッドへと再び沈めた。







 だが、その夜に部屋の扉を開いて入ってきたのは、予想していた顔ではなかった。遅くなったとしてもアズラークが訪れるとばかり思っていたのに、そこに現れたのはこの屋敷の老年の執事だった。

「あれ、ハロルドさん?」

 なんだろうか。彼は今日の食事を届けるために俺の部屋を開けてくれた。だから彼がカギを持っているのは知っている。だけど今は深夜を越えた時間だ。こんなに遅く俺に用事なんてないはず。なぜだろうか嫌な予感がする。じわじわと、胸に黒いものが広がった。

 戸惑う俺に、ハロルドさんは静かに一歩室内へと踏み入ってくる。扉は開け放たれて十分な距離は保ったまま、彼は俺の顔を真っすぐ見つめた。

「サタ様、どうか落ち着いてお聞きください」

 蒼褪めた顔をした老練な執事は、今にも倒れそうな風情で弱々しく言葉を吐いた。

「旦那様が、……旦那様が、失踪なさいました」


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