わたしはただの道具だったということですね。

ふまさ

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 妙に冷静になってきた頭で、それがどうしたの、とナタリアが冷めた口調で訊ねる。オーブリーは、しかもねと、どんどん前のめりになる。

「元旦那が、どうしようもないクズだったみたいでさ。女好きのギャンブル好きで。借金もあったみたいだけど、離縁が成立したあとでそれを知ったみたいでね。しかも勝手に保証人にされてたみたいで、返済義務がリリアンにのしかかってきて……可哀想だろ? 不幸だろ?」

 確かに可哀想だとも不幸だとも思うが、話の流れから、どうにも同意し辛いナタリアが黙り込む。

「聞くと、借金はそれほどの額じゃなかった。ぼくの個人資産すべてを出せば、返せる額だったんだよ。だからぼくは、リリアンに申し出た。その借金、ぼくが返してあげるよって。そしたらさ、彼女、泣きながら喜んでくれて。しかも、それだけじゃなくてっっ」

 興奮から、オーブリーが両手を大袈裟に動かす。息も荒くて、ナタリアは眉をひそめた。

「ぼくのこと、本当は小さな頃から気になってたって! それで、借金まで肩代わりしてくれるぼくの優しさに惚れてしまったって! ぼくもう、夢みたいで!!」

 子どもみたいに無邪気にはしゃぐオーブリーに、ナタリアの心が冷えていく。

「──小さな頃からずっと好きだった彼女に告白されて、付き合いたいから、わたしと離縁したいと?」

 ズバッと言い当てられたオーブリーは、ええと、と目線を泳がせた。

「……実は、その通りなんだ。ぼくはずっと、リリアンのことが好きで、諦められなくて」

 ナタリアは、ぐっと奥歯を噛み締めた。

「……じゃあ、わたしのこと、好きでもなんでもなかったのね」

「い、いや。リリアンのことを忘れるためにも、きみのことを好きになろうと努力はしたよ。父さんからも、貴族令嬢のきみとの結婚を強く勧められていたし……」

 ごにょごにょと言い訳するオーブリーだが、なんのフォローにもなっていないことに、果たして気付いているのだろうか。

「……好きだって、結婚してほしいって言葉は、嘘だったのね」

「嘘っていうか……家のためっていうか。でも、誤解しないでほしい。決して、きみのことが嫌いになったわけじゃないんだ」

 言葉の刃で、ナタリアの心を何度もグサグサと突き刺している自覚がないのか。オーブリーはテーブルの上に、巾着袋を置いた。

 ジャラ。なんの音かと眉を寄せる。オーブリーは、これをせめてきみに、とそれを差し出した。

「少しだけど、お金が入ってる。ぼくは不倫したわけじゃないから、本来は慰謝料なんて払う必要はないけど……身勝手だという自覚はあるから」

「…………」

 手のひらにすっぽりと収まりそうな、小さな巾着袋。リリアンの借金額からすると、天と地ほどの差があるのは明らか。

「…………はっ」

 情けなくて、悔しくて。涙が出そうになった。ナタリアが応じなければ、離縁はできない。これから個人資産をすべて失うことになるのに、それでも──少額とはいえ、お金を用意するとは。よほど、早く離縁したくてたまらないらしい。

「……あの、ナタリア。リリアンは本当に誰からも好かれる人間で、ぼくの他にも、たとえ自ら借金してでも手に入れたいって男はいくらでもいると思うんだ。だから……」

「だから、早く離縁してくれって?」

 息を呑んだオーブリーだったが、やがて、こくりと頷いてみせた。

 身勝手だとか。そんな言葉ですませられるほど、これは簡単なことなのだろうか。

 もう思考はぐちゃぐちゃで、でもオーブリーの前では泣きたくなくて。ナタリアは爪が食い込むほど強くこぶしを握った。

「……離縁届は」

 最後まで言い切る前に、オーブリーが目を輝かせ、鞄から離縁届を取り出した。テーブルの上に置かれたそれをじっと見る。オーブリーの名がすでに記入済みであること。そして証人欄に、リリアンの名前があることに気付いたナタリアは、薄く笑ってしまった。

 デリカシーがないとか。これはもう、そんな次元を超えている。

(……二人は、似たもの同士なのね)

 ふざけるなと怒鳴り散らしたいが、もう、そんな気力もなく。目の前の相手が、常識がまったく通用しない宇宙人のようにすら見えてきた。

「……ペンを」

 ナタリアが呟くと、オーブリーは「! あ、あるよ!」と、鞄からペンを取り出し、両手でそれをナタリアに差し出した。

 ナタリアはそれを無言で受け取ると、離縁届に自分の名前を記入した。オーブリーが、ありがとう、と涙を浮かべる。

「ぼくの幸せのために……こんなにすぐ決断してくれるなんて。きみは本当に、優しい女性だ」

 それには答えず、ナタリアはすっと立ち上がった。

「これから荷物をまとめますので、少し待っていてもらえますか?」

「? どうして? あ、そうか。離縁したら、きみはここを出て行かないといけないもんね。でも、いますぐ追いだすなんて酷いこと、ぼくはしないよ?」

「追いだされるまでもなく、とっとと出て行きますからご心配なく。荷物をまとめたら、二人で役所に離縁届を出しに行きましょう。離縁届は、二十四時間、提出可能ですから」

 そうか。オーブリーが気の毒そうに項垂れる。

「……きみはぼくを好きだったから、最後の瞬間まで、ぼくと居たいんだね」

「違います。お互いに、きちんと離縁届が受理されたか確認をした方が安心できると思ったからです。あなたがいいなら、一人で行きます」

「そんな強がりを……わかった。荷造り、手伝おうか?」

「結構です」

 言い捨て、ナタリアは応接室を出て行った。急に敬語を使いはじめたナタリアに気付いてはいたが、オーブリーは気付かないふりをした。それが気遣いだと思ったから。

「……ナタリアはぼくと違って、ぼくを愛していたからなあ」

 傷付けた。その自覚はある。でも、こればかりは仕方ない。だって、好きになれなかったんだ。忘れようとしても、やっぱりナタリアはリリアンの代わりにはなれなくて。そしたら、本物が手に入るチャンスに巡り会えた。こんな奇跡、逃せる男がはたして何人いるのだろう。

「……最後に。誠心誠意、ナタリアに謝罪しよう」

 

 そうして。荷物をまとめたナタリアと一緒に役所に赴いたオーブリーは、離縁届を提出した。受理されたとき、ごめんねと謝罪したが、ナタリアには綺麗に無視されてしまった。

 苦笑するオーブリーにかまわず、役所を出たところで「では、これで失礼します」と、オーブリーが住む屋敷とは反対方向に足を向けたナタリア。空を見上げればもう、日暮れで。さすがにこれからの時間に女性の一人歩きは危険だと、オーブリーが呼び止める。

「ねえ、ナタリア。行くあてはあるの? ないなら無理しないで、一緒に屋敷に戻ろう。あるなら、送るから」

「いりません。移動は、馬車でしますので」

「そんな、もったいない……」

「他人のあなたにどうこう言われる筋合いはありません。さよなら」

 屋敷を出てから一度も視線を合わせることなく、ナタリアは去って行った。原因が自分にあるとはいえ、これまで好意を向けてくれていた相手に冷たい対応をされ、無責任にも、オーブリーは少し傷付いていた。



 
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